見出し画像

お母さんが書くお母さんの恋愛小説

わたしでない誰かへ
母が夜中に映画を見ていた。今ならわかる。母は映画を見ていたんじゃない。
映画をみるフリをして父じゃない他の誰かを想っていたこと。

31歳の誕生日は最悪な始まりだった。3年付き合った彼には誕生日の3週間前に振られその不幸を後押しするかのように部署で一番の嫌われ者と働くことになった。最近の口癖は

「なにやってるんだか」だ。人生うまくいきすぎていたのかもしれない。小さい頃から勉強も中の上の出来で、出た大学もすごーいと言われるわけでもないが、誰もが知っている大学だ。

高校一年で彼氏が出来て初体験を済ましそのあと大学に入ってからも3人彼氏が出来ては別れを繰り返した。

 そして社会人3人目の彼氏にそろそろ今年こそは結婚の申し込みをされるかと目論んでいたところあっけなく振られた次第である。同じような人生を歩んでいる人はごまんといるだろう。

 今日たまたま会社のエレベーターで乗り合わせた大学も一緒だった同期の百合に会った。私が嫌われ者の上司とペアになったことは既に知っているようだ。

「どう、深沢さんとは」

「なんかさーもうやってられないって」

「私も詳しいことは知らないけど去年離婚して  それからまたパワーアップしたんだって?」

「えっ離婚したの?」

知らなかった。

「こないだ同期で飲み会があって由香子が話してたよ」

と言ったときはっと百合はまずいといった顔をした。同期の飲み会に私を誘ってないことに気づきまずいと思ったのだ。誘われてなかった事実を突きつけられショックだったがどうにか

「へーそんなことがあったんだ!!それより彼氏とはどうなの?」

気まずさを隠すかのように話題を変えた。自分でいうのもなんだが、こういった対応の切り替える能力には優れていると思う。百合は安心しきった顔で

「うん、うん、まあまあうまくいってるよ。こないだ、彼の実家近くにある温泉に行ったんだけどほんとよかったよ。おすすめ!ほら大学の時はよく安いとこ見つけて一緒に温泉いったりしたよねー」

「そうだね、また今度いこうね」

そんな会話を何人か別の階で降りるのを見届けながら話した。そして私の降りる番になった。「じゃあまたね。おつかれま」

「うん、おつかれさま春香もいい報告まってるよー」

 涙であふれているのを気づかれないようゆ隠すのが必死だった。たった数分間の間に自分が飲み会に誘われてなかったこと、友達は彼氏と順調であること。彼氏の実家近くの温泉というキーワードを言うことで彼氏の家族にも二人の交際が認められていること遠回しに言われたこと。現実を突きつけられた。私の現実と言えば彼氏に振られたこと。そしてこれから夜まで深沢さんと働くことだ。

普段、お酒は飲まないが嫌いではない。いつも飲みに行くときは彼氏が一緒だったが今夜は無性に一人で飲みたくなった。強がりかもしれないが一人でも飲みに行ける女なのだと作りあげたかったのかもしれない。しかし、実際はどこのお店がいいのかよくわかなかった。そんな飲み屋一つも決められない自分にイライラしついにはアパートがある最寄り駅まで来てしまった。

「なんだかな」

とつぶやいた。もうこうなったらコンビニでワインとつまみを買って録画してたまっているドラマでも見ようと決めた。こんな金曜日の夜もいいじゃないか。また涙が溢れ出た。鞄からハンカチを手探りで探し始めた時だ。地下につながる階段に目がいった。階段の入り口には

【お一人様大歓迎 本日のおすすめ本 それはお店のなかでのお楽しみ】

小さい黒板が立てかけられていた。今まで何度も通っているけどこんなお店あっただろうか?お一人様段歓迎ってとこは今の私にぴったりでありがたいけど、おすすめ本?ここはレストランじゃなくて本屋?興味が湧いてきた。女は失恋すると旅に出たいようになにか違う刺激が欲しかった。今は案外無敵だ。恐る恐る階段を降りて重い扉を押した。昔ながらの喫茶店にあるようなカランコロンと音が響いた。

奥からいらしゃいませと物腰のやさしそうな男性の声が聞こえた。他に客は男女のカップルとカウンターには一人の常連らしき男性が座っていた。てっきり空いてる席にどうぞと言われるものだと思って座りやすそうなソファに目をつけた。それなのにマスターらしき優しそうな男性から返ってきた言葉は

「いらしゃいませ。あっお客様はどうぞこちらの席へ」

お客様は?マスターのその言葉使いに違和感を覚えた。まるで、私を見て席を選んでいるような気がした。通された席は目をつけていた席からは離れた固そうな椅子だった。思わずあっちのソファ席はダメですか?と訪ねてみようと口から声が出かかった時、再びカランコロンと誰かが中に入ってきた。マスターはすかさず

「いらっしゃいませ。あっお客様はこちらの席で」

ん?またか。なんだろうこの違和感は。なんとなくおかしい。入ってきた客は私と同じくらいの年齢だろう。その男性もあまり座り心地の良いとは思えない席に案内されていたが気にとめてないようだ。お店の雰囲気はとても懐かしい感じがした。立派な柱が真ん中にたっていてそこに立派な古時計がかけられていた。そういえばメニューも水も運ばれてこない。店のマスターはなにやら本棚から真剣に本を選んでいる。壁全体が本棚になっていて本が埋め尽くされていた。よく本好きな人が家を建てるときに注文するような本棚だ。あまりにもマスターが真剣に本を物色しているので、しばらく観察してみることにした。この店は一体、何屋なんだろう。後から入ってきた男性を見るとテーブルイをじっと見ていた。なんとなく視線がテーブルにあるのでなく本当にテーブルを見ている感じだった。なんなんだ。体感的に五,六分は経っただろうか。ようやくマスターが私のテーブルにきて

「おまたせしました。あなたにおすすめの本はこちらです」

と言って一冊の本をテーブルに置いた。わたしが

「へっ?」

なんとも情けない返事をするとマスターはニコっと微笑んでエプロンのポケットから使いこんだ鉛筆をそっと出してテーブルに置いた。

「お客様は初めてですね。これからおルールを説明します」

「ここは喫茶店ではないんですか?」

「はい。そうです。喫茶店と言われると違うかもしれません。ここはお客様に本を読んでいただいてその続きの物語をお客様に書いていただく店です」

マスターが置いた本をちらっと見ながら

「つまり、あなたが今持ってきた本を読んでその後の話を書けと?」

ええ、そうです」 

そんなお店聞いたことない。これだけSNSが出回ってる時代にそんな一風変わった店があったら話題になりそうなのに。気味が悪。しかし目の前にいるマスターはどうみても悪そうな人には見えない。

「あの、私こちらのお店に入るの初めてで、ここはメニューもないし今までここにお店ありましたか?」

どうしても疑って習性は子どもの頃からだ。何かの宗教に勧誘なのだろうか?

