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「終わりの町で鬼と踊れ」12話

絶望するにはまだ早い

 俺は隠れ家に隠してた包丁やらカセットコンロやら、粉末を詰め込んだペットボトルを取り出して、リュックに詰め込んだ。
 また亨悟を自転車の荷台に乗せて、ひたすら漕ぐ。紗奈はさっきと同じように俺の横を走っている。

 日は昇ったが、空を覆う雲がどんどん分厚くなって、ソーラー自転車は役に立たない。しかも潮風が強くて、全然進まない。ただひたすらもどかしかった。 
 俺は一昨日の天神からの戻りと同じように、また愛宕大橋を進む。だけど空が澄んでいたあの時と違って、暗雲の下の海は荒れて暗い。

 荒れ狂う風に紛れて、爆音が聞こえてきた。
 バイクが数台、音が追ってくる。俺たちのことを待ち伏せていたのか知らないが、まだいたのか。ほんとにしつこい。

 波に荒れた海にも、灯りが見える。
 ヤクザだか吸血鬼だかわからないが、姪浜の渡船場からじゃなくたって、船があれば能古島には来られる。
 ヨットハーバー、沈みかけの長浜の漁船、博多ふ頭、海の中道、天神の出会い橋。海に停泊している遊覧船。それとも全く別のところから。いくらでも。
 分かっていたことだが、焦りが募る。

 全員殺して、島のことを守らないといけない。
 ――こんな天気、七穂の喘息も心配だ。

 俺は迷わず、橋のすぐ横の住宅街に曲がった。団地の中をジグザグに走り抜けると、その先は住宅街マリナタウンだ。
 こじゃれた家の並ぶ辺りは、迷路みたいになっている。知らずに入り込んだら、通り抜けることもできない。
 爆音がついて来るのを確認しながら、路地を曲がった。

「頭を下げろ!」
 かがみながら叫ぶと、紗奈は走りながら、慌てて頭を下げる。

 こういうことがあろうかと、この辺りは罠を仕込んである。道路にピンと張ったワイヤーに、紗奈のパドルが少し引っかかった。

 その後ろを、爆音が追いかけてくる。
 バイクで突っ込んできた奴の上半身が、ワイヤーに真っ二つにされて、吹っ飛んでいった。
 後部席に二人乗りしてた奴は、運転手を無くしたバイクごと壁に激突する。空が暗いおかげで、ワイヤーが目立たなかったのが幸いした。

 続いてきたバイクの運転手は、頭を下げてワイヤーを避けた。
 それを見て紗奈は、手近なカーブミラーを力いっぱい蹴りつける。蹴倒された鉄の棒が、ヤクザの脳天にぶつかって、バイクごとひっくり返った。

 向かってくる奴をパドルで叩きのめしたのを横目に見ながら、俺は紗奈が格闘してる間にも、ぐいぐいと自転車を漕いで進んでいた。

 何も心配なんか必要ない。あいつは吸血鬼だ。
 走って追いついてくるのを見て、俺は思わず言っていた。

「なんか元気だな」
 朝見かけたときも、病院から出てきたときも、ふらふらしていたくせに。
 紗奈は、そうかな、とつぶやく。

「お前の血のおかげかな」
 あーあ、と亨悟が後ろで声を上げた。
「なんかお前らヤラシーな。ずるい」
「うるせえ黙って掴まってろ」

 ジグザグに進みながら、海へ向かう。そうしてる間に、大粒の雨が叩きつけるように降り出した。 
 視界も悪いし、体が重い。本当にタイミングが悪い。

 学校の前を通り過ぎて、渡船場へ差し掛かった時、前方から銃声が鳴り響いた。銃弾が俺たちをかすめて、間近の木陰に弾ける。いや、木陰にいた何か。

 ――吸血鬼ども。

 この道は、地下鉄駅へもまっすぐに続いている。あいつら、来てやがったのか。

 再び銃声が弾ける。チケット売り場の窓口にライフルを据えた津崎さんが、渡船場で待ち構えていた。
 銃声が響くたび、俺たちを追って来てたヤクザたちがひっくり返っていく。

