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【安芸旅の振り返り②】世話になった地と人を想い出す。の後編(8/19〜)

8月15日~8月24日(8泊9日)で、広島と長野をさすらう旅は一旦終わった。
旅の過程で、多くの方々にもてなしと案内を頂いて、大変有意義な時を過ごせた。この場を借りて、改めて感謝申し上げます!

この旅で感じたこと、旅を通じて思索したことが色褪せてしまう前に、
旅を振り返りつつ、今後の自分の身の処し方を考察してみたい。

第二回の今回は、行程を日別に振り返る、の後編。
前編のペースで書いてると大変な量になるので、ここから端折り気味で…。

8月19日(水)拠点候補地の視察、華鳩試飲

この日は、音戸に住むゲストハウスのパイオニア atsuyoshiさんが、今後の拠点として入手を検討されている物件を視察に連れて行ってくれた。

音戸14地区。今日は高須地区へ

出がけ、音戸の町を、14の地域別に色分けした図を見せてくれた。それが、下記の図だ。

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ちなみに、Google Mapも併載したが、右下のスケールを見ると分かるように、各地区の直線距離は、数十メートル、と言うところもあるほどの小さなエリアである。

今回主に滞在したのは「鰯浜」「北隠渡」だったが、この日に視察したのは「高須」であった。なお、前日にカレーの食材をGETしたスーパー「藤三」も高須にある。

さて、高須地区を山側に少し上がったところには、地元の方が大事に管理されている湧き水の出ている場所があった。飲料にはならないらしいが、手足を洗うと、とても冷たく透き通っていた。表面にはアメンボが浮かんでいた。

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atsuyoshiさんが案内されたその建屋は、斜面に立つ空き家だった。その庭先からは瀬戸内と高須の町並みが見渡せる絶景ポイントだ。

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音戸町高須で実現を目指すもの

atsuyoshiさんがこの地で実現を目指すものを私なりに言葉にすると、
「音戸の地で、音戸の資源を生かした自己実現を、集ったメンバーと
 地域の人が相互支援・相乗効果で成し遂げる場づくり」。

ただ、私自身、分かったつもりで、分かっていない可能性がある。が、その感覚も決して嫌いじゃない(笑)。

お好み焼き・川本(川本精肉店)で「一流のプー太郎」化に気づく

いくつかの候補拠点を見ているうちに、昼食時になった。atsuyoshiさんの案内で、高須集落にある、お好み焼きの川本さん(川本精肉店)へ。atsuyoshiさん曰く、ここのホルモン焼きは週1度は食べないと、中毒症状が出るらしい。

中を覗くと、70代の店主のおばちゃんが、酷暑の中で熱い鉄板の前に立ち、来た客(と言いつつ、食材取ったり盛り付けたり「客 兼 スタッフ」状態)と喋りながら、次から次へと焼いている。
聞けば、この日は想定以上の電話注文が舞い込んで、天てこ舞いらしい。
「1時間くらい待ってもらうことになるけど・・」と言われて一度は他所を探そうとしたが、結局戻って、我々の番が来るのを待った。

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・・待つこと1時間半。ようやく、蓄積した電話注文と前に待っていたお客さん分が捌けて、我々の番が来た。うどん入り「スペシャル」で700円程、と大変リーズナブルで食べ応えがあった。

この時、分かった。俺はこうして自分の番を待つ間も、ちっとも苦ではなかったことに。これはなんなんだろう。俺が遂に「一人前のプー太郎」に進化しつつある証左だろうか。高々1か月前までの「金で時間を買う都会ビジネスマン」の時分なら、とっくのとうに、怒って椅子を蹴り上げ場の空気を凍り付かせ、店を飛び出しコンビニのカップラーメンを食ってた筈だ。