「最初は皆さん、同じように聞かれます。そうですね、毎日開けているわけではありません。それに全ての人間にここが見えるわけではないのです。つまり限られた人間が見えるのです」

なんてことだ。ヤバい店に入ってしまったようだ。平常心を装いながら

「私、ここの通りを何度も通っていたんです。けどこの場所には全く気づきませんでした」

「そうでしょうね」

マスターはまた優しく微笑んだ。

「そうでしょうねって言いました?それはどういうことですか?」

「先ほども申し上げたように全ての人に見えるわけではないのです。正直いうとどういうお客様がここに来るのか私もわかっていないのです」

どんどん怖くなってきて、思わず席を立った。「ごめんなさい、今日はちょっと用事を思い出して帰ります」

そう言って帰ろうと早足で出口に向かった。慌てたせいで自分のカバンを落としてしまった。携帯と化粧ポーチがカバンから出てしまった。急いで取ろうとカバンに入れた。ここはおかしい。早く抜け出さなくては。ふと上を見上げると後から一人で入ってきた男が

「大丈夫ですか」

と声をかけてきた。春香は

「はい、すいませんお騒がせしました」

「あの、これはあなたのですか」

そういって男はリップクリームを差し出してきた。化粧ポーチから出てしまったのだろう。春香は

「ありがとうございます」

と軽く会釈をしてすぐドアの方向へと体を向けた。そのときだ。男が

「またね

と言った。春香は一瞬耳を疑ったが確かに春香に向かってまたねと言った。鳥肌が立った。春香は階段を駆け上がった一体なんだったのだろう。

手を胸に置き大きく深呼吸をした。前を行き交う今時の女子高生らしき二人組が視覚にはいった。そこで耳を疑うような会話を聞いた。

「ここのお店のタピオカがおいしいってよく聞いてさーインスタ映えもやばいらしいよー」

と高い声で話しながら先ほどまでいたあの店の階段を降りていくではないか。目を疑った。あの看板でなく、そこには大きくカラフルなチョークでタピオカと書かれた文字とタピオカの絵があった。いままでいた場所はどこにいってしまったのだ。夢をみているのだろうか。店にはいってもメニューもなければ水も出されない。出されたものといえば一冊の本だけだ。それもそれを読んで話の続きを書けという。そんなおかしな話聞いたことない。怖くなって自宅に小走りで向かった。

家に帰って熱めのシャワーを浴びて冷蔵庫から酎ハイを取り出し一気に飲んだ。安っぽい甘さが口に広がった。二人がけの固めのソファに腰掛けて今日起こったことを丁寧に思い出してみる。あの空間。マスターの優しそうな顔。またねと言ったあの男。近くで見た瞬間とてもきれいな整った顔だと思った。またね言われた時なにも返すことは出来なかった。どうにか早く店から出なければと必死だった。なんで「またね」なんて言うのか聞いてみる余裕もなかった。それともあの男自体が普段から気さくで誰にでもあんな風に声をかけるのかもしれない。そう思ったほうが自然だ。とにかく今日のことは誰に話しても信じてもらえないだろうから黙っておこう。もう考えるのはよそうと思った。リモコンを取ってため込んだ録画をみようとつけてみたが、考えないようにすればするほどあの店が気になった。テレビを切って少し夜風にあたろうとベランダに出た。通りのネオンの光が孤独感を増した。大都会と言われるこの東京にはどれだけの人が幸せと胸をはって言える人がいるのだろうか。自分の状況なんて不幸でもなんでもない。そろそろ結婚をと勝手に考え始めた恋人に振られ仕事も誰ペアなりたくない上司とペアになった。たったそれだけのことじゃないか。ネオンの光を吸い込むように大きく息を吸った。思い切り吸って吐こうしたときまたキラキラした通りのネオンが目についた。涙で視界がにじんで見えた。何にこれからしがみついていけばいいのだろうか。目をそっと閉じると目にたまった涙がぽとっと頬に落ちて口にしょっぱい液体が入った。今日はもう横になろう。すぐに寝られそうにはないがどうせ何をしても状況が変わらないならベッドで目をつぶっていたほうまだマシである。

春香は目を閉じて再びあの男のことを思い出していた。綺麗な顔のあの男はどんな本を読んでどんな続きを書くのだろうか。そういえば男の他にも男女のカップルとカウンターには男性が座っていた。あのときは気にして見ていなかったが彼らは本を読んでいただろうか。読んでいなかったような気がする。いくら心を落ち着かせようとしても自分の身に起こったことが気になってしかたない。そして決心した。また通りに出て確かめに行こうと。

眠ったのか起きていたのかよくわからないまま春香は重い体を起こした。顔を洗っておろしたてのシャツに袖を通した。新品独特の匂いがしたが嫌いではない。しばらくぶりにジーンズを履く。化粧は薄くファンデーションだけにしておいた。自分でいうのもなんだが年齢の割に綺麗な肌だと思う。鏡の前で笑ってみようとするが目が全然笑ってなかった。こんな朝早くから外に出るのは去年の夏にさとしとキャンプに誘われた時以来だ。また孤独感が春香を押しつぶそうとする。以前、会社の昼休みに衝動的にさとし近況を知ってしまった。隣に写る女性は若くて綺麗だった。背景からすると春香とも行ったことがあるキャンプ場だった。SNSなんて見なければいいのに、見た自分を恨んだがこんなSNSに支配されている時代も恨んだ。