 俺は渡船場のバス乗り場に、ノーブレーキで滑り込んだ。亨悟が地面に転がり落ちる。
 俺も自転車を乗り捨てて、飛び降りた。チケット売り場に駆け込む。

「津崎さん!」
 元自衛隊の津崎さんは表情ひとつ変えず、こちらを見もせず、弾を装填しながら言った。

「ほんとにお前は無茶だな」
 追いかけてきたヤクザに、犬が吠えながら飛びかかる。

 亨悟は這いずるように歩いてくると、チケット売り場の椅子にへたり込んだ。俺は亨悟の前にかがんで顔を覗き込む。

「おい、亨悟生きてるな」
「お前の運転に振り回されて死にそうだ」
「そりゃ良かった」
 死にそうなら生きてる。
 俺の言葉に亨悟は顔を歪めた。

「ボウガン貸せ。俺もここで粘る」
 言われるままに、俺はヤクザからせしめたボウガンと矢を亨悟の膝元に落とした。亨悟はそれを拾わず、俺に手を出す。

「テルミットは」
「持ってきたけど」
「よこせ。狼煙をあげといてやる」
「気をつけて使えよ、巻き込まれるなよ。雨降ってるし」

 俺はリュックから一つ、粉末を詰め込んだペットボトルを取り出した。
 中には、カチコチになった使い捨てカイロから取り出した粉や、粉々にした一円玉なんかを混ぜた黒い粉末が詰まっている。
 津崎さんがいて、爆発物の扱いを間違えることなんかないだろうが。
 俺はペットボトルを亨悟に渡しながら言った。

「俺が出たら、残りの船を壊せ」
 ああ、と亨悟はうなづいた。それから、小さく笑う。
「今度連れてってくれよ。お前の家」
「……ああ」

「七穂ちゃんに会いたいなー。いい子なんだろうなーお前と違って。これ落ち着いたら、お前んちでゆっくり寝たい」
「ふざけんな、七穂には絶対会わせないからな」
 図々しい言葉に、俺は笑った。何か言いたかったが時間も惜しくて、俺たちはグータッチをした。

 それから俺はさっさと船着き場に向かう。紗奈がついてくるのに気づいて、俺は亨悟の方を指さした。

「お前もここで守れ。亨悟を頼む」
 普通、知り合ったばかりの奴を島には連れて行かない。何より、吸血鬼なんか。
 こんな場所まできて今更だけど。
 俺の意図を察して、紗奈は頑として言った。

「今は夜じゃないけど、太陽がない。あたしに有利だ。連れてけ」
 それは敵も有利ってことだ。

 迷っている暇はない。
 俺は何も言わず、太陽光パネルをつけたモーターボートに飛び乗った。風が吹き荒れ、横殴りに雨が叩きつけてくる。波が高くて、着地と同時に膝をついてしまった。

 島のほうがよく見えない。
 だが暗雲にまぎれるようにして、山から煙が上がっているのが見えた。救援の狼煙なのか、ただ家が燃えているのかもわからない。

 狼煙なら上げる煙の量や、色や、間隔を調整してメッセージを伝えるが、この悪天候じゃ、煙が上がってるのが見えるだけマシだ。
 俺が物心ついてあの狼煙を使ってるところなんて見たことないし、大人たちだってよくわかってないかもしれない。

 船にエンジンを入れようとしたが、全然点火しない。太陽光パネルも死んでる。
 オールを持ったが、波が荒れて、遅々として進まない。手漕ぎではとても島までつける気がしなかった。
 途中でひっくり返るかもしれない。

「くそ」
 こうなったら、水汽船のほうがいいか。だが時間がかかる。もどかしくて苛立った。

「お前が漕ぐよりあたしが漕いだ方がなんとかなる。諦めるな。海を見張ってろ」
 紗奈は、血まみれのパドルを海に突き立てた。

「あきらめてなんかねーよ!」
 焦りを指摘されて、俺は喚いた。

 俺も負けじとオールを波に突き立てる。絶対に何が何でも、あきらめてたまるか。

 後ろで突然、炎が弾けた。振り返ると、今度は爆音と共に白い煙が弾けた。水蒸気爆発だ。

 亨悟の奴、あいつ、ほんとにやったのか。無事だといいけど。

 ――あれが、少しでも、島の人たちへの警告になれば。

 顔を戻して、息を切らしながら、とにかく波と格闘し続ける。
 紗奈のおかげか、ぐいぐいと船が進む。遠くに思えた島が、どんどん近づいて来る。

 頭上には暗雲。どす黒い雲の下で、海もどす黒い色をしている。
 水平線はなぜか滲んだ絵具のような紺藍の色をしていた。風にあおられて、近づいて来る島の木々がざわざわとゆれている。

 島の北側で、たくさんの明かりが海に向けて飛んでいくのが見えた。城の浦だ。
 火矢だろうか。
 目を凝らせば、あちら側の海に明かりがちらちら見える。船が何隻かいる。

