動画クリエイター養成科 #3感動を追う
学校では授業外にキャリアカウンセリングの時間が設けられた。
担当のカウンセラーに今学んでいることを踏まえ、将来の進路が相談できる。
前職の経験も踏まえてポートフォリオや持っているスキルについての話に及んだときのことだった。
「クラスのみんなはまだポートフォリオさえ持っていないんですよ。すごいですね。Mさんの将来が楽しみです!」
イキイキとした口調でそう言われた。
わたしはポジティブな意見や感動したことを、相手に素直に伝えることはすてきなことだと思っていた。
だから相手の良い部分を見つけたら、素直に伝えるようにしていた。
相手もきっと喜んでいると信じていた。
しかし今それをされているのに、わたしは全く嬉しくなかった。
むしろ苦しくなった。
今していることも、過去してきたことも、次に繋げることができるか、なんの保証もなかった。
毎日感情の波を漂いながら、そのことを考えるたびに飲み込まれないようにしていた。
わたしに期待なんてしないで。
だから目立たないようにしているのに。
もう手放しで無責任に相手を褒めたりするのはやめよう。
***
授業ではフォトショップのレクチャーが始まっていた。
わたしはすでにフォトショップの操作に慣れていたが、改めて教わると退屈どころか新たな気づきがあり意外にも充実した時間だった。
2週間程度続いたフォトショップのレクチャーが終わると、最後に課題があった。
授業で学んだスキルを活かしてサムネイル制作を行う。
課題の内容は、最新の家電製品を紹介する動画のサムネイルだった。
わたしはロボット掃除機を紹介する動画のサムネイルをつくった。
架空の動画だったので、製品のターゲットはファミリー層に設定した。
フローリングの上に大きくロボット掃除機をレイアウト。その背景には幼い子供と親が積み木遊びをしながら、コミュニケーションをとっている画像を合成した。
キャッチフレーズはこう
【私と子どもの時間を大切にしたい】
そして続けて商品名「ロボット掃除機」と前面に表示した。
ファミリー層にこの掃除機を使用することにより時短につながり、家族との時間が増え絆が深まるイメージを合成画像とキャッチフレーズで表現したかった。
課題制作が終わるとクラスのなかで発表をしなければいけなかった。
順番にひとりずつ発表が行われ、わたしも「このサムネイルをみたターゲット層の想像力を掻き立てさせ、サムネイルクリック、動画視聴につなげたい」とクラスで共有した。
発表会が終わったあと「心に刺さりました!」と受講者のひとりから声をかけてもらった。
家電製品のさまざまな宣伝物をネット上でチェックしたあと、どういった角度でみせたら興味をもってもらえるのか、トレンドや業界動向もリサーチして考えたサムネイルだった。
わたしは制作を始める前にまず徹底的に調べる。
このサムネイルは、後日ほかのクラスメイトからも「フォトショップのときの課題すごかったですね」と称賛をもらった。
***
そりゃそうよ。みんなとは制作物のつくり方が違う。
今回初めてフォトショップを使用する人たちがほとんどななか、みんなは授業で学んだことを思い出し操作しながら制作する。
一方わたしはフォトショップ初心者ではなく、制作の経験があった。
さらに架空の動画のターゲットやペルソナ設定にはじまり、視聴者と動画の導線までを意識してつくり上げた。
心に刺さってもらわないと困る。
人に求められることを意識したサムネイル。
みんなのように好きなようにつくったりなんてしない。
わたしは心のなかで勝手にマウントをとっていた。
だけど、ふと思う。
もしわたしがみんなと同じように、なんの知識や経験もなく好きなようにつくっていいよって言われたらどんなものをつくっていた?
………………… 出てこない。
わたしがつくりたいもの?
授業中、家路の途中、家に着いてからも考えた。
だけど考えても考えても出てこなかった。
人に求められることだけを意識しすぎて、自分が本当はなにがつくりたいのか、わからなくなっていた。
それに気づいたとき、なにもかも全てが遠くなった。
なにがつくりたいかわからない、クリエーションをする意味がわからない。
どうしてわたしは今こんなことをしているの?
