「終わりのむこうへ : 廃墟の美術史」@松濤美術館

18世紀から19世紀にかけて流行した廃墟趣味から近現代の日本における廃墟画までを辿る展覧会。

儚さや虚無性を喚起する廃墟画であるが、壮麗かつ重厚すなわち偉大さと見たのがピラネージだった。その作風はロマン派的な感性に訴えかけるものがあり、こうした感性は日本における無常観と親和性が高いように思うが、日本では近代まで廃墟画を積極的な鑑賞の対象とは見做してこなかったという。江戸時代、フォンタネージによって持ち込まれたのを皮切りに教育が広まