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3年前のハワイと26歳の私 -残念で大事な留学記-

生まれつき運がない。
おみくじはいつだって小吉だし、私の番に限って和式トイレだし、ジャンケンで何かを決める時は大体負けて、残り物を選ばされるはめになる。
(おまけに雨女なので、楽しみにしている予定は大方雨が降る)

だから私は、そもそも自分の運命に期待しない。
ビーチバレーのボールが顔面に直撃した時も、横のお客さんに飲み物を倒されてビチャビチャになった時も、楽しみにしていた旅行の日に仕事が入った特も、それくらいは慣れっこだと思ってフフンとしてきた。

そんな「ツイてない慣れ」している私には、ある思い出がある。
これまでの人生で、一番ツイてなかった時の思い出。

それは、2021年のことだ。


まだまだコロナ禍だったその年の夏、私は新卒から3年半務めた会社を辞めた。「せっかくなら人生で1回くらいハワイに住んでみてえなあ」とかいう不純な動機だった。

これだけ聞くと本当に不純だが、私は普通に不真面目なので、南国で昼からビールを飲む生活をしてみたかったのだ。一応ステイホーム中にコソコソと英会話を勉強していた甲斐あって、表向きの理由として「英語を勉強するための短期留学」ということで各所に報告したりもした。(ていうかハワイ って日本語通じるけれど)

「留学 ハワイ 社会人」
一番上に出てきた留学エージェントと速攻契約した。ご飯付きのホームステイコースは、3ヶ月で約100万。
当時26歳、彼氏なしで実家暮らしのその頃の私には、ええい!と貯金を削れるくらいの元気と余裕、そして若さがあった。

〜その0 出発前の大痛手〜

そんなこんなで得意げに会社を辞めて、実家で渡米の準備をしていたある日。腰に激痛がはしる。

思い出すだけで震えるのだが、それはそれはド級の痛みで、1ミリでも動いた瞬間に腰が砕けて爆発してしまいそうな激痛だった。はい、有事確定。
椎間板ヘルニアだった。

めでたく5日間の入院をキメた私は、泣く泣くハワイへの出発も遅らせることに。幸いにも手術はせずに済んだので、飛行機乗ってもいいよ〜という医者のOKをひたすら待つことに。
ようやく羽田空港に向かうことができたのは、約3ヶ月後、11月のことだった。

〜その1 大雨のハワイとご対面〜

向こうで年越しできるじゃん?やった〜と、私はすでに呑気な気持ちを整えていたけれど、まるで人のいない羽田空港に拍子抜けする。

若干の気味悪さすら覚えつつ、機内食への期待も忘れない。このコロナ禍でハワイ旅行に行く人間というのはどんな人種なんだろうと、周囲の観察も徹底した。(自分のことは棚にあげている)

そうして静かに夜の羽田を飛び立ったわけだけど、このあとこの飛行機、信じられないくらい揺れることになる。原因は鬼のような乱気流だった。

いよいよここでおしまいか⁉︎と何度も生唾を飲んだ記憶がある。多分、前の席に座っていたおねえさんも同じ事を思っていて、物凄い悲鳴を挙げていた。(私はその声に連動するように縮み上がっていた)

あまりにも機体が上下するもんだから、楽しみにしていた機内食なんて食べられるはずもなく、かろうじて選んだ映画「フリー・ガイ」の内容だって1ミリも覚えていない。

〜などあって8時間後、三半規管をめちゃくちゃにされた私は、ようやく悲願のハワイ 到着を遂げたのだった。

いよいよ留学生活スタート!と張り切るテンションでもなかったけれど、一応ソワソワはする。と、ここで早速入国審査に引っかかる。

列は3列あったのだ。どうやらこの引きが悪かったようで、厳しい顔をしたアメリカのガイは、容赦無く私を別室送りにした。(前に並んでいた人と再開もした)

ポツンと取り残された私のスーツケース

拘束部屋ではスマホもさわれず、1時間ほど時間を溶かして息も絶え絶えにようやく解放。初手でまあまあのダメージを負った私を迎えてくれたのは、大雨のハワイだった。

想像していた南国とはだいぶ雰囲気が違うけれど、そんなことはもはやどうでもいい。ホストファミリーの家へ向かうために予め日本で予約していたタクシーの姿がないことの方が問題だった。