マンションのエントランスを出ると管理人のおばさんが草むしりをしていた。こんな早くからやるものなのかと関心しながら

「おはようございます」

と声をかけた。

「おはようございます、早いですね」

春香の方に体を向こうともしない。いちいち一人一人の住人の顔なんて覚えていないのだろう。しかし、一見お互いを踏み込まずいる関係性のほうが楽なんだと思う。昨晩はあの店を怖くなり逃げるように帰ってきたが朝方の雀の鳴き声を聞いたあたりから、もう少しあの店にいても良かったんじゃないかと思えてきた。自慢するほどでもないが、小さい頃から本が好きでジャンル問わず読んできた。大学は理系だったが小学生のころは小説家になりたいと本気で思っていた。けれど、周りの女の子達が学校の先生、看護師さん、ピアノの先生と話している中で本を書きそれを生業にして生きていくなんて周りからなんて世間知らずと思われるのが怖かった。小説家になりたいのなんて打ち明けた日にはどんな本を書いているの見せてとちゃかされるに決まっていると思っていた。あのとき一緒に過ごしたの女の子達はどうなってしまっていたんだっけ。たしか学校の先生になりたいと言っていた彩ちゃんは地元の工場勤務。ピアノの先生になりたいと言っていた志保ちゃんは高校生の時に子供が出来て退学になりバツ2のシングルマザーになって地元の団地に住んでいるというのを数年前に会社近くで偶然会った地元の友達の夕子に聞いた。


そんなことを思い出しながら例の通りまできた。心臓が少し早くなりやはり引き返そうか一瞬迷いがでたが興味の方が勝った。あの場所にあってほしいと願った。昨日は一瞬でタピオカの店に変わってしまったが今日はどうだろう。あと数十メートル、そこから見る限り昨日あった看板らしきものはない。お店は階段をおりた地下にあるので近くまでいかないと分からないのだ。あと五歩あと四歩、店の階段の上まできた。看板はない。どちらか分からない。確かめたい一心で階段を駆け降りた。店は昨日の女子高生がインスタ映えすると言って入っていったタピオカ店だった。

昨日のことは幻覚だったのだろうか。もう二度とあの店には入れないんだと悲しくさえ思えてきた。すぐにマンションに戻る気のもなれず通りにある老舗有名チェーン店のコーヒーショップに入った。このモヤモヤをどう消化していいのか分からず心此処にあらずといった具合だが今日は時間にも余裕があるので普段は頼まないラージサイズのコーヒーとセットでお得になっているホットドッグをオーダーした。店は空いていた。よく通りが見える席を選らんだ。窓越しから行き交う人の群れがよく見えた。よく手入れされた子犬を連れた中年の女性、スーツケースを引きこれから出張に向かうと思われるスーツ姿のサラリーマン、オールして遊んで帰ってきたのだと予想される大学生らしき若者たち。こう観察してみると小さい駅のこの町にも色んな人間が生活をしており誰ひとり自分には興味を示してはくれないものだと孤独感が襲ってきた。たかだか恋人に振られただけなのに。コーヒーも飲み干しもう一度なにか注文しようか窓越しにあるメニューを見ようと手を伸ばした時だった。

大きめのリュックを背負い真っ白なTシャツを着て颯爽と歩く青年を見つけた。彼だ。春香は急いでバッグを持ってコーヒーショップを出た。会計が前払い制で助かった。一歩間違えばストーカー扱いされても言い訳できないと思ったが青年を追いかけた。春香より頭一つ大きいと思われる青年はどこにいくんだろう。どうにか青年から目を離さないように追いかけていく。そのときあの店の階段を降りていった。

「あっ待ってっ」

思わず声が出た。春香も階段を駆け下りる。そして思い切って扉を押した。あのときの感触と同じだ。あの店に入れたと思った。春香の存在に気づいた優しそうなマスターが

「いらっしゃいませ」と聞こえた。ゆっくりと一歩一歩踏み出して呼吸を整えた。あの青年はどこだろう。

「いらっしゃい、お客様はあちらの席で」

こないだと同じように席を指定されたようだ。あの青年はどこだ。さりげなく店の内装を見るようなそぶりで青年を探した。青年は以前と同じ席に座っているようだ。青年も春香の視線に気づいたようで春香を見て少し微笑んでくれたような気がしたが、すぐさま青年はテーブルに視線を落とした。今日こそは恐れることなく何かを収穫したい気持ちだった。春香は青年と同じようにテーブルに視線を落としてテーブルクロスの感触を感じた。そうこうしているとマスターが春香の前に来て

「ご来店ありがとうございます」。客様は初めてではありませんね」

「ええ昨日も、二回目です。最初は動揺してしまって。話でなんとなくこちらのお店の主旨は分かったんですが」

「そうですか。それはうれしいです」

こんな変な店忘れる人なんているのだろうかとツッコミたくなったが心にとどめた。

「じゃあもう少しお待ちください」

そう言ってマスターはまた例の本棚に向かった今日ははしごを使ってなにやら熱心に探しているようだ。あの青年の席は春香の席から少し見えにくいがうまく体の角度を変えれば見えなくもない。青年は何も読んでる様子はない。青年も春香と同じようにマスターが持ってくる本を待っているのだろうか。

「おまたせしました」

そういってマスターが一冊の本をテーブルに置いた。

「あの、本を読んで続きを書くということですよね」

「そうです。ただどうしても読みたくなかったり書きたくなかったら何もしなくていいです」「えっそうなんですか。私てっきり必ず何か書かなくてはいけないとばかり思ってました。だって今まで文章なんて書いたこともないし」

嘘をついた。昔、小説家になりたくて夜な夜な机に向かって書いていたじゃないか。出来上がった作品を読み直してなんて才能がないんだと机に顔を突っぱねて力いっぱい鉛筆を折ってしまうんじゃないかと思うくらい握りしめたじゃゃないか。何度応募しただろうか。沢山の時間を費やし書いてきた小説は春香にとっては大切な宝物だ。ただ、他の人が見るとそれだただの紙切れのゴミなのだ。マスターは優しい笑顔でニコっと微笑んだ。きっとこの今いる空間は現実的じゃない。怖くて始めは逃げた。けど今この空間が居心地がいいと思えるのは何故だろう昨日の今日の話なのに、この空間が今の春香には必要に思えてならなかった。春香は一度深呼吸をして目をつぶって本を開いた。



見事に満開になった桜が病室からよく見える。なんて綺麗なんだろう。ここが私の生きていくスタートか。私を抱く手から溢れんばかりの愛情を感じる。私を抱く女の顔はこの体勢からはよく見えない。ゆらゆらと揺らされている振動もなんとも心地良い。しばらくして抱く女が私をそっと固めのベットに置いた。顔が見えた。その女は優しく