 オールを握る手が、焦りと雨で滑るのをこらえながら、俺は必死で波を掻いた。

 能古島側の渡船場が見える。
「どうせなら、もっと、島がきれいな時に見せたかったけどな」
 息を切らしながら、口をついて出た。こんな時に、何言ってんだと自分でも思うが。
 どうせ人に見せるなら、この自然豊かな島が、一番いいときが良かった。皆がのびのびと、日常を送っているときが。

 馬鹿だな、と紗奈は笑った。
「じゅうぶんだ」
 渡船場が近づいて来る。そして、銃声と怒声が、暴風に紛れて聞こえてくる。

 俺はボートに積まれていた信号紅炎しんごうこうえんを、ブルゾンのポケットにつっこんだ。発煙筒みたいなやつだが、発煙筒より炎が強い。

 渡船場についた時には、奴らの船がひとつすでに辿り着いていて、ヤクザたちの死体と、島のおっさんたちの死体が転がっていた。

 この島の弱点は、街がほとんど港に集中してることだ。
 みんな農作や魚を獲ったりして暮らしてるから、山にいることも多いけど、昔の名残で家がこのあたりに多い。

 何かあった時、山か海へ避難するよう、俺たちは叩き込まれている。
 だが海が荒れていて、船が出せなてない可能性がある。狼煙台はパーク跡にあるし、戦えない人たちは、たぶんあっちに避難してる。
 だけど、母さんたちは多分行ってない。七穂もだ。

「どこに行けばいい」
「たぶん診療所に母さんたちがいる」
 海岸線を、南に向けて走る。後ろから、わあ、と怒声が弾けた。
 思わず立ち止まる。

「何やってる、行け。食い止めてやる」
 紗奈は手袋をキリリと鳴らして、体ほどの大きさのパドルを両手で握りしめる。
「母親と妹を守れ!」
 仁王立ちで北を振り返った。

 診療所のドアを開けた途端、嫌な感じがして俺はその場に踏みとどまった。刃物が振り下ろされる。

「榛真!?」
 中から驚きの声が上がる。鎌を振り下ろした志織しおりさんがいた。

「びっくりさせないでよ!」
 それはこっちのセリフだけど、志織さんに非はない。志織さんの後ろでは、カウンターの陰からこちらをうかがう患者さんたちの顔がある。

「母さんと七穂は!?」
「七穂ちゃんは奥。須東すどうさんは外に、怪我人を助けに行った。中で先生が怪我人の治療してる」
 だろうと思った。

 俺は後を振り返らず、志織さんも患者たちもほったらかして、診療所の奥に駆けた。いつかと同じ処置室に駆けこむ。

 七穂は、奥の部屋の隅で膝を抱えて座っていた。蒼白な顔がこちらを見る。動揺していない、落ち着いた目だ。
 それがかえって、七穂の動揺を表していた。

 俺は駆け寄って、妹の前に膝をつく。
 ゼーゼーと七穂の喉の奥から音がする。見ている方が苦しくなる。
 駄目だ、死んだらダメだ。

 俺は泣きそうになりながら、ヒップバッグからペットボトルを取り出した。
 震える唇にペットボトルの口を当てて水を飲ませながら、俺は、自分の手の方がよほど震えているのに気付く。
 だめだ、俺が落ち着かないでどうする。

「深呼吸をしろ。ゆっくり息を吸って、吸って、吐いて、吐いて、吐いて」
 俺の声に合わせて、七穂が胸を上下させる。小さな口が懸命に空気を吸って、吐いて、生きようとしている。

「薬はあるな?」
 七穂はうなづいて、あえぐ息の合間から、声を絞り出した。

「帰って来てくれたの?」
 震える手が俺の手を握った。
「ああ、来るに決まってるだろ」
 七穂は、弱々しく笑う。

「ねえ、女探検家さん、見つけた? ちゃんと手当てしてあげた?」
 そんなこと言ってる場合か。
 あきれるのと驚くのと同時、見透かされてる気がして、焦る。薬を持って行ったと母さんに聞いたんだろうか。

「……ああ」
 手当てなんて必要なかったし、したような、してないようなものだったが。
「一緒に来たの?」
「ああ」

「会いたいな」
「お前がちゃんと治して、これが落ち着いたら、会わせてやる」
 外から銃声が聞こえる。爆発音が響いて、地面が揺れる。このゴタゴタが落ち着いたら。――生き延びたら。
 七穂はうなづいて、俺の手握る手に力を込めた。