タクシー会社に電話をするが、ネイティブの英語など聞き取れるわけもなく「ソーリー?」を繰り返してみる。そして電話口のおばちゃんにブチ切れられる。
数分後、なんとかタクシーが来たかと思えば、学校を通して事前に払っていたはずの代金が払われていないトラブルなども発生して、しっかり人を信じられなくなったところでホストファミリーの家に到着。

26歳、オロオロと泣きながら登場する。
ルームメイトたちは大学生なのに私よりも数百倍大人で、引いた様子すら見せることなく温かく迎え入れてくれた。
その後、この家ではご飯が出ない事実も判明し(契約と違う)、天使のようなルームメイトたちから自炊の焼うどんを分けてもらった。

夜まで雨が振り続けていたその日、私は恵みの焼きうどんを食べて眠りについたのだった。

〜ここで番外編 ハワイ島旅行で地獄のバトルロワイヤル〜

ハワイでの生活はなかなか楽しいもので、午前中に学校で授業を受けた後は友達とビーチやアラモアナショッピングセンターに行き、夕方にはワイキキビーチに集合してみんなでサンセットを見る。そんなスローライフは、間違いなく日本では経験できないものだった。

外国人の友人もできて、到着から1ヶ月くらいが過ぎた頃にはハワイ島へのプチ旅行なんかもした。(オアフ島から飛行機で40分くらい、簡単に行けるのだ)

知らない友達、ましてや海外の人と旅行だなんて、隠キャの私には予想もできないことだったけれど、「ここでしか出来ない経験しておきなよ!」と、自分の中にいるはずのない陽の血が騒ぐ。

ということでとりあえず行ってみたのだが、この旅、笑っちゃうくらい険悪ムードな4泊5日となるのだった(しかも長い…)。

メンバーは、
①英語ペラペラの厳格なドイツ人リーダー(19歳、気が強い)
②貫禄たっぷり姉御系スイス人(26歳、気が強い)
③美人だけど人に興味がなさそうなスイス人(22歳、気が強い)
④ワガママ女兼自称モデルのオランダ人(20歳、気が強い)
⑤英語も喧嘩も運転もできない日本人私(26歳、気が弱い)
といったところ。

この女たち、とにかく自我が強いために毎秒毎秒モメていて、例えば5人乗りの車で誰が真ん中に座るのか、パスタはソースを入れてから盛り付けるか、それとも盛り付ける前にソースを入れるのか、この道を進むのか進まないのか、戦う要素はいつだって揃っていた。

晩御飯ひとつにしたってあまりにも話がまとまらないので、ドミノピザを1人1枚買い、駐車場の端に横一列に並んで食べるというシュールな夜さえ味わえた。

二次会でカラオケに行く途中のようにスッと姿を消せたらどんなに良いだろうか…神様、ここを新橋のカラ館前にしてください。
そんな事を考えていた頃、ようやく4泊5日が終了。目の前ではみんながお金の清算をしていた。

最終的にこの旅の勝者はオランダのモデル。彼女は持ち合わせの現金が足りなかったようで「私が現金を口座からおろすための手数料はお前が負担してくれんのか⁉︎」と怒り散らしていた。ちなみに言われた相手は私である。

ハワイ島のキラウエア火山。
彼女はこれより燃えていた

〜その2 幻のクリスマスと年越しソロ活〜

そんなこんなで、留学生活も半分を過ぎようとしていた頃。
巷ではある感染病が蔓延していた。

お察しの通りコロナな訳だが、どうやらヨーロッパの生徒たちがマスクをせずに連日連夜パーティーをしていたところにクラスターが発生したのだとか。

これが本場のパーリーピーポー...なんて見守っていた私だけど、間も無くして熱を出す。時は2021年12月24日だった。なんとタイミングの悪い。

そう、普段なら学校で簡単に検査キットをもらえるのだが、海外のクリスマスは家族と過ごす祝日。学校どころか街の検査機関もお休みで、私は確かにコロナの症状を抱えたまま、とりあえず部屋に閉じこもることになる。

クリスマスの日に一生みた景色(天井)

