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雑感:「自分の感覚」を大切にしないと語れない

僕は、よく喋る人間だ。

これは、リアルに僕と会話した人は、誰も否定しないと思う。職場でも、顧客先でも、よく喋ってた。喋りすぎて上司に「余計な事まで喋るな」とよく叱られたものだ。叱られても気にせず喋ってたが・・。

これまで、僕が心置きなく喋れる環境は、あまり無かった。私が喋り倒し、相手は「圧倒されてる」「呆れてる」「怖がってる」のいずれか謎だが、とにかく、半ば戸惑いを伴った表情で言葉少なく佇んでいる、ということが多かった。

ここ最近、自分の気に入った講座やセミナーなどに出てきて、グループワークやピッチをできるようになった。だいぶ、お相手もフィードバックくれたり反論してくれたり、喋り応えのある環境に出会えている気がする。

そんな変化を感じたとき、「語り」というものと、「自分の感覚に敏感でいる」ということの因果に気づいた。


「語り」は"外側"を表現するものに非ず

情報発信・情報伝達というものを、大抵は「客観的事実」とか「事件事象」とか「再現性の高い法則」として、いわば自分の外側のものを伝えるのだと持っている人がいる。

そういう考えの人は、話の展開も、外側から始まる。「最近、こういった事象が多くなりました。このまま行くと、こういう理由でこうなるでしょう。だから私はこう思います」という具合だ。

でも、そういう話は、大抵つまらない。どこかで聞いたような凡庸な話のことがほとんどだし、新しい発見も無く、音は耳から入ってくるのに心に残らない。

逆に、面白い話というのは、こんな具合に、自分の内側から始まる。

「最近、なーんか違うなー、違和感あるなー、と思ってたんすよ。こんなんじゃいかん、でも何がいかんのか分からん、てモヤモヤしてて。で、この間、風呂に入ってるときに気づいたんです。〇〇なんだ、って。というのは・・」

理由なき感覚への気づきが端緒で、その経緯・理由の解釈が続き、「だからこれからこうする」といった決意表明や、「みんなもそう思わない?」「一緒にこうしようぜ」といった共感喚起が続く。


自分の感覚に対するまなざしの有無

結局、人が身を乗り出して長時間聴ける話というものは、そういった理由なき感覚が根源になっている話なのだと思う。

で、そういう魅力的な話を語る人は、そうでない人と比べて何が違うかと言うと、自分の感覚に対するまなざしを持っていて、自分の感じること(主に違和感)をよく見てる点だと思う。

理由なんか無くても良くて、というか後から見出せば良くて、まずは自分の違和感に気づくことを優先している。違和感が無い時は、今やってること・今の状態で全力で突っ走っていく。しかし、違和感が生じたとき、それを敏感に察知して「これは何なんだ?」「どうしてこんな感覚が生まれてるんだ?」と掘り下げていく、その態度。


自分のことを愛しているか、なのかな

自分の感覚(違和感)を大切にするその態度は、突き詰めると何なのかというと、自分のことを愛しているかという点に行きつくと思う。

非常にシンプルでキャッチ―な言葉で言えば「自己肯定感」という奴なのかもしれない。でも、「自己肯定感」と言う言葉は僕はあまり好きじゃない。心の底では自分を価値あると腹落ちしてない人が、一生懸命に自分を肯定しようと頑張ってる感を感じるから。

「自己肯定」というよりも、僕は、自分を他者のように愛する感覚といった方が良い気がする。いや、もっと言うと、自分の中にいる神とか仏とかが居て、それを尊重する感じか。自分の中に、自分もよく分からない魂が入っている感覚。そして、「このまま突き進むのはやめてね」というタイミングで「違和感」として、立ち止まり・見直し・方向転換するべき時を知らせてくる、自分でも制御できないなにものか。

宗教やスピリチュアル的に言うと、それが「分け御霊」「真我」「仏心」「仏性」「ハイヤーセルフ」などと言うのだと解釈している。

この感覚を持ってない人というのは、自分で自分を頼りにならない、起点にはならないものだと捉えている。だから、外側ばかり目が行く。成功者を探して後追いする。賛同者が多いと安心し、少ないと不安になる。大事なものは中には無くて、外側にしかないと思っているんだろう。本当は、逆かもしれないのに。


イイ子を止めて、悪になる

自分(というか自分の中にある自分非ざるもの)を愛することが出来てない状態から、愛することが出来るようになるためには、簡単な処方箋は無い気がする。頭脳偏重・ロジック過信の状態で、「改善策」を求めているうちは、自分の中からわく違和感を「感じる」ことが出来ないから。

頭脳偏重・ロジック過信の罠から逃れるためには、いったん、ロジカルに考えたらバカげている・損をする・無駄であるといったことを敢えてやるしかないと思う。

いわば、「イイ子を止めて、悪になる」のだと思う。ここでいう「悪」は、田舎のヤンキーのように虚勢張って悪ぶることとは違う。善悪で判断するのを捨てて、快/不快で判断するように変えることを言っている。

・・というと簡単そうだが、簡単ではないだろう。これまでガッチリ構築されてきた、家族や職場・学校などの周囲の人々の期待を裏切ることになる。その中には、家庭・職場の中での自分の役割というものも含まれる。

だから、なんだったら、身近な人からは非難囂々になる覚悟も必要だ。「今まで通り良い感じに戻れ」と陰に陽に圧力を掛けてくる。すると、もともと他人の期待に応えることを最優先して生きてきたイイ人は、自分の内心の違和感(不快感)に目をつぶって他者の期待に応じることを選びやすい。

でも、違和感に気づき始めたのに無視して他者からの期待を優先すると、もともと違和感に気づいても居なかった時より苦しくなる。無理やり言い聞かせて、次々と湧いてくる違和感・不快感を無視し続ける人生になる。だから自分の人生がすべて虚構に思えてくるし、常に後悔し続けてる状態に陥ってしまう。そう、自分の内心の違和感・不快感を少しでも感じてしまった以上は、たとえ近しい人と絶縁することになろうとも、やり切る他は無い。

でも、覚悟さえ決めてしまえば、意外とできるものだし、意外と理解・応援してくれる人もいる。イイ子であろうとしてた時は、うっかり自分の間違いや弱みを人に晒さないように隠すから、他者と心底の交わりを得づらかった。でも悪になると覚悟を決めると、間違いも弱みも変態なところも、隠さないで出すことになる。それだけ自己開示すると、7割が変人扱いしたり絶交されるとしても、3割は強烈な理解者・同行者になるし、理解者・同行者が寄ってくる。

と、最近、俳優の高知東生さんの『生き直す』を読んで思った次第。


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