「生まれてきてくれてありがとう」

と言って優しく私のおでこにキスをした。勢いよく病室のドアを開ける音が響いた。

「どうだ体は?大丈夫か?」

「あなたもう少し優しくドアを開けられないの?ねぇお父さんが毎回そんな大きな音を立てて入ってきたんじゃびっくりしちゃうよね」

と女は私に話しかけてきた。この男が私のお父さん。

「そんなこと言ったってこのドアがいけねーんだ」

「ねぇこの子の名前どうする?」

「うーん色々考えてはいるんだけどな。これから一生つきあってく名前だからな考えちまうよ」

「へーあんなせっかちな人がこどもの名前となるとそんな慎重になるものなのね」

女は嬉しそうに

「大切な宝物さん」

そう言って女は私をまたふわっと抱き寄せた。二人の会話はこの上なく居心地よくずっと聞いていたかった。けど居心地よいあまりにまたまぶたが閉じてしまう。あぁ幸せだ。あなた達のもとに生まれてくることが出来た私はなんて幸せものなんだろう。優しい父に母に恵まれてよかった。


しかし時は残酷なものだ。小学生にあがったくらいから女の様子がおかしくなり始めた。それは日々波があるようでいつかは学校から帰ってきた私を抱きしめて

「今日は三松にあんみつ食べにいこうか」

と言って無理に笑顔を作っては私の手を無理やり手を引いて店に向かった。上から女の顔を覗くと無理に口角を上げようとしているからか、力が抜けたときに口の横のえくぼがなくなったりまた出てきたりした。今日は大丈夫な日なんだと思った。また別の日は学校から帰ってくるなり

「早く宿題をやりなさい。この汚れた体操着は何?洗濯する人の気持ちも考えなさいよ。ったくあんたはダメだね」

そう言って私をののしった。そのころから私はひそかに女の機嫌の波を観察しては日記をつけることにした。そんな日記をつけるようになって一ヶ月が過ぎただろうか。私はあることに気づいた。女の機嫌が悪い日の夜には必ず沢山の布が干された。そのときの女は週の三回は近くに高齢の女の世話をするためにそこに出向いていた。その布の正体がなんなのかはすぐ分かった。認知症が深刻になっていた高齢に女の粗相の布だった。夜になると男と女の二人の会話が寝床から光が漏れる茶の間から聞こえた。

「どうにか施設にいれられないの」

「ほら、昔から頑固だからな。親父も家で死んだだろ、おふくろも当たり前のように自分も家で看取ってもらえるとおもってる。たった週三回の辛抱だろ。どうにかうまくやってくれないか」

「そんなこと言っても限界がある。今日下の世話をしているときに私に自分の」

「うん?」

話すのもしんどくなったようだ。少し間おいて

「とにかくもう限界よ」

と言って茶の間を出たようだ。その声は力なく弱々しかった。そんな会話を私はほぼ毎日聞いていた。完全に介護疲れだ。女は私のことを罵る日があってもときどき私の好物の春巻きを作ってくれた。あつあつの春巻きを頬張るのを見ては

「今日はついつい具を詰め過ぎちゃって皮がやぶれちゃいそうだったの。そんないきなり口にいれたら火傷しちゃうわよ」

「だっておいしいんだもん。また作ってね」

「本当に春巻きが好きなんだね」

と言って嬉しそうに笑った。

私が小学三年生の頃だった。玄関でいつものように

「いってきます」

と大きく声をだした。返事があるのはまちまちだった。しかし、その日は違った。女が私をやっと見つけたといった顔をして突然私を抱きしめた。

「どうしたの?」

女は私を強く抱きしめた。ランドセルを背負ったままだったのでランドセルもちゃぶれてしまいそうだった。女がつぶやくように言った。

「いつも怒ってごめんね、沢山怒ってごめんね」

私はいつもと違う女に動揺した。

「大丈夫だ」

そういってむりやり女から離れた。もう学校に行かないと遅刻してしまう焦りからこれ以上女のことをかまってる時間はなかった。

「じゃあいってくるね」

急いで中途半端に履いたままの靴を履き直した。玄関をぴしゃっと閉めると私はいつもの癖で庭の物干しを見た。そこには沢山の布が風に揺れていた。あの時引き返してもう一度女のもとに走って抱きしめれば変わったのだろうか。


苦手な社会の授業が終わり次の理科の授業が終われば給食かと少し気持ちが軽くなったときだった。突然担任の小山先生が私を廊下に呼び出した。とにかく家にすぐに戻るように、あとから先生もすぐに駆けつけるからと。理由を詳しく教えてはくれなった。よくわからないまま帰る支度を急いでした。友達の良子ちゃんから

「どうしたの」

「なんかとにかく家に急いで帰りなさいって先生が」

「いいなー私も帰りたいだって理科嫌いだしあっでも今日の給食は焼きそばだよ」

学校から家までは走れば🔟分もかからない。学校の正門で靴のつま先をトントンして走る準備は整えた。私は休むことなく家まで半分までの距離を短距離で全力を出すくらいのスピードで走った。心臓はドクドクと高まって子宮がきゅーと締め付けられる感じがした。幼い頃から何か緊張したり不安になると子宮が収縮される。この時もそうだった。

家まであと100メートルほどのところで同じ町内に住む鈴木さんのおばさんには

「おかあさんが大変だって、早く」

そんなこと言われても学校からここまで全力で走ってきたのだ。何かあったことっは間違いなさそうだ。家の庭には町内会の人たちが群がっていた。その人が私を哀れむように見た。そしていつも洗濯が干されている物干し竿に視線を向けると女が担架に乗せられて今まさに救急車に乗せられるところだった。


「お母さんっ」

私の叫ぶ声に父が気づいて駆け寄ってきた。父は私が母親の姿を見えないように私に覆い被さるように抱きしめた。そして力なく

「お母さんな、死んでしまったわ」

と言った。その夜、私は中田さんのおばさんの家に預けられたんだと思う。父は警察署に行き色々と話をしなくてはいけないようだった。中田さんの家で出されたカレーライスは口をつけただけで吐きそうになった。それを気づかれないようにトイレに駆け込んだ。