いやあ〜これがしんどかった。ホストファミリーと食べるはずだったご飯はドアの外に置いてもらい、2日に分けてなんとか食べる。26日に検査が受けられるようになり正式に陽性が分かると、学校から自力で隔離ホテルを手配しろとの通達が。

周りにうつしてしまったかもしれない罪悪感と、不自由な英語で事を進めなければならないフラストレーション、隔離による孤独、そしてなにより、ハワイに来てまで何やってんだ!私!という情けなさが無限に頭の中をぐるぐるする。

が、そんな思いも露知らずに現実はブンブンと加速する。
26日の夜に陽性照明を手に入れた私に告げられたのは、1月2日までの隔離だった。

つまりはソロでの年越し決定。世界中の絶望を独り占めしたような気分だった。もちろん拒否権などなく、翌日、山の上にあるホストファミリーの家から徒歩でワイキキの街へ向かうことになる。

2時間後にたどり着いたワイキキは、年越しをハワイで過ごすリッチな観光客で溢れかえっていた。
孤独というのは不思議なもので、誰もいない場所に1人でいるよりも、幸せそうな人々の中に1人置かれた方が強く感じるものだ。

そんなことを思っているうちに、隔離宿へ到着。
観光客も泊まる普通のホテルなのだが、一部の部屋を隔離用として貸し出していたのだ。
立地もワイキキの中心地な上に居心地も良く、従業員もみんな感じがよい。自分がコロナだということ以外は最高で、スタッフさんたちの優しさは心に沁みた。

この時点で保険がきくか分からず、一旦自腹を切っているのでもちろんベッドは2つとも使った

体調が回復しているのにやることがない。
毎日ウーバーで何を頼むかだけを楽しみに過ごすこと数日。
いよいよ2021年を終えようとする私の前には、少しだけ奮発して頼んだステーキとエビフライだけがいた。

これだけで20ドル以上。高い。

ようやく時計が23:59から0:00に変わる。
本当は見に行くはずだったワイキキビーチからあがる花火は、音だけで私に新年を告げる。花火って音だけ聞こえても全然嬉しくないんだ。当たり前だけど大きな気づきだった。

「仕方ない、ハワイで年越してやるか」
入院で出発が遅れると決まった時、このくらいに鷹をくくっていた自分を思い出す。
「ハワイで年越しはできますが独りですよ」
出来ることならあの時の私に早く教えてあげたかった。

そんな感じでなんとも虚しい時間を過ごした後、とりあえずベッドに入る。一晩中鳴り響く爆発音とパリピたちの叫び声に包まれながら、私の2022年はひっそりと幕を開けたのだった。

〜その3 家が消えた夜〜

2022年1月2日。待ちに待った出所の日。一目散に娑婆へ出て、ようやくコロナ患者としてのアイデンティティにさよならをする。

ようやく私にも2022年が訪れました、の1枚

遊びまくって取り戻してやるー!!ガルル
思わぬハプニングのおかげで留学生活も残り1ヶ月になってしまったので、焦った私はちゃんと肩を回していた。
すると速報が入る。ホストファミリーの家の洗濯代が値上がりするそうだ。

おっと。これは仕方ない。
最初の契約とはだいぶ話が違うけれど、家を変えよう。

とにかく時間のなかった私は急いで学校に相談し、ワイキキから近いお家に受け入れてもらうことに。

そして、この新しい家が第2ステージとなる。

まず、その家には少し変わったルールがあった。ホストマザーの中国人のおばちゃんがとにかくコロナを気にしていたので、家中に監視カメラがついていているのだ。

共用スペースはマスク必須で、ルームメイトとのお喋りなんて絶対NG。

そのくせ家がでかいので、10人くらいの住人がいる。
矛盾してない?とも思ったけれど、コロナ上がりの身にとってはそこまで不自由もなく「家は寝に帰る場所」程度に思えたおかげで、やがて穏便な毎日が戻ってきた。

そして事件は起こる。

「コロナまじ辛かったんだよね、アンタもタイミングには気をつけなよ」なんて笑いながら酒を飲んでいたその夜、私のもとに一本の電話が入る。
昨日新入りしたばかりのルームメイトの子からだった。

「ホストマザーから家に帰ってくるなと言われました…どうしよう…」

泣いている。何事!
と思ったのも束の間、私のもとにもLINEがくる。

どうやら同じルームメイトの友人がコロナになり、お前らも友達だから菌持ってるだろ?陰性証明できるまで帰ってくるなよ、ということのようだ。

私の小さい脳みそはこの時点でキャパオーバーだったので、正直ここからのことはちゃんと覚えていない。

とにかく酒の場をあとにしでワイキキの街をダッシュし、もう1人同じ状況のルームメイトも含めた3人で合流する。この時点で20時すぎだったと思う。

その後いろいろ考えたが、鬼畜なホストマザーはパスポートさえ取りに帰らせてくれず、偶然パスポートを持っていた子がホテルをおさえてくれることに。

この急展開を誰も腑に落とせないまま、唯一用意できた、たった1つの部屋へ向かう。

それからは閉店間際のABCストアに駆け込んでお茶を買い、親と学校に電話をし、陰性証明をもらうために朝イチで検査ができる場所を調べ…など色々手を動かした気がするが、とにかく私たちはずっとお通夜のようなテンションだった。

「これ以上ハワイいても意味なくない?」
「陰性照明がそんなにすぐ貰える場所ないんだけど…」とか。
住む場所が保証されないって、こんな気分なんだと知った。

「3人集えば文殊の知恵」なんて言うが、明日の生活が脅かされた場面で出せる知恵など1つもない。ことわざは呑気だよ、全く。

こうしてまたハワイの新しい一面を見てしまった私は眠りにつけるはずもなく、生暖かい風が吹くベランダで、ひたすら朝が来るのを待っていた。

〜その4 戦慄の再会〜

翌日、学校と戦う。

私「あんたたちの責任だ」
学校「ウチらの責任じゃない」
私「払ったホテル代返せ」
学校「日本の担当に言え」

こんな感じ。アメリカというのは手強いもので、こちらが思っている100倍は自己主張しないと相手に意思が伝わらない。

弱小な私でも流石に怒り心頭だったので、汚い顔面で泣きながら喚いたりもした。その結果、とりあえず3週間後の帰国まで泊まれるホテルが用意されることに。

どうやらホストファミリーに問題のある生徒というのはたくさんいて、駆け込み寺のようなホテルがあるらしい。

いろいろ納得できずにここでも泣いているため疲弊疲弊の大疲弊という感じだったが、苦労を共にした2人もしばらくの間は同じホテルに移れることになり、急いで魔の家から荷物を持ち出した。

夜逃げの昼版って何だろう。
昼間だったけれど、あれは確実に夜逃げだった。

ということで、身も心もクタクタになった私は「今度こそ安寧の地となりますように」と力強く祈りを込めて運命の部屋を訪れる。

部屋は3人部屋でまあまあ広く、散らかってはいるがそんなに悪くない。ようやくホッとすることができた。

ルームメイトは外出中のようだったけれど、この際どんな相手と相部屋になろうと関係なくて、ただ住む場所があることがありがたい。そんなサッパリとした気持ちでシャワーから出ると、ルームメイトが帰ってきたようだった。

「え!アンタじゃ〜ん!靴見てまさかとは思ったんだよね☆」

・・・。
「嫌だ」とか「残念だ」とかいう感情の前に、「また引いちゃったか…」という自分の運命への諦めが先にくる。

そう、目の前には自称モデルの彼女がいた。ハワイ島で散々ワガママを言ってみんなを振り回したアイツ。私にまだ現金を返してないアイツ。

私って運悪いな〜と、この時ほど思ったことはない。
よりによって最後がここかよ、と体ごと萎んでしまいそうな気分だった。

はは、ははは…と、日本でもあまり出ないくらいの特大愛想笑いをして、とりあえずお金を返してもらう。(もちろん謝罪などない)

どんなに嫌でも住む場所はないので、他の手段を検討する余地などなかった。とりあえず部屋で過ごす間だけ我慢すればいいんだし、と最後の力を振り絞って残りのハワイ生活を楽しむことにした。思えばこんな事ばかりが得意になっていた。

…が、この共同生活で予想外に体力を消耗されるのだった。

その1。モデルが寝ている間は部屋の電気をつけてはいけない。
ヤツはすぐに目が覚めるくせに寝るのが早いので、夜に帰って来ると散々嫌味を言われる。ドライヤーもうるせえからするなと言われる始末。

