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試論:心のニュートラルポジション(未完)

齢43の道半ば人間なので、これが正しいとか、これが終点だとか、そういうつもりはない。それに、我ながらあんまり煮詰まってない。それでも、今の自分が考えるところを述べたい。

スクーターの旅でよく知らなかったが、女優の竹内結子さんが亡くなったと知った。自殺と見られるという。

それを知ったうえでSNSを見渡したら、関係する投稿がたくさん出ていた。月並みなんだが、自分も思うところを述べようと思った次第。

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全てを書き上げた後で、戻ってきてここを書いてるが、支離滅裂や論理飛躍が多く、この投稿は未完成作に決定しました。
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オリィさんとホリエモンの話に共感

ちょうど、オリィ吉藤さんの、竹内さんの自殺と直接関係の無いnote投稿を読んで、共感を覚えていたところだった。

お店が閉店になった後に「残念、行きたかった」と言ってみたり、人が亡くなった後に「残念、お会いしたかった」と言ってみたり。しかし、人はお互いに、いつどうなるか明日のことも本当は分からない。けど、明日も知れぬ身と常に意識していると不安で潰れる人もいるので、平穏無事に続く日常を想定して過ごしている。そして、一期一会を逃してしまう。

さらに、YouTubeホリエモンチャンネルで、今度は竹内さんの自殺に直接言及する動画が上がっていてそれを見た。ホリエモンは、自殺を止めたかったら身近な人をとにかく支えて働きかけてあげよう、と言っている。これにもいたく共感を覚えた。

これは私の曲解が入るかもしれないが、オリィさんもホリエモンも、身の回りの近しい人・モノを、後回しせずに今すぐに大事にしろ、と仰っているように思うのだ。

親鸞「他力本願」と、二ーバーの祈り

鎌倉時代に、それまではエリートが知識・技術を独占していた仏教界で、庶民にもアプローチできる道を開いた人が居た(と私は理解している)。それが、浄土真宗の開祖、親鸞聖人だった。

親鸞聖人の教えの中に、「他力本願」というものがある。私もつい最近まで知らなかったが、この言葉は「他人任せ」ということではなく、自分ではどうにもならないことを他(=阿弥陀如来)に預けて悩むのを止めて、自分でどうにかできることに専念せよ、というものだ(と私は理解している)。

さて、唐突だが、「二ーバーの祈り」というものがある。これはたぶん、メンタリストDaigoさんが引用して有名になったような気がする。こんなものだ。以下のサイトから日本語訳を転載する。

ニーバーの祈り

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

いかがだろうか。親鸞聖人「他力本願」と二ーバーの祈り、どちらも同じことを言っているように思えるのは、私だけでは無いだろう。

そう、我々は何十年後にくる老後の心配など、くそ真面目にやっててはダメなのだ。一年後のこと、一月後のこと、3日後のこと、明日のこと、目の前のことに専心する必要があるのだ。

できることと、できないこと

オリィさん・ホリエモンの言葉。親鸞聖人「他力本願」・二ーバーの祈り。これらを総合的に勘案して、自殺防止について考えてみたい。

できることを考えるよりも、出来ないことを考える方が良いかもしれない。ブッダは理(ことわり)を大事にした。たぶん、ブッダの言う悟りの境地に至ると、どうにもできないもの(=無理)とどうにかできるものを正確に分別できる状態になるだろう。そう、まさに二ーバーの祈りそのものだ。

さて、自殺防止に関して、無理なものとは何だろうか。それは、一年後、いや一週間後の自殺を防止することはできない、ということだ。せいぜいが、今日明日の防止くらいしかできない

時分の事を思い返してみれば、たった1日でも自分を取り巻く状況は変わる。予期してない悪いニュースが舞い込んだり、想像もしていなかった望ましくない事態が発生したりする。とてもじゃないが、今後1週間に発生する悪い事態を予想することなど、たぶん誰にもできない。

ということは、自分についても親しい他人についても、1週間後に自殺しないように今できることなんて無い、ということだ。もし明日自殺してしまったら、「1週間後の自殺」を防止できたところで意味がない。

せいぜい出来そうな「今日明日の自殺防止」を、日々積み重ねていく他に無いんだと思う。

では、「今日明日の自殺防止を日々積み重ねる」とは何なのか。風邪薬じゃあるまいし、毎日「自殺防止の薬」を処方できる訳でも無い。仮に何らかの心的作用によって、自殺する気が無い状態から自殺しようとする状態に変わるんだとして、どんな心的作用の働きも無効にできるような特効薬は無いはずだ。