お母さんが死んだ。もう会えない。今もういないだ。お母さんが死んだ。人は本当に悲しいときは涙は出てこないものだとこの時学んだ。お母さんが死んでしまった。

明日からどう生きていこう。


次の日の昼に父にようやく会えた。父の目の下に黒々したクマが痛々しかった。その夜、母の姉が九州から駆けつけた。姉は玄関にはいるやいなや父に怒鳴りつけた。

「あんたがついていながら何しよる。こんなことになるなんてどうしてくれると」

父が力なく土下座をして床に顔を押しつけた。

「すいませんすいません」

何度もつぶやいた。

「のりちゃんから辛い辛いとは何度も聞いとった。だからあんたにもよく相談せなんといけんよっって。あんたのりちゃんから何回も聞いとったやろ」

また父が力なくすいませんでしたとつぶやいた。父のか細い声はおばさんには聞こえていあない。

「まさかのりちゃんが首吊って死んでしもうなんて」

私は体が硬直し一瞬で鳥肌がたった。そのときだ

「ねえさん」

さっきのか細い声とは正反対の力強い声が父から出た。がっと顔を上げた父の顔からねっとりとしたものが床からのびた。床も濡れたくっていた。

「ねえさん、お願いですから。今はその話は」

強く言う父の様子におばさんもはっと我に返った。



ゴーンと重く鳴り響く時計の音に春香はびっくとして本を閉じた。息が苦しい。何が起こっているんだろう。あたりを見渡して青年がさきほどの同じテーブルにいること何故か安堵した。そして目をつぶって大きく深呼吸した。


物語の主人公は私だった。


携帯を取り出し携帯に残るやりとりを見て胸をなで下ろした。春香の生きている世界はちゃんとある。相変わらず青年はテーブルに視線を落としてこれといって変わった様子はない。春香は静けさの中、思い切ってマスターと呼んでみた。

「何かありました?」

「あの、本を途中まで読んでみたんですが、どうしても信じられない内容ばかりで」

「そうでしたか、実は私には本の内容まではわからないんです」

「えっだって私がこちらの店にきてずいぶんと悩んで本を持ってきてくれたときも、おすすめの本とおしゃっていたんではないですか」

「そうなんですが、確かに私が本を持ってきました、私にもわからないんです本棚の前に立つと自然と私というか私の右手が本を手に取っていて」

やっぱりおかしい。こんなこと狂ってる。

「そんなことって。おかしいですよ。ここはなんですか」

マスターが困った顔を向けた。

「とにかく今日は帰ります」

マスターが優しい笑顔を見せた。カバンを手に取って青年の方を見た。さきほど変わりなく見えた。あまり長く見ていると気づかれてしまうのが怖くてすぐに視線をそらした。帰ろうして歩き始めた時だった。がたっと椅子を引く音がした。春香はびくっとなって思わず青年に視線を向けた。青年が姿勢良くたって春香を見ている。

「またね春香」

そう大きな声で言った。背筋がぞわっとした。

「春香って言いました?どうして私の名前を?」

「・・・」

「どうして?」

「・・・・」

「あなた前も私にまたねって言いましたよね?」

青年の声に負けないくらいの大きさの声を出した。自分の声が少し震えているのがわかった。

「あなたはだれですか?」

普通に考えたら失礼な質問だと思う。けどこの状況ならば不思議でない。青年は答えない。しばらく間をおいて

「ごめん」

力無く青年が呟いた。春香が青年に近づいていこうと歩き始めた時青年は右手を開いて自分の前に伸ばした。それは誰が見ても来ないで近づかないでの合図だ。それでも近づこうとしたとき

「来るな」

青年が叫んだ。青年の顔は来るなの言葉とは反比例するように申し訳なさそうな今にも泣きそうな顔だった。春香はこれ以上は踏み込んではいけない。これ以上踏み込むと自分の身も危ない危機感を持った。

「ごめんなさい」

思わず春香は謝った。とにかく今日は帰ろう。しかし、ここで帰ってしまうと今度いつここに来れるか分からない。自分が主人公だった物語の続きを読むことが出来なくなってしまうかもしれない。マスターは本の続きを書いてくれと言った。一体、私の物語はどこで終わっているのだろう。青年に勇気を出して

「またねってことはまた会えるんですか」

自分らしくない積極的な言葉に頬が熱くなった。そして

「ええっとまた、私はここに来れますか?」

と言葉を言い換えた。

青年の顔はさきほどの泣き顔ではなくなっていた。

「きっと来れると思います」

そう優しく微笑んだ。

「そうですか」

「でもどうやったら来れるか分からなくて」

青年は下唇を噛んだ。

「多分きっと」

「うん?」

じれったかった。青年は困った顔をした。青年から視線をそらすことはできなった。青年の長いまつげ、目は一重で大きい、そして困ったように鼻にをふれる指をみて綺麗な手だなと思った。目の前にいる青年がもはや生身の人間なのかどうかさえも分からない。けど確信してしまったこと、この青年に触れてみたくてしょうがなかった。きっと恥ずかしげもなく言うとこの青年に2度目惚れをしたようだ。これ以上、青年を見つめることは許されないような気がした。

「またね」

今度は春香が青年の代わりに言ってみた。青年がまたやさしく微笑んだ。それからどうアパートに帰ったかあまり覚えてない。倒れ込むようにソファにもたれて眠ってしまった。朝方の新聞配達のオートバイの音に目を覚ました。布団を掛けずに眠ってしまい寒さがこたえた。カーテンを開け外を見た。ジョギングをしている中年の男が見えた。昨日起こったことは人からみれば現実ではないかもしれない。けどジョギングにはげむ男を眺めながらあの男がどこから来てどういう生活をしているか知らないようにあの男も私の生活なんて興味のなく知ろうともしないだろう。あの話は紛れもなく私の物語だ。始めは怖くて仕方なかった。けれど今となっては最初に青年に「またね」と言われたことを問わなかったようになんでもっとあの本の物語を読もうとしなかったのか後悔さえしている。あの青年はきっ来れると言った。気持ちよくなってしまい寝るつもりなんてなかったけれど、すっーと眠りについてしまった。

マンションの掲示板でよく見かける中年の女ともう一人の女が立ち止まって話をしていた。一瞬、そのまま通り過ぎてしまおうか迷ったが中年二人も土曜日朝のこんな早い時間に出かけていく女に興味をそそられたのか会話が止まったのが分かった。春香は

「おはようございます」

と言って軽く会釈をしたすぐさま

「おはようございます、おでかけかしら、いってらっしゃい」

と返ってきた。こんな朝早い時間なの頑張って塗りたくっている厚塗りのファンデーションと赤の口紅、そして歯茎から生える黄ばんだ歯にうんざりした。春香は微笑んではみたものの二人のせいで一気に現実感がでて悲しくなった。私は何に向かっているのだろう。今、身に起こっている不思議で現実的でない世界を怖いと思う反面、この世界をないものにしてはいけないとも思う。すぐさま世間話を再開させた女二人から背を向け春香は歩き出した。


同じように窓際の席が空いていてほっとした。Lサイズのコーヒーとセットでホットドッグを頼み外を眺め始めた。時間は記憶にはなかった。はたしてあの青年は春香の視界に現れるのだろうか。二〇分ほど経過しただろうか、突然、携帯の着信音が店内に鳴り響いた。すっかりマナーモードにしていなかったことを申し開けなく思い慌てて電話を取って店の外に出た。電話越しに

「もう、やだぁ春香どうしうよう」

すぐに同僚の百合の声だと分かった。

「どうしたの?こんな朝早くに」

「ごめんね。もう辰也がひどいんだよ。私のことずっと騙してたの」

百合が泣きじゃくってるのが分かった。けれど今はそんな人のゴタゴタに巻き込まれている場合じゃないのだ。そうこうしている間に青年が通り過ぎてしまうじゃないか。春香は電話を片手に持ち通りから目を離さなかった。百合が

「春香今から家に行っていい?」

なんでこんな時間にとも思ったが浮気が発覚したのは昨夜で百合自身、一応電話をかけても許される朝まできっと我慢したのだと察しはついた。答えをどう答えようか迷って沈黙があった数秒後、春香が

「あっ」

と叫んだ。青年を見つけたのだ。通話の終了ボタンを押し春香は追いかけた。コーヒーショップに置いてきたカバンと食べかけのホットドッグなんて気にしている場合じゃない。今追いかけないと青年を見失ってしまう。前と同じように颯爽と通りを足早に歩く青年を見失わないように必死だった。青年の体が見えなくなった。あの店の階段を降りていったのだ。行ける!と春香の胸は高まった。今日こそはあの物語を最後まで読んで知りたいのだ。春香も階段を駆け下りた。あの重い扉の感触が甦ってきた。店に入れたことに安堵しながら扉の前で動悸が治まるように呼吸を整えようとした。深呼吸をしてどうにか治まってきたのを見計らったようにマスターきて

「いらっしゃい」

と声をかけてきた。今日はどこの席に案内されるのだろうか。

「今日はあちらの席でお願いします」

そう言われてマスターが指す指先に視線を向けた。なんとそこの席には青年がいるではないか。

「えっ相席ですか?だって他にも沢山席が空いているのに」

そう言ってはみたがそんな言葉はこの店には通用しないのは分かっているではないか。春香はビクビクしながら青年を見た。青年に笑顔はなく前と同じようにテーブルに視線を向けていた。

「すいません。失礼します」

そう言ったが青年から返ってくる言葉はなかった。席についてマスターが持ってくる本は前回と同じなのだろうか、まさか違う本ってこともありえるのではないか。確かにあの本の主人公は私なのだろう。けどまたあの本に出会える保証なんて今思えばあったのだろうか。マスターが前回と違い早々と本を持ってきた。

「もうルールの説明はいりませんね。読むのも自由読まないのも自由、その後の話を書くのもあなた次第です」

そう言ってまた優しそうに微笑んだ。前回と違った点といえば今日のマスターの声にはつらつさが感じた。本を開く前にちらっと青年を見た。青年の見つめる目にどきっとした。春香は気づかなかったがマスターが春香に話している時から青年の視線は春香に向けられていたのだろう。もうどんな言葉をかけても不自然になるに違いなかった。春香は

「また会えましたね」

とだけ声をかけた。青年は少し口角をあげたように見えたがどことなく不安そうだった。春香は本を開いた。予想していなかったことが起こった。てっきり本は前回と同じように春香の誕生から始まりまた続きから読めばいいものだと思っていたが、本の始まりは春香が閉じたであろう物語からスタートされているようだ。



葬儀が終わって父と二人きりになった。一通りの儀式が終わるまで私は泣くことを忘れていた。沢山の人が家に来ては私を不憫そうに見ていく。春香は心の中で問いかけた。お母さん皆が私を見て可哀想に可哀想にって言うの。お母さんお母さん。どうしたらいい。いくら心の中で聞いても返事はない。私は寝ているように死んでいる母の死体をみて母が組んでいる指をほぐしてみようとした。しかしその指の冷たさがその衝動を止めた。人は死んだら無抵抗なことを突きつけられた。当たり前の話だが。されるがままじゃないか。そんなことをされる母を見るのは耐えられない。早く燃やしてほしい。早く早く。私から見えなくなって欲しい。そう願った。私が生まれてきて優しく抱いては何度もキスをしたお母さん。私のことを宝物って言ったじゃない。なんでその宝物を手放すの。死んだら話も出来ない。触れないじゃない。なんでなんで。母が死んで初めて涙があふれ出た。いくら泣いても返ってくる言葉はない。やっぱり早く燃えてと叫んだ。


母が死んで私は可哀想な子とういうレッテルを貼って生きていくことになった。その後、父は少しでも私に寂しい思いをさせないように努力をしてくれた。小学校の授業参観の時はそのころ現場監督として働いていたがその合間をぬって作業着まま来ては着飾った沢山のお母さんの間を恥ずかしそうに申し訳なさそうに中腰になって廊下を歩く姿が見えた。教室の中に入ることも出来るのにいつも父は廊下から見ていた。他の生徒が父の汚れた作業着をみて鼻をつまむ仕草をしそれを何人かがニヤニヤと笑う。席を立ってそいつを殴り殺してやりたかったが出来なかった。出来ない代わりにどうにか違うところで復讐してやりたいと思った。子供ながらに考えたのは勉強で誰よりも上に立つことだった。間違っていなかったと思う。その頑張りのおかげで中高一貫の県内では三本の指に入る中学校に入った。けれど入学してそう日にちも経たないころには私は既に母親が自殺してしまった可哀想な子のレッテルを貼られていた。高校に入ってからはそう意識されることもなかったが私自身が母親に対する恨みを募らせてきた。子どもを残して自殺する気持ち。死んだら会えないのに。お母さんそれでよかったの?毎晩そう触れることができない母を責めて枕を涙で濡らし、そういう日もあるかと思えば親が死ぬことなんて別にありきたりのことじゃないか。そんな重く考えることもないじゃないと開き直る日もあった。しかし、そんなことを考えても最終的はいつもお母さん会いたいと思いをつのらせる結果になるのだ。高校ではそれなりに成績がよかったことが評価されたのか何人かの男子に告白され付き合うようになこともあった。私がそうこうして過ごしている時に父にも恋人が出来きたようだ。それは父を責めることではないと思ったので父の交際を知らないふりをして見守った。父に恋人が出来たおかげで大学進学のため、なんのとまどいもなく地元を離れることができた。大学でもそれなりに彼氏ができその後の就職先でも充実した日々を送れていた。こんな人生歩む人間ははごまんといるのだろう。そして三〇歳を過ぎそろそろ結婚を意識し始めてそろそろかなと想い描いていた時にあっけなく振られたのだ。