その2。モデルがトイレを詰まらせても、文句を言ってはいけない。
モデルのくせに頻尿なのもどうかと思うが、めちゃくちゃトイレに行く。トイレットペーパーは自分たちで補充するので、当たり前のように私の持分まで使い果たされる。しかも、足りなくなるとティッシュを流すのだ。倫理観がめちゃくちゃ。そのせいでスタッフを呼ぶはめになった。

その3。髪の毛を1本たりとも落としてはいけない。
絶対ヤツの方が汚く使ってるのに、私の毛が黒いことをいいことに洗面台の毛を拾えと毎日言われる。「私は十分やった」という英語だけ覚えた。

その4。インスタ用の写真を撮らなければいけない。
一緒に出かけようもんなら3歩に1回は写真を撮れとせがまれる。しかも、機種の新しい私のスマホで。その後すぐに送ってほしいと追いかけ回されることをエアドロ地獄と名付けた。新しい時代の恐怖はここにあった。

3年経った今でもつらつらと書けるほどにはなかなかストレスフルで、とにかく部屋に帰るのが憂鬱だったのを覚えている。ただ、こんな事はきっと留学あるあるなのだろう。
それに私は、自分の不運をネタに変えられる。この時点で充分身につけたライフハックだった。

そんなこんなで留学生活も残り3週間。外で過ごす時間だけは楽しかったので、いろいろと出かけることに決めた。

友人とロコモコを食べに行ったり、韓国料理食べに行ったり、日本人のお姉さんに誘われたカピオラニ公園でのズンバ会に参加したり。ダイアモンドヘッドで朝陽も見たし、スパイダーマンの最新作を見て、海外の友達と死ぬほど盛り上がったりもした。

しかし、旅の終わりは突然訪れる。

その日もいつも通りに22時頃部屋に帰宅して、寝ているモデルを起こさないようにそっと暗い部屋に忍び込んだ。

すると日本の母親からLINEが来ていて、「メイちゃんが倒れちゃった」と。
メイちゃんというのは実家で保護したばかりの子猫。私が出発する直前の10月に我が家に来たばかりだった。

その夜を最後に私はモデルを見ていない。
こっそり部屋を出て、1-2日で友人たちと最後の思い出を作った後、予定より1週間ほど早くハワイをあとにした。彼女の小言からも解放されたけれど、同時にハワイ留学も終えることになったのだった。

本当はこの話をオチみたいにしたくないし、ここまで書くか迷ったけれど、これも私の大事な一部なので残しておこうと思う。とっくに枯れたと思っていた涙は永遠に出たし、そんな時にだってお腹は空く。不思議だった。

帰りの飛行機から見たオアフの島は小さくて、毎日あんなに歩いたはずのワイキキビーチから続く海の後ろには、何倍も何倍も大きな青が広がっていた。

〜ということで〜

今これを書いている私は29歳。あの時から3年が経っているけれど、私の毎日はそこそこだ。相変わらず独身だし。この間もランチに買ったコンビニ弁当を床にぶちまけたし。

何か人と違う経験をしたからって人生が劇的に変わるわけではない。すごいパワーを持てるわけでもないのだということを、今になって痛感する。

世界のいろんなものは有限だから「自分の決断に間違いはなかった!!」なんて無責任なことも言えない。この旅に行って良かったかと聞かれたら、未だ結論を出せずにいるのだと思う。

けれど、やっぱり頭のどこかにハワイの記憶がある。
あの時の恐怖も、怒りも、やるせなさも、わりとしっかり覚えている。
ルームメイトの優しさも、ハワイ島で見たすっごい景色も、年越し花火の爆発音も、ホテルのベランダで感じた風の温かさも、そして泣きながら食べたポケ丼の味も、私の感覚にちゃんと刻まれている気がするのだ。

そう思うと、もう少しだけめげずに暮らしてやろうと思う。
ご飯を作って、もりもり食べてやろうと思う。

今の私をいちばん応援しているのは、あの頃の私かもしれない。
振り返っていて、そんなことを思った。


おわり
(なっがーい文を読んでいただき、ありがとうございました!)

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