これは、いったい何だろうか。ミヒャイル・エンデ『モモ』の世界とも何か通底するのだろうか。よく分からん。まだ、言葉にならないし見極められていない。

俺は会社を辞めて時間を手に入れた。そしてその時間を惜しげもなく特定の場に投入し、自分をその場に没入することで、寸暇を惜しんでいた時に見えなかったものを見て喜んでいるのだろう。しかも、先立つ投資対効果の算段も立てずに、無計画に時間と自己を空間に投入したのだ。持てる時間の投資対効果の算段が立たない場にこそ、今俺が見たいもの・関わりたいものがある筈、そんな直観で動いてるのかもしれない。

ちなみに、後日、長野に行って悟った。投資対効果を追求せず時間投下・
自己没入させる行為は、”一流のプー太郎”となりつつある私でも、「いつ・どこでも」できる訳で無い、と。臭い言葉で言えば、「見返り欲しない愛」「幼少に受領済みの恩義を、自分の時間・身体を使って貰うことで返したい欲」を感じる場でなければ、成り立たないようだ。

榎酒造「華鳩」シリーズを試飲して、幸せに酔う

お好み焼きで腹を満たした後、北隠渡の集落に戻って、島唯一の酒蔵である榎酒造さんを訪ねる。女将の榎真理子さんがパリに長年居られたそうで、フランス人のアテンドもできるという才媛。今はインバウンドも居ないので、贅沢にも『華鳩』の各ブランドを試飲させていただいた。

古酒(貴醸酒、と呼んでおられたように思う)が、紹興酒や醤油のような感じでも無くて、なんというか果樹酒だったりワインのような味わいで、これは女性や外国人にも受けるだろうな、という高級酒を取り揃えておられた。

私は濁り系がこの季節は飲みたくなるので、1本購入させていただいた。

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地銀さんの支店を訪問

榎酒造さんをお暇したあと、しばらく置いて、atsuyoshiの導きで音戸にある地銀さんの支店を訪ねた。

私も、長年、証券会社や信託銀行の顧客の仕事をしてきたが、お邪魔してきたのはHQや情報センターであって、バリバリの営業店バックヤードに入る経験は今まで無いので、妙に緊張した。

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通された2階は、今は営業店の行員さんが昼食時?にでも使うためのスペース 兼 打合せスペースとなっている感があり、直接的に営業に寄与していないようだった。しかし、その2階の窓から見渡す景色は、「これぞ、音戸の瀬戸」という目の前に海が広がる素晴らしいViewで、はぁー、ここがWifi飛んでるカフェにでもなってたら、毎日通うわなー、と感じた。

支店長さんとお話したが、地銀さんでも、相当に思い切った地域興しに繋がる企画を追求されている、という空気が伝わってきた。いろいろと全国各地の地域おこしの事例も研究されていて、有効な手を打とうと本気で考えておられるのが伝わってきた。

NRIさんには、「産官学金言」の連携が必要だ、ということを仰る方が居るが、確かに、地域に関わる主要ステークホルダーとプレイヤーがまとまって力を出せると、物事は動きやすくなるんだろうな、と想像する。一方、根幹にある未来像とか、何を追求するかというVisionなりCreedに近いところがずれてると、却って「船頭多くして・・」とか足の引っ張り合いの危険性もあるんだろうが・・・。
成功する悪だくみは、秘密結社から。なーんて、いい加減なことを言い過ぎだろう

そして夜は、アースキューブジャパン主催の「くるまざ大学」のオンラインミーティングに参加した。

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8月20日(木)「音戸の渡船」の危機と日招き岩

音戸の渡船の復活祭のはずが・・

この日は、船頭の怪我と、船体の故障のため運休していた「音戸の渡船」の復活就航の日ということで、地元の名士の方が私を伴い、船頭のしんちゃんと共に、音戸町の田原地区にある「山本造船」のドックへ。そこは、海自や海保の艦艇までも手掛ける、「ガチの造船所」だった。

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そんな中で、昭和24年生まれ(私の亡くなった父と同級生だ)の渡船がドックに佇む様は、ちょっと場違いな不思議な感覚も受けた。