私は、親しい他者の自殺防止に関して言えば、「ただ寄り添うこと」だと思っている。それも、電信電話やEメール・メッセンジャーの類ではない、フィジカルな存在感を持って抱きとめること。ただただ、抱いてあげることなんじゃないか、と思っている。

でも、これは難しい。抱かれたくない人に抱かれたらハラスメントになる。色んな事情で、物理的に近接して時間を過ごせないこともある。では、どうしたら良いのだろうか。

究極は、自分自身でしか防止できない?

人は独りで生まれて来て、独りで死んでいく、などと言う。言い得て妙だ。事故や天災に巻き込まれたり、集団自殺や無理心中でない限り、死ぬときはそれぞれのタイミングで単独で逝く。これを転じて考えれば(ちょっと論理飛躍激しいが)、自殺を防止するのも、究極は自分自身にしかできないような気がする。

たとえどんなに親しい家族・夫婦・恋人であっても、それぞれの心境・感情の時々の変化を正しく共感できる人は居ないだろう。どんな人も皆それぞれ、「こうに違いない」「こうだろう」という推測や願望で、親しい他者の心を想定している。

そして結構な頻度で、想定を間違える。だから「〇〇だと思ってたのに裏切られた」といったすれ違いが生じる。いくら親子だろうと夫婦だろうと、他人の心を正しく把握するのなんて、それくらい土台無理な話なのだ。

だからこそ、自分で自分をケアできることが非常に重要になってくる。自分が傷んだと感じたら、自分でヨシヨシと傷口を癒してあげられること。それこそが究極で確実性の高い自殺防止策なんだと思う。その傷口を癒す行為の一つには、他者を頼ることも含まれる。「あ、やべぇ、俺ふさぎ込みそうだから、ヨシヨシしてもらいにあの人のところに行こう」と思える人が最強だ。

だから、「いのちの電話」の広報は、私は有意義なことだと思う一方で、短期的・直接的な効果は低いようにも思う。自殺の訃報を聞いて驚くケースというのは、そもそも「頼ってくれたら・・・」と残された人たちを後悔させているケースがほとんどだ。他者を頼るという選択肢を思いつかないのか、敢えて捨ててるのか、ともかく「頼る」という選択肢を捨てて自ら三途の川を渡りに行こうとしているのだ。思いつかない人には広報が役立つが、敢えて捨ててる人には約に立たない。

他者への相談を敢えて捨ててる人というのは、どう考えているのだろうか。おそらく、「相談したところで誰にも分かって貰える訳もない」と思っているか、「相談したら、却ってありがた迷惑される」と思っているか。いずれにしても、相談したら足しになるような頼れる他人なんか居ない、と高をくくっているに違いない。

私は、それも分かる気がするのだ。悩んでいる人というのは、自分自身の悩みの種については、誰よりも悩んでいる「プロ」である。それを、親しいからといって他人が聞いたところで、プロ級の本人よりも良い悩み解決ができるとは限らない。というより、凡人では確実にアマチュア級のろくでもないことを言ったりやったりする。

他人に対してせいぜい出来ること

以上のように考えていくと、他人に対してできることと言えば、2つしかないと思う。一つは、「あなたと生きてるのが僕は好きで、ずっと続いて欲しいんだ」と伝えること。もう一つは、「あなたには、あなた自身を大事にできる力と態度を持っていて欲しい」と伝えること。

1つ目は、無限で無条件の存在承認だと思う。何かいいことをしたから認めるとかではなく、何もしなかったとしてもあなたが生きてることが嬉しいというもの。これは、比較的分かりやすいだろう。ただし、実践するのは簡単ではない。つい人は、有限で条件付きの承認ばかり他人にしてしまうものだ。それが、たとえ親しい相手だったとしても。それくらい、自分自身のことでアップアップな存在だと言えるのかもしれない。

2つ目はもっと分かりにくいかもしれない。簡単に喩えると、桃太郎にきび団子をこさえて持たせるおばあちゃんのようなものだ。

これは、子供の教育にも言えるような気がする。子供の人生で必要なものを、教師や親が取り揃えて全部与えることなんかできない。世の中は変化するから、自分が老いて死んだ後も子供は自力で拓いていく必要がある。だから、親や教師である自分がボケたり死んだりしても、お前さんは自力で方法を探究し、自分で自分を励まして道を歩いていけよ、と背中を押すことしか根本的には出来ないのだと思っている。