ゴーンと時計が鳴り響いた音にビクッとして春香は体をすくめた。あまりに夢中になって本を読んでいたためこの空間にいることを忘れていたのだ。青年を見ると青年は優しく微笑んだ。やぱっり綺麗な顔だ好きだと思い思わず触れたくなった。マスターはどこのいるのだろうと周りを見渡すと本棚の横にあるハシゴにちょこんと腰掛けてなにやらじっくり本を読んでいるというか眺めているようだ。私の視線に気づきマスターが私を見た。声には出さないが口を動かし何かを伝えようとしている。

「ん?なに?」

それにつられるように私も声に出さず口を動かしてみた。

「えっ?分からない」

なんとなくだか

「がんばって」

そう言ってるようだ。

「なにが?」

青年は変わらずテーブルを眺めている。さっきと違うことと言えば両手をテーブルに出して指を組んでいた。

今読んだ本がどんな終わりかけを待っているかわからなかった。けどここを訪れたからには最後まで読んでみようと覚悟してここに来た。自分が主人公のこの物語はどこで途切れているのだろう。不思議と怖くはなくなっていた。マスターは続きを繋ぐのも繋がないのも自由だと言ってくれた。その言葉が春香をどれだけ勇気づけてここに来させてくれたか。もう一度春香は本を開いた。前回と同じように本の物語はさっきまで読んでいたところの物語は消えていた。過去には戻れないってことなのだろう。



三一歳の誕生日目前に振られた私は途方に暮れていた。その不幸を後押しすかのように異動した部署では最悪な上司の下につくことになる。友人関係もこれといって上手くいってない。そんな時ふと入ったお店で不思議な体験をする。そこには優しそうマスターがおりその店とは本を提供されその本のを読んでは続きを繋いで欲しいといったなんとも変わってる店だった。ただし続きを繋ぐことは自由。繋ぐも繋がないも自分次第といったところだった。怖くなって逃げ出すように店をでるが一人の青年に突然

「またね」

と声をかけられる。


そう物語は終わっていた。あっけなかった。先をめくっても何も書いていない白紙のページだ。こんな終わり方ってある?本の終わりは今まに自分自身がいるこの空間で話が終わっているのだと思い込んでいた。あまりに予想外の終わりに呆然とした。目の前にいる青年の指を見たとき衝撃が走った。さっきまでテーブルの上にあった青年の手が肘から半分消えているではないか。怖くなってマスターを見たそれに気づいたマスターが慌てて

「あっごめんごめん。渡すの忘れちゃって」

ニコニコしながら春香に近づいてきた。青年の手が消えてるのにこの人は何をヘラヘラ笑ってるんだ。

「あの、手が」

「うん」

「手がないですよ」

「春香さん」

初めてマスターから名前を呼ばれた。名前を教えた記憶はない。

「なんですか」

「私がお話したこと覚えてますか」

「はい。話の続きを書いて欲しい。けれどそれは自分次第だと」

「そうです。これは春香さん自身のペンです。もし話を書くのならこのペンで繋いでください。けれど一度書いてしまったことは消すことができません。このままここを出てしまえばこのお店の存在はあなたの記憶から消えることになります」

「もちろん私のこともこの青年も」

春香はあの緊張した時に起きる子宮の収縮が起こった。手も震えだしまぶたがけいれんを起こしているのが分かった。話の続きを書かずにこのままここを去ればこの記憶がなくなるだと。そんあ馬鹿げたことあるだろうか。ならば試しに出てやろうじゃないかという気にはみじんもならなかった。だってこの空間は。私ようなつまらない人生を歩んできた人間に対して。だってこの空間は。青年はさっきよりも消えたしまった面積が広くなったような気がした。さっきは肘から下の部分だったが今度は肩から下の部分が消えてしまった。どうにかしなくては。

「マスター書かせてください」

「そうですか。ありがとう」

そう言ってマスターは春香にペンを渡した。

「春香さんあなたなら書いてくれると信じていました」

「そんな、けどそう信じていてくれてありがとう」

春香はペンを取って深呼吸して不安そうに春香を眺める青年に

「またね」

とニコっと微笑んだ。春香は今までにない緊張をしていた。どうにか間違えませんようにと一文字一文字を丁寧に書いた。この書くという緊張感は今でこそ違う人生を歩んでしまったものだが物書きにとって書くということはこう緊張しながらおびえながらこなしているものかもしれない。小説家になりたいと思って諦めていたが今この瞬間こそ夢が叶った感覚があった。読者はいない。けれど私は今書こうとしている。そして書いた。


私はどうにかあの店に行ってもう一度確かめたい衝動に駆られた。そして思い切り本を開いて読み進めていくとそれは私自身の物語だった。母親が自殺して可哀想な私の物語だった。しかし、過去をさらけ出したその物語は母は私を産んで心底幸せだったこと、母も父も心から私の誕生を喜んでくれたこと。そこにはまぎれもない幸せな時間が存在していたこと。母が死んで自分は捨てられたような思いが消えなかったがそれだけを責める必要はないってことを教えてくれた。本を閉じて今身に起こっていることが怖くて仕方なかったが、青年に心を奪われた私は後戻り出来ない。この本は私を救ってくれるのだろうか。青年とマスターはきっと私の記憶から消せそうにない。その自信がどこから湧き上がるのか分からない体の細胞一つ一つが叫ぶのだ。春香、春香、春香。あなたの選択は間違ってないよと、そう母が叫んだような気がした。そうして意を決した私は物語を繋ぐ決心をする。目の前に座る青年は私を不安そうに見る。私が物語を繋ぐのか繋がないに自分の存在が消えるのか生きるのかわからないのかもしれない。不安に違いないだろう。大丈夫だよ。あなた消えない。私とあなたはこれから一緒に生きていくのだ。この先ずっと。そして春香は本を閉じた。