「お兄ちゃん、わたしは、大丈夫」
 細く浅く呼吸を繰り返す。ぜえぜえと喉を鳴らしながら言う。
「気になるんでしょう。わたしは大丈夫。行って」

 診療所を出ると、紗奈が吸血鬼たちをぶちのめしてる向こうで、ガラスの割れる音と炎が弾けた。
 火炎瓶に焼かれた吸血鬼が、炎を振り払いながら、苛立たし気に間近の家に踏み込んでいく。炎が家に燃え移って、悲鳴が上がる。

 俺はその近くで、誰かの肩を支えながらうずくまる母さんを見つけた。
「母さん、何やってんだ!」
 俺の声に気づいて母さんは顔を上げた。

 診療所まで道を渡るだけなのに、怪我人が動けなくて来られないようだった。
 俺は駆け寄ると、ぐったりした自警団のおっさんを引きずるようにして、駐在所の中に押し込んだ。
 当然ながら、中に西見さんの姿はない。この騒動で、おとなしく駐在所にいるわけがない。

「ここでおとなしくしててくれ」
 おっさんの脚を止血しながら、母さんは俺を睨み付けた。

「お母さんは、人を助けるのが仕事なの! 放蕩息子の指図はうけないよ!」
 滅多に怒らないのに、すごい剣幕で怒鳴った。普段の俺への不満を叩きつけるようだ。

「分かったから、俺を死なせたくなかったら、おとなしく隠れててよ」
 言い聞かせるのは無駄だから、俺はさっさと駐在所を飛び出した。もうこの事態を早く何とかするしかない。

 外に出た途端に、俺はさっきまでそこになかったものを見た。――いなかった奴を見た。

 パドルを構える紗奈と対峙して、吹き荒れる風の中で、黒いケープコートの少年が立っている。
 めずらしくストールも眼鏡もない。眼鏡がないとあどけなさが増して、別人みたいだ。
 顎を上げてこちらを見た。

「いたね」
 ――マジで、来やがった。
 こいつ、よりによってこいつが、この島に。

「ここがお前の住処か。いい暮らししてるんだなあ。こんなご時世にさ」
 こんなご時世なんて。お前らのせいじゃないか。頭に血が上って、言葉が出ない。その間に、奴はのんきに話し続ける。

「能古島、昔からいいところだよねえ。街が目の前なのに、自然がいっぱいあって、花もきれいで。崩壊前に家族でハイキングコースを歩いたなあ」

 その後ろで、火がどんどん広がっていく。島が焼かれていく。この雨が、少しでも消し止めてくれればいいけど。おっさんたちの怒号が聞こえる。
 めちゃくちゃだ。きれいな花の島が。光に満ちたこの島が。

「てめえら、マジで、ぶっ殺してやる」
 俺は腰の包丁を抜いて、腹の底から声を出す。少年は弾けたように笑った。
「怒ってるのか。お前らにそんな資格あるか」
「うるせえ」

「こらえ性のない大人たちが世界をこんなにしちまって、俺たちの未来がなくなって、ゲームが現実みたいになった。核戦争後の死の灰フォールアウトで滅んだ世界だとか、細菌兵器で人間がゾンビ化して滅んだ世界だとか、たくさん遊んだなあ。実際に現実になるなんて、考えてなかった」
 俺からしたら、崩壊前に生まれた奴らはみんな同じだ。
 世の中を滅茶苦茶にしたのは。

「俺が吸血鬼になったのは、パンデミックの最初の頃だ。人間たちは俺たちを容赦なく引きずり出して、閉じ込めたり殺したりした。俺たちは狩られる側で、ずっと逃げ回ってた。ずっとずっと、いつか逆転してやるって思ってた。だから今が楽しくて仕方ない。俺は狩る側にまわったんだ」

 自業自得だ。
 叩きつけられた言葉は、間違っちゃいない。
 だけどそれは。

「俺が生まれる前の話だ。俺たちに押し付けるな」
「関係ないね。こんな娯楽、他にない」
 撥水性だとかいうコートもずぶ濡れにして、少年は楽しそうに笑う。

「全部ぶち壊して、お前たちみんな引っ張ってって、閉じ込めて飼ってやる。ギリギリ死なないところで生かして、血だけ搾り取る家畜にしてやる」
 食事のたびに狩るのは効率が悪いといつ気づいたのか。
 少数派だった吸血鬼たちと、奴らを追い詰めていた人間たちの立場が逆転しだしたころか。