自殺防止に関しても、「あなたといると僕は幸せだな」「あなたが、あなたを大事にできるように背中押したいな」という2点しか無いんじゃないか、と思うのだ。

自分で自分にできること。ベスポジに置いてあげる

じゃあ、自分で自分にできることは何だろうか。

一言で言えば、自分をまるで大切な他人(親とか配偶者とか子どもとか)のように見守ったり励ましたりすることだと思う。

1つ目は、自分は何をしてなくても存在していて良いものだ、と認めてあげること。これもなかなか難しい。ついつい、他人と比較したりして「お前はこんなのも出来ない、ダメだなぁ」とか自分に対して気易く考えてしまう人が多いだろう。日本の教育界(学校教育だけでなく家庭教育でも)では、これを悪用している悪い大人が多い気がする。基準を設けて欠損を自覚させてけしかける、という手法だ。この手法をやり続けていると、本人は納得感もなく「やらされ」で動くようになり、そのうち他者から基準を設けられないと何もできない奴隷になってしまう。

2つ目は、自分のありのままの感情・感覚をちゃんと認めてあげることだ。これも簡単ではない。たとえ恩師であろうと、「今の一言、マジでむかついた」という瞬間に、それを自己否定せずにちゃんと認めること。どんな不道徳であろうと、「ムラムラした」「パクリてぇ」と思ったことを認めてあげること。これは、道徳観念が強い人ほどできない。そんな感情・思いを抱いたことを自己否定する方向に向かってしまう。そして自分で自分を見失う。

さて、上記2点を達成するために、私は「心のニュートラルポジション」が大事だと思っている。焦り・妬み・不安・恐怖・狂喜乱舞といった心をかき乱す興奮状態と真逆の、ある意味でボケーッとした情動のゼロポジションだ。このゼロポジションの感覚が自分でちゃんと分かっていると、そのポジションからブレた時にすぐ分かるのだ。

逆に、ゼロポジションが分かってない人は、今自分がどうなっているか分からない。焦っているのか、舞い上がっているのか、恐れおののいているのか判別できず、「ドキドキしてます」で終わってしまう。これでは、自分の心が乱れたときに、乱れっぱなしになりかねない。

心のベスポジ(ベスト・ポジション)は、そのボーッとしてるようなゼロポジションなんだと思う。

論理展開できても感情を察知できない人は、抱き合え

心のベスポジを分からない、という人は、自分の感情の動きが自分で分からない人だ。自己否定する経験を積み過ぎて、自然と湧き上がる感情を「不道徳だ」とか「許されない」といった理屈で無かったことにしようとしてしまう。

でも、感情というのは理屈抜きで湧いてくるものであり、理屈で抑えることなどできない。「こいつ殺したい」という感情は湧くものだからどうしようもない。殺すという行動・行為はコントロールできるものだが、感情はコントロール不能なのだ。そのことをまず知る必要がある。

そのうえで、頭では「感情を認めるぞ」と思っていても全然認められない人もいる。長年自己否定してきた癖は、そう簡単に抜けないものだからだ。そんな人は、黙って誰か(嫌いな人はやめておいたほうが良い)と抱き合うのが良いと思っている。

抱き合うという行為に、言葉はいらない。最初はドキドキしたり、「こんなことして良いんだろうか」と善悪基準の論理が邪魔をするかもしれない。だが、ゆっくり回数を重ねていくうちに、かき乱れた状態が抜けていく。

身体が触れ合う感覚、伝わる熱、それが大事。そして、嫌いな相手でなければ、じんわりした緩やかな快感と心地よさが生まれる。ある意味で、それがベスポジになる。それを基準にして、その後生まれる感情について、少なくとも「快」「不快」が判別できるようになる。

そうやって、1日のうち、より多くの時間をニコニコ(ニヤニヤでも良い)してゆったり過ごせるようになると良い。自分の視界も広がるし、周りに与えるオーラもキレイになる。

・・あ、ダメだ。竹内結子さんの自殺から完全に離れてしまった。んー。とにかく、ニコニコとゆったり過ごせるようにしましょうね!そのために撲で良かったら、なんぼでも抱き合いますよ。

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