「速水春香です」


そう青年にとびきりの笑顔で話しかけた。青年が恐る恐る春香の手に触れた。消えていた手はちゃんとあるではないか。

「滝駿です。やっと話せた」

そう言いながら青年は泣いているように見えた。聞きたいことは山ほどあるのだ。なぜ私にまたねと言ったのか。そもそもあなたは生身の人間なのか。 

「春香さん、僕を救ってくれてありがとう」

「どういうことですか」

「僕も春香さんと同じようにここに来てマスターに本を渡されたんだ」

「あなたもそうだったんですね」

「最初は驚いたよ。自分の人生が書いてあるなんて」

「私もです。怖くてすぐ帰っちゃいましたけど」

「うん知ってる」

「あなたは私のことを知っていたのですか」

「ううん。どんな人かはわからなかった」

「えっと、ちょっと理解が」

そこに突然、マスターが話を割って出た。

「まあまあ。お二方そんな緊張しなさんな」

マスターが初めて人間ぽく見えた。人間なのかしれないけれど。

「あのちょっと混乱してて、あなたはこのお店のマスターですか」

「そうとも言う」

なんとも間抜けな回答が返ってきた。

「さっき手がなくなってましたよね。滝さん?」

「うん、混乱するのは当たり前だよね。僕もまだ興奮が冷めないよ」

マスターが二人を見て微笑んだ。

「ちょっと、信じてもらえないかもしれないけど僕の話聞いてくれるかな春香さん」

「もちろんです。お聞かせください」

「僕もね春香さんと同じようにこの店に来てなんだと思った。いきなり僕にどうぞ、こちらの本をって渡されて読んでみれば僕の人生がそのままだった」

この男は戸惑いもなく本を開けたのか。

「一気に読んでしまった。そしてなんてつまらない人生だと思った」

「そんなことは」

「引かないで聞いてくれるかな。あのときの僕はもう自分の人生に嫌気がさして死ぬことばかり考えていたんだ。だから僕のつまらない本を読んで改めてダメな人間だと思ったよ」

なんだか話の雲行きが怪しくなってきた。

「それでね。僕は駆けにでたんだ。どうせならとことん誰かを好きになって死にたいって」まさか。そんなことある。

「ちょちょっと怖いです。私なんか今すごく」

春香が滝の話を遮ろうとした。しかし滝はおかまいなしに続けた。

「マスターからペンを渡された僕はこう欠いたん  だ」

死ぬことばかり考えては自分を殺すことができないチキン野郎だ。今思えば物心ついた頃から常に死に対する恐怖ばかり抱えて生きてきた。他の誰かが僕の人生を覗いたら何が不満なのかとあざ笑うかもしれない。それは予想できる。僕はただ死そのものが訪れるとが怖いのだ。病気なのかもしれない。精神的な。ただ死が怖いだけだ。ならその死が訪れるまで精一杯生きればいいだろうと言う声も聞こえてくる。そういうことではないのだ。死に際の自分の苦しむ顔、もっと生きたかったという欲望、そのことを想像すると怖くて仕方ないのだ。僕は死ぬ直前もっと生かせてくれと誰かの腕をつかんでその腕に傷をつけるだろうか。それともあっけなく自分が死んだことさえ気づかず逝くのだろうか。そうならば後者がいいなと思う。そこで僕は誰かを愛することをしてみようと思った。もし誰かを本気で好きになれたら僕はその人を思って死ぬ恐怖を生きる喜びに転換できるのかもしれないと思った。だから僕は誰かえお愛そう。

僕はある日、ここに来る人と出会う。きっと僕と同じくらいの年齢だろう。

そして僕はその子に一目惚れをするのだ。

その子の名前はわからない。けどきっと素敵な人だろう。

どうかどうか僕に教えてください。生きる意味を


滝が春香の手に自分の手を重ねた。

春香は今の話でやっとこれまでの起こったことの辻褄があった。そもそも自分は惚れやすくなんてないのだ。どうして滝をここまで気になって好きになっていたのかよく分かった。道理でだった。


「滝さん、それってつまり私のことを愛するということですか」

「うん。そういうことだと思います。きっとそうなってます。もう」

「ですよね。私から言うのもなんですが私を愛してみてどんな気持ちですか」

「とてもいい」

「えっ?もう死ぬことは怖くなくなりました?」

「うん」

そうきっぱりと言った。

「変ですよね。自分でもなんでこんな話が上手くいくかと思っています。ついこないだまで死ぬことばかり考えて男がですよ」

「そう思えてもらえたなら私も嬉しいですけど」


二人の会話が止まった。それを見たマスターがニコニコしながら来て

「そうお二人さん固くなんなさいって。自分たちに起こったことが嘘くさくて信じられないいんでしょ?へへっもっと人生甘く見ていいんだって」

そう言って世界中誰もが知るカップルも実は同じようにここで出会って結ばれたということを教えてくれた。みんな愛に飢えているのか。

「だからね、人生もっと欲をもって楽して生きていきなさいって。苦労することが人生じゃないよ。楽しく。楽しくだよー」

そう言ってマスターは滝の頬をつねった。

「いてっ」

「うん。ちゃんとあなた生きてるじゃやない、素敵よ。とても、だからあなたも」

今度は春香の頬を思い切りつねってきた。

「うふふ、あなた達って似たもの同士ね。これからもきっと大丈夫よあなた達。うん保証する」

「春香さんほっぺた真っ赤になってますよ大丈夫ですか」

「滝さんだって真っ赤ですよ」

お互い見つめ合い思い切り笑った。なにが可笑しいのか分からなかったが涙がでるほど大笑いをした。

「さてさて、そろそろ今日はお帰りなって」

帰りを客に促すなんて本当に変な店だ。

「じゃ行こうか」

「うん」

そう言って滝は春香の手を取った。二人で思い切り笑いあったように思い切りマスターに手を振った。

地上に出る。


「あー今日は楽しかったね」

「うん、ここのラザニア美味しかったな」

「ピザもなかなかだったよ」

「また来よっと」

「あっ危ない」

そう言いながら看板にぶつかりそうになった春香の手をぎゅっと握った。

「ありがとう」

そう言いながら春香は滝の手をぎゅっと握り返した。



世界中のあなたが幸せになれますように。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?