***
自分のスキルを磨くために生きる半年は、今どの位置にいて、将来的にどのような成果が見込めるか明確にイメージできないと、あっという間に迷子になった。
印刷物の制作をしていたから、動画制作も学びたかった。
今後さらに求められる能力だと思ったから。
だけどなにがつくりたいのかわからない。
次のステージに向かうまでのロードマップが密かに存在感していた。
だけどキャリアをストップしてまで動画制作を学んでいるのに、クリエーションをする意味がわからない。
そのロードマップの上を歩いても意味がないように思えた。
もう適当に就ける仕事で働いて、趣味で制作をしたらダメなの?
生活に必要な分を稼いで、余力で旅行やカフェ巡りをして、
そしたらこんなに苦しまなくてすむんじゃないの?
もうスキルを磨くのやめたら?
***
「仕事を頑張った褒美に、
美味しいものを食べてさ
旅行に行って気晴らししてさ
たまにブランド物買ってね、
気の合う人がいたら結婚したらいいんだよ。」
制作業務ができなくなり、人間関係で悩んでいたとき友人がわたしに言った。
みんながそうやってバランスをとりながら、上手く生きているのは知っている。
だけどそれじゃわたしは満たされないの。
過去の友人とのやりとりを思い出していた。
そのとき、その言葉がしっくりこなかったにも関わらず、なにがつくりたいのかわからなくなり、わたしは友人に言われた全く同じことを考えていた。
***
過去と現在をいったりきたり回想しながら複雑になる。
一体わたしはなにがしたいんだろう?
周りと同じようにしたらもっとラクに生きれるんじゃない?
どうしてこんなにこだわるの?
自分で決めた選択の価値を見失い、自宅と学校を行き来する生活のなか途方に暮れていた。
なにになりたかったんだっけ?
わたしはどんな子供だった?
記憶がさらにさかのぼる。
学生時代、勉強が苦手だった。
授業中にノートの端の余白を見つけては、勉強そっちのけで絵ばかりを描いていた。
だけど図工や美術、音楽に家庭科さえも、感性が求められる副教科は得意で、どんどん伸びていった。
ただ楽しかったから。
ただ好きだったから夢中になった。
そしてわたしの人生を豊かにしていた。
そうゆうことか。
ただ好きだからクリエーションをしていることに気付いた。
意味なんて必要ない。
つくることが好きだから、人生をかけて携わりたいと思うから、他のどんな娯楽と比べても譲れないんだ。
とてもシンプルなことだった。
***
ただ好きだけで始めたことも、仕事にして経験を積めば人に求められる表現力が必要になってくる。
人に求められるものをつくるのは、その方がビジネス的に利益になるから?
人を喜ばせたり、感動させたりすることで好きなことを職業として成立させていると思っていた。
初めの頃はそうだったかもしれない。だけど突き詰めて考えていくと、喜んだり、豊かになったり、感動したりする人たちを見て、
わたしが嬉しいから
わたしの心が豊かになるから
わたしが感動したいから
だから人に求められるものを、徹底的に意識してつくっていることにやっと気づいた。
感動させたいから。
それはわたしが感動したいから。
大丈夫、わたしは自分のつくりたいものをちゃんとカタチにできている。
〈好き〉から始まって、〈だれかを感動させたい〉に変化して、今は〈わたしが感動したい〉の位置にいた。
わたしの〈好き〉は今後も変化していくのかな?
***
自分を知ることが、こんなにも苦しくて、こんなにも不安定で、だけどこんなにもシンプルなことだとは知らなかった。
このフェーズが人生のなかで意味のあるものになると確信していた。
しかしいつまでも悩んでばかりいずに、そろそろこの半年間をもっと有意義に過ごさないといけないとも思っていた。
もしわたしがみんなと同じように、なんの知識や経験もなく好きなようにつくっていいよって言われたら、きっと楽しみながら、ただ夢中になっていただろうな。
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