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エンジンは、ヤンマーディーゼル製。これも、就航時からずっと載っているものらしいが、山本造船の技術者の方曰く、シャフトが折れかかっているとか、インジェクション?がダメになってるとか、かなり痛々しい状態らしかった。

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が、船体の木がもう朽ちていて、修理もままならない状況のようだった。

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結局、この船の本日の再出航は断念されることになった。

そして、渡船の船は2艘あるのだが、海に係留されて2年稼働していないもう1艘の方に活路を見出して、9月再就航を目指す方向性となった。

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・・といっても、もう1艘の方はエンジンのオーバーホールが必要だそうで、それはそれで資金調達も必要になる。三難去ってまた四難。複数の困難が立ちふさがり、もはや「何としても守る」という意思しか、打破の推進力は無い、といって過言では無さそうだ・・・。

船頭さんもご高齢で身体の調子も悪いらしい。船体の手当てを付けたあとは、船頭さんの後継者も手当て要。ん?船舶免許、魅力あるな・・・。

とはいえ。
モータリゼーションの果てにある現代、2つの大橋が架橋される中、この渡船には、どんな属性の人が・どんな場面で渡船を使いたくなるのだろうか。うーむ・・・。

と、悩んでいたら、オンロードバイクに乗ったチャリダーの方が「渡船乗れますか?」と聞いてきた。これはヤラセじゃないのか!?と思う程のタイミング。そうか、そういう感じか。ちょっと、ヒントになりそうなできごとが降ってきた。

さて、警固屋の渡船場でふと壁を見ると、音戸各地の歴史を移した写真マップがあった。

なるほど。オレは、まだ全然分かっとらん。今はシワシワのおばぁちゃんでも、かつて多くの男たちが金目と色目を使った艶やかな色娘だったんだ!
この木には花が咲いていた。枯れ木に花を咲かせましょう。花咲かオヤジになるんだ!
・・と、勝手に興奮する。

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清盛と音戸

渡船の再就航が延期になり一同解散となったが、地元名士の方に引き続き、音戸の対岸である警固屋にある「音戸の瀬戸公園」をご案内頂いた。ここは、平清盛が権勢を誇った時代、ここにある「日招岩」に乗って清盛が扇で太陽を招いたら、沈まぬ太陽になった、という伝説である。
そうそう、この警固屋と音戸の間の海峡「音戸の瀬戸」は、清盛が開削してできたと言われているほど、清盛と縁の深い地なのだ。

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標高130mから清盛が眼下に眺め下ろした瀬戸の風景は、「あー、もう少しちゃんと間伐して、屋根つけてWifi飛ばして、ここまで登れる足があって、コーヒーの一つでも飲めたら、ここでテレワークしたいわなあ」と思った。

あれ、俺って、どこでもテレワークしたくなる病かしら・・。いや、そんなことないはずだ。確かに絶景なのだ。だいぶ木が伸び放題で見通しが悪くなっているのが残念だが、整えたらメチャ仕事したくなるはずなのだ!

駐車場から反対側を振り返ると、日鉄呉工場が広がっていた。あれが、全部お役御免になるのか・・・。ちょっと気が滅入りそうになった。

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戸田本店、そこは海軍将校が愛した場所

そろそろ昼飯時、となり、警固屋から音戸に戻った上で、老舗料亭「戸田本店」に連れて行っていただいた。ここは、山本五十六をはじめとした海軍将校が愛した遊びの場であり、海軍将校の家族が面会のために逗留した宿でもあったそうだ。

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普段は懐石料理を出されている高級店だが、現在のコロナ禍では、鯛めし・鯛そうめんのテイクアウトのみ。ある意味で、庶民には普段食えない高級料理をリーズナブルに食えて良いが、出してる方はたまったものではないだろう・・・。

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2階から見下ろしたところに浮かぶ木船は、なんと鯛の生け簀なんだそうだ。しかし、伝統の生け簀も老朽化して、潰す予定なんだとか・・。

切り盛りするお母さんと話をすると、私のような歴史マニア垂涎の話を、多数お持ちだと分かった。ここは、音戸再来時に、再訪してじっくりお話を聞く必要がある!

