◇1004日記 デカルコマニーで崩壊を

 生き物のからだはぬくい。肌と肌が近づくとき、熱を帯びた皮膚の存在は何度でも驚きを感じられる。わたしは小さなことでも、その何かを日常に落とし込むのが苦手なのだろう。

 ひとりの夜、思い出すのは遠い昔の罵声と怒涛に溢れた生活の息苦しさや後悔だった。成功とも成就ともつかない、逃げるように盲信的な正義を振りかざして駆け抜けた春のことである。あの春は二度とやってこない、それはまごうことなき真実であり、ひと夜にもがく孤独の要因だ。家族会議の最中に台所で握りしめた料理包丁を、忌む人間に振りかざす姿を、何度も想像する。実際は家族会議の最中にキッチンで料理包丁を握りしめ、思いつめた表情でいるわたしに異常を感じた兄が止めた。今では彼すら刺し殺さなかったことを後悔している。彼もわたしのなかでは悪人に成り下がったのだ。わたしには家族がいない。いま生きている肉親たちはただの息をして役割を持つ肉塊であり、違う言語を話すどうぶつくらいにしか思えない。わたしは四半世紀生きた今でも、自分の想像する事柄や考え思い詰める事柄がひどく異常であるように感じる。わたしはハンムラビ法典の「目には目を、歯に歯を」という有名な記述を踏まえ、わたしを殴りつけたり罵声を浴びせた人間たちはいずれどこかで裁かれるのだと信じていた。裁きを受け、改心し、健やかに生きるのだと絵空事を思っていたが、四半世紀も生きると薄々わかってくる。そんなことはない。彼らはただ彼らのまま、相変わらず素知らぬ姿で生き続けるようだ。絵空事の期待は、ただ自分の首を真綿で締めていると悟って以来、わたしは「触らぬ神に祟りなし」とうそぶき素通りすることを覚えた。きっとこれは生存戦略なのだろう。

 褒めてもらえることをはじめ自分自身について形容されることに対して、今まで以上に過敏に傷つくようになった。近年稀に見る詰まらない人間関係を経てから疑り深くなり、誰それ構わず不審の烙印を押し突っぱねるサイクルが出来上がってしまった。わたしは癒すことを知らないまま、新たに傷つくことに疲れた。法典の通りにはいかず、わたしに傷をつけた人間はこれからものさばり生きながらえるだろう。そしていつかそいつは野垂れ死ぬ。わたしは詰まらない人間関係に疲れ始めたころ、話す言葉を変えた。差異だろうが、そこで使われる言語で会話するようになった。おうむ返しとは違うが、相手が使う言葉のニュアンスや考え方をあたかも自分の頭で考えた言葉であると言わんばかりに繰り返し、態度やリアクションのタイミングもなるべく以前の自身が受けた通りに、会話に落とし込んでみた。そしていろいろなことがしっちゃかめっちゃかになったのだ。関係も、関わる人間も、あっけなく壊れた。傷つけたことに傷つくことは道理が通っていないので、わたしは後ろめたさを感じなかった。壊れていくものを見るのは、多少の小気味良さを感じつつともスプラッタ映画に食欲がわかないのと同じく、ただ見苦しい気分でいっぱいだった。

 事の終わり、わたしは酷く惨めで貧しい気持ちでいっぱいだった。ぐうの音も出ないほどまくしたてて貶められた自尊心を満たすために、思い浮かぶ恋に恋する言葉を片っ端から並べ、わたしが大事にする愛しさや美しさ、好きなものの確認を行った。SNSに思いの丈や気ままに気持ちのいいことを書き連ねた。合間、「新しい男ができたんだろ。」と電話で詰られた。振り返れば、とても普通の男と女の恋愛らしいコメントであったのだろうが、そのときのわたしは声をひそめた女友達を横目に、通話画面に中指を立てた。F×CK OFF。わたしは喧騒も怒涛も、わたしを傷つける人間も大嫌いなのだ。たとえそれが好き合って付き合った人間だろうとも、擁護する義理はない。

 外出をすれば、どことなく金木犀の香りが漂う季節になった。日中の日差しがいくら肌をじりじり焦がそうとも、季節は移り変わっている。いまは秋。まだ生きている道中に、わたしは佇んでいる。今秋は例年以上に強く、墓に入って眠りたいと心底願っている。罵声も怒涛も、ごめんこうむるのだ。

ご愛読いただき誠にありがとうございます。 サポートいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。 (M子/obmmm)