したがき

こんな小さな水槽の前で何をしていらっしゃるのですか?絵、、、、絵を描かれているのですね。画家さんですか?驚かせてしまって申し訳ありません。熱心に見てくれる方、と言うよりか、わたしのことが見える方、久しぶりですから。ああ、気にしないで、今言ったことは忘れてください、ね? あの、、、つかぬことをお伺いしますが、魚はお好きですか? 飼育員ではありませんよ、まあ、強いていうのならばわたしは、、、、、この小さな水族館の主とでも言えるでしょうか。ずっと、この魚たちを見続けてきたものです。毎日、毎日入れ替わり立ち替わりお客さんが水槽の前でああでもないこうでもないと指差して魚たちを観察します。小さな子供たちは、まさしく舐める勢いで、です。飼育員の人たちは、餌を与え魚達に最良の環境を作って、元いた故郷が恋しくならないように面倒を見てくれるんです。一日を小さな水槽の中で過ごす魚たちは其処がいえであり、終着点です。それ以上はありません。沢山の仲間たちと、ガラスのなかを縦横無尽に動き回って、人間達にパフォーマンスをし、1日が終わるのを待つのです。幼い頃、初めてここに連れてこられたときは不安で、これからどうなってしまうのかと思いました。薄暗い空間に放り込まれ、目の前の景色を見たときわたしはビビビとおヒレを震わせて気絶してしまいました。沢山の見知らぬ生き物がその双眼をこちらに向けていたのです。その目の奥の暗さをおもむろに感じ取ってしまったのです。次に目を覚ましたとき、わたしは水槽の外にいて、彼らと同じ姿形をして倒れていました。と、言うのも目を覚まして、いつものようにパタパタと砂を落とそうとヒレを動かすと、そこにあったのはサンゴのようなものだったからです。私は驚いて、自分の体をぺたぺたと確認しました。ヒレの代わりに骨と肉と皮を持ったヒレのような、サンゴのようなものが下半身に着いていました。それは腕と脚、なるものだと後日わかりました。助けを求めなくては、元に戻らなければ、と本能的に悟ったわたしは、バンバンと厚すぎるガラスを叩いてみましたが反応はありません。水槽の中の仲間たちにも、外の監察官たちにもどうやらわたしの姿は見えないようでした。あれからずっとこうして仲間の姿を見ています。何もできずに見ている事しか、ゆらゆらとこの空間で漂うことしか、無能なわたしにはできません。しかし、‘わたし‘は今どこにいるのでしょうか、、、生憎水の中にいた頃、わたしは自分の姿を認識できないでいましたから、確認することもできませんがね。もう息たえて、どこかに捨てられてしまったか、鯨の餌になったか、、、、、ああ、すみません。話しすぎてしまいましたね。どうか、絵の続きをなさってください。話を続けてくれ?、、、わかりました、ありがとうございます。水槽の外に出てしばらくは、何もできない自分に嘆いてばかりでした。仲間がただ“人間”の娯楽として捕らえられ、命を消費されている事実を知ったのにもかかわらずわたしは彼らを追い払い、説教を垂れることすらできません。それどころか仲間は涼しい顔でスイスイと水槽を泳ぎ続けています。わたしの思いは行方知れずにただ水面を漂っているだけ。誰にも見えず、意思の共有もできず、句読点のつかない日々の連続は自己嫌悪が増す一方でした。しかし、ある日のこと、わたしのことをじっと見つめる人間の子供が現れたのです。初めはまさかと思いましたが、試しに動いてみると、その動きの通りに目が動くので確信しました。ただただ驚いていると、その子供は、わたしに向かって「きれいだね」と言いました。その後、すぐに走り去ってしまって、その「きれいだね」の意味はわからずじまいだったのですが、後日、熱帯魚のコーナーでその意味を何となく理解した時は、胸が少しこそばゆくなってしまいました。わたしは自分の顔を見たことがありません。水族館の中を動き回って、確かめようとしたことも何度かありますが、人間たちが自身の姿を写す大きな貝のようなものの前に立って見ても、生憎わたしの姿はどうやらそれには映らないようでした。何となく、自分の姿を見てみたい、と思うようになり、その日、わたしは手を器用に使って初めて自分の顔を撫でてみました。なだらかな曲線を描く輪郭と、口と、鼻と、目。初めて意識して触れるそれらに酷く興奮したのを覚えています。わたしのそれは、エンゼルフィッシュの尾鰭のようにしなやかなのでしょうか。クリオネのように白くつややかに透き通っているのでしょうか。ナンヨウハギのように鮮やかなのでしょうか。私の体躯はどのようにきれいなのでしょうか。酷く胸が苦しくなるのを感じました。それからしばらくした後、またあの子供がやって来たのです。

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