警固屋「音戸の瀬戸公園」、音戸の渡船、戸田本店。ここに、今は無いドミトリー、コワークスペース、カフェが組み合わさると、何ぞ為るんではないか。1つでは無理だろうが、4つ5つのフックで共感できるペルソナを想定して、徹底してその人たちと未来志向する場。でもたぶん、大事なのはハコじゃないんじゃないか。

その場限りの物見遊山は、此岸/彼岸を越えない世界。それでは勝てないし、面白くもない。こんな辺鄙で経済効率性の低いところは、此岸も彼岸もない祭りが必要なんじゃないか。人生是祭、海賊魂。ワチャワチャ、ムズムズ感。セレンディピティの充満感。都会に感じられないヤンチャ感。
「ニッポンはのぅ、役人面がデカい顔しとう時代は、ダメがじゃき!」
・・まだ思い付きを並べたに過ぎないが、そのうち、もう少しましな言葉に組み立ててみたい。

アトリエ壱で、食器を購入

ちょいと時間が出来たので、宿の近くにあって気になっていた、陶芸の「アトリエ壱」を訪ねる。図画工作が永年「2」だった私には、デザインも技法も深いことはサッパリ分からないが、なんとも言えない味わいのある青い器が気になっていたのだ。

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主の佐々木しずさんは、警固屋ご出身で、愛知で技術を学ばれたのちに、旦那様と共に音戸に移住されてアトリエをされている、ということ。何をする訳でもない私が言うのもおこがましい限りだが、同世代でもあり何だか勝手に心強い気になる。

会長の音戸オジサン化計画(マル秘)

夜は、相川会長と、会長の会社のシステムご担当の方と会食。名物のハモ料理と、広島の山の方の鮎の塩焼きを贅沢に頂く。私はシステムご担当の方に、動画クリエイターを入れて会長を「名物、音戸オジサン」にしては、と勝手なことを言っていた。

しかし。会長は色男で見栄えするし、胆力がありつつハートフルで茶目っ気もお持ちとお見受けしたので、実は相当マジメに言ってたりもする・・・。

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8月21日(金)音戸の自治会の重鎮にご挨拶

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この日は、地元にある集会に参加した。

進捗会議

会場は、呉市の音戸支所が入る、隈研吾設計の「呉市音戸市民センター」。
午前は、音戸町魅力化推進協議会のコアメンバーである、相川会長、赤川安正さん(広島大学名誉教授、奥羽大学元学長)呉のプレイヤーである下野隆司さん、atsuyoshiさんらで、魅力化推進協議会の進捗確認が行われた。

赤川さんは歯科界のレジェンドである。下野さんは、クラファンで資金を集めて、空き店舗活用などを仕掛けておられるプレイヤーだ。

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皆さまとご挨拶

午後は、音戸のまちづくり協議会(まち協)の会長や女性会長など来られて、会合になった。また、会長には、皆さんの前で名乗ってご挨拶する機会を貰えた。

場所を華鳩別邸に移しての懇親会。会合でも地域おこし協力隊の方がお話になっていた「長尾峠」を、現役でご存じの老人会会長のお話など聞いて、主要なステークホルダーの方の顔と名前とお人柄を見知ることが出来た。

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8月22日(土)広島を後にし、長野へ

朝、お世話になったお宅を出て、スクーターで音戸を出て一路、広島駅に向かった。

潜水艦のタマリバ

呉市内を通過。ふと、海上自衛隊呉基地を見ると、そこは潜水艦のタマリバだった。

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潜水艦って、ロマンある。日本は原潜は無いと思うのだけど、静粛性の高いボディとバッテリー駆動に定評があると聞いている。原潜並みの長期間潜水航行は無理かもしれないけど、相当の期間のステルス活動が可能なはずで。

しかし、いくらハードが素晴らしくても、モノを動かして運用するのは人。1972年にJALの福岡羽田便が、羽田沖に機長の故意で墜落した事故があった。逆に、1983年、燃料搭載量を間違えて航行中に燃料切れを起こし、エンジン出力ゼロ状態でグライダー滑空して死者を出さずに済んだエア・カナダのギムリー・グライダーも。
どんなにハードが洗練され、工程の多くがオートメーションになっても、最後の最後、際の際は、人なのだ。

第一、精度の高い潜水艦を作るのも、心づくしと技術の高い人がいないと成り立たない。最近でこそシンギュラリティとか聞かなくなったが、完全に人の意欲・技術が要らなくなる世は、少なくとも自分の目の黒いうちには来ないだろう。

名古屋で乗り換えて、長野を経て志賀高原へ

広島駅でスクーターを返した後、新幹線のぞみに乗って東京方面へ向かい、名古屋で下車。

今回、仕事で志賀高原を訪れる嶋田貴文さんに、同行のお誘いを貰っており、嶋田さんが力を入れている志賀高原には是が非でも行く!と決めていたのだ。

特急で長野駅に降り立つと、つい一週間ちょい前に白馬ステイで通っていたため、なんだか旅の地の感じがしなかった。嶋田さんと合流したところに、今回お世話になる、上林温泉「不動尊の湯 御宿ことぶき」の主である大作さんが車でお迎えに来てくれていた。

信州・上林温泉郷と、ことぶき

上林(かんばやし)温泉は、長野県下高井郡山ノ内町にある温泉街だが、近隣の湯田中温泉・渋温泉に比べてまちがコンパクト(というか宿が両手で足りる程度?なので「まち」とも言えない)で、自然も豊かな印象。

長野オリンピックではハーフパイプの会場もあったそうだが(今は無さげ)、有名なのは何といっても、猿が温泉に入る「地獄谷野猿公苑」であろう。『テルマエロマエ』の第一巻にも登場するシーンだが、今回のお宿ことぶきは、そのテルマエロマエにも登場している。

Wikipediaによると、1902年に温泉地として開祖、1928年に羽田孜(元首相)の祖父で、長野電鉄創業者の神津藤平がホテルを建て開発した場所らしい。文豪や政治家なども多く逗留したとか。なるほど、長野電鉄の沿線開発で出来た温泉街であり、その系譜がのちに志賀高原の開発にも繋がった、ということらしい。

さて、そんな温泉郷にある「お宿ことぶき」は、現在の主の大作さんのお父様がこの地に宿を営業していたところに、生保会社の保養所が売りに出たところを買ってそちらを発展させたものだ、とか。

宿に着いて、露天風呂で夕闇が濃くなる様を見ながらお湯を楽しんだ後、トライアル開発中の庭園BBQで、信州ラムと地ビール生を頂く。トライアルの結果、スペース的にもBBQにもってこいで楽しめると判明した一方、庭園を照らす照明、肉の焼け具合を視認できる程度の手元の明かり、室内との出入りする扉が重いスライド、といった細かい課題を検出できた。

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そして、宿主の大作さん・女将のアキさんの愛息子タケシくんが、実は「キラーコンテンツ」じゃないか、などと感じた。

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さすが、潮風べとつく瀬戸内から、高原の避暑地に移動すると、夜の涼しさは半端無かった。

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8月23日(日)ヨガ、森林浴、池、クッキング体験

この日は、朝からオンラインヨガ。嶋田さんの従姉が札幌のヨガインストラクター(他にもいろんな顔をお持ち)で、私の姿勢の悪いポイント、気を付ける点など踏まえて、ありがたいプライベートレッスンをしてもらった。長期旅行では腰に来やすいので、大変助かった。

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そのあと、野猿公苑に向け散歩し森林浴のあと、昼ご飯でソバを食い、そのあと志賀高原に上がって琵琶池のほとりでココアを飲みながら、MOUTAIN DISCOVERYご一行とお会いする。もともと、ここの共同代表の井戸聞多さんにオンラインイベントでお話聞いて感銘を受けたこともあり、ご拝顔ねがえてありがたかった。

ちなみに、このMOUNTAIN DISCOVERYは、SUP、キャニオニング、サイクリング、スキーシミュレータ(日本に3台しかないトレーニングマシンがあるとか)で、ともかくマウンテイン系のアクティビティは夏も冬もカバーするといって過言では無さそう。この日は、琵琶池でSONYの試作品を試しておられた。

さて、嶋田さんと私はそのご一行と別れ、ふたたびお宿ことぶきへ戻って、志賀高原のオーべルージュ「ホテルタキモト」の経営者にして、フレンチシェフの関宗一郎さんの、クッキングワークショップに参加。

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関さんがまたイケメンで、かつ優しく教えてくれる。むろん料理技術は言うまでもないが、食材の知識も豊富なので、調理しながらもトークも楽しい。「クッキングは芸術だ!」と叫びたくなる体験だった。
何より、包丁の正しい握り方・構え方を教わって、すっかり食材を刻むのが楽しくなり、「もう僕は、このまま食べなくても構いません。この宿中の食材を刻ませてください!」と言いたくなるほど(実際は、調理中にも摘まみ喰いしまくっていた)。齢43にして、刻み革命が起きた、と言える。

刻むのが楽しすぎて、私は仕上げの盛り付け・飾り付けなどは放り出してビールを飲み始めてしまったので、結局は関さんの出すコース料理をただただ堪能する格好になってしまったのが恐縮だ。

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10リットルご用意いただいた地ビールの生を空にして、夜中まで大作さん・関さんと瓶ビール片手に語り合った。なかなか、エモい合宿の様相。忙しい客商売の社長を捕まえて、夜中まで飲みに付き合わせたのは、後々考えて良くなかっただろ・・・と反省した。

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8月24日(月)ついに、帰京

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引き続き志賀高原でワーケーションの嶋田さんと別れ、お世話になったお宿ことぶきの皆さまにお暇し、バスで長野電鉄 湯田中駅へ。そこから長野電鉄に乗って長野までローカル各駅の旅。

地方の私鉄の例に漏れず、長野電鉄も払い下げ車両が使われていた。

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まず湯田中駅から信州中野駅までは、営団地下鉄(現・東京地下鉄)の
日比谷線(東急・東武直通)で使われた、昭和39年製造の近畿車両3000系だった。よく見ると扇風機に営団地下鉄のマークが入っていた。

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そして信州中野から長野までは、東急東横線・田園都市線で使われた、昭和50年製造の東急車両8500系。戸袋のボディに、東急マークがデカデカ書いてあるのが特徴の車両だが、もちろん東急マークが潰されて、代わりに謎のマーク(長電マーク?)が書いてあった。

単線の路線で駅にてすれ違いするのだが、途中の信濃竹原駅ですれ違い待ちする際、普通は左側通行なのに、ここでは右側通行だったのだ。この違和感たるや!

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調べると、この右側通行のすれ違いにはれっきとした意図があり、他に高松琴平電鉄の岡本駅でも見られる仕組みだった。
・・・ここは、この感動が分かる人だけ分かってくれればいいです(笑)。

長野行程を終えて思った。やはり、瀬戸内・四国と長野は、何かが違う。
それは、俺の受け止め方が違うだけなのか、はたまた外界のあり様が違うのか。それは未だ、分からない。


ということで、長々と書いた日別振り返り。さすがにこの後編をここまで読む人は俺しかいないはずだが、もし、「私との思い出は書いてないの!?」と思われた方、たぶん、私が失念しているだけなので、ご指摘ください。

返す返すも、道中にお世話になった方々、ありがとうございました!



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