 杏樹や史仁のようなグループに囲われたら、まだマシだろう。気にくわないが。
 こいつらに連れて行かれたら、ただただ死ぬまで血を抜き取られておしまいだ。

 ――奴の言う通り、大人たちは初手を間違えたんだろう。ほんとうは、最初から奴らを恐がったりせず、与えればよかったのかもしれない。

 血がなければ生きられないのなら、与えてやれば良かったのかもしれない。
 怯えて殺して排除しようとしないで。きちんと向き合えば良かった。

 だけどもう今更だ。
 ――それに、俺は許せない。
 奴らが俺たちを許せないのと同じで。もう許すことなんてできない。

 銃声が響いて、奴の肩を撃ち抜いた。
 リボルバー式の拳銃を両手で構えた西見さんがいた。

「残念」
 奴は血を垂らしながら、あどけなく笑う。
 ――だめだ、せめて頭をふっ飛ばさないと。

 西見さんの腕で外したわけがない。元警察官の西見さんは、母さんと同じで、吸血鬼を人間と見てるところがあった。
 殺せないのか。

 俺はとにかく駆けだした。奴が大きく踏み出す。
 銃の撃鉄を起こす音と、奴の爪が西見さんの喉を斬り裂くのが同時だった。

 西見さんが血を吹きださせてのけぞる。
 その奴の背後で紗奈がパドルを振りかぶる。力いっぱい奴の頭をぶちのめした。いつか、あいつの姉にしたように。

 奴はくるりと回って振り返る。傷の増えた頭から血があふれて落ちる。
 黒いコートの裾がひるがえって、裏地のチェック柄が見える。

 西見さんの喉を切り裂いた手が、紗奈の胸を貫いていた。紗奈の口から血があふれ出す。

 ゾッとした。心臓が鷲掴みにされたみたいだった。

 ――いや、大丈夫だ。あいつは吸血鬼だから。

 今まで何度も傷を負って平気だったじゃないか。目の前の奴を見ろ、あんなになっても死んでない。

 必要以上に動転する自分に言い聞かせながら、俺は西見さんのそばに落ちた銃を拾い上げる。
 撃鉄はもう起こしてある。

 奴の心臓を狙って引き金を引いた。銃声と共に腕が跳ねあがる。奴の胸の真ん中を貫いた。
 これじゃダメだ。俺は続けて撃鉄を起こす。

 だが、奴のほうが早い。奴の手が伸びてきて、俺の肩を掴んだ。俺の胸くらいしか背丈のない少年の顔がぐいと近寄ってくる。

 ――噛む気だ。
 まずい。振りほどきたいが、力が強い。

 急に俺の前に腕が付きだされて、奴の牙は、その細い腕に噛みついた。
 赤いチェックのポンチョから出た細腕。

「何やってんだ!」
 俺が怒鳴るのと、奴がしかめっ面で口を離すのは同時だった。
「かばうのもいい加減にしろよ!」
「あたしはもう遅い、あんたはまだ大丈夫だから」

 口から血を零しながら、紗奈は淡々と言う。そして反対の手で握ったパドルを振り回し、奴を弾き飛ばした。

 俺は棒立ちになっている紗奈の手を引っ張りながら、ヒップバッグからペットボトルを取り出した。
 亨悟に渡したのと同じものだ。後ずさりながらペットボトルを投げつける。

 金属の粉が詰まったペットボトルは、よろけた体を起こした奴の頭に、重い音をたててぶつかった。その足元に落ちる。

「悪あがきか」
 奴は半笑いで吐き捨てる。全然ダメージなんか与えてない。だが俺は叫んだ。
「みんな逃げろ!」

 俺はブルゾンのポケットから信号紅炎を取り出した。
 おっさんたちが戸惑い、吸血鬼どもが振り返る。船舶用の発煙筒。キャップを擦って着火する。真っ赤な炎が吹き上げた。

 奴に投げつけるが、ずぶ濡れの服の胸にあたって、また足元に落ちた。奴は炎に赤く彩られた白い頬をゆがめて笑う。

 何も起きない。

 俺は踵を返して、紗奈の腕を引いて逃げ出した。奴は薄く笑いながら、俺を追おうとした。

「こんなもの――」
 ペットボトルが燃えて溶けて、中味が漏れ出す。
 炎が柱になって噴き出した。

「伏せろ!」
 俺は叫んで、紗奈を押し倒すようにして、地面に突っ伏した。
 ――おあつらえ向きに、雨だ。
 そして奴の服は、ぐっしょりと濡れている。

 お手製のテルミット爆弾は、水に反応して、水蒸気爆発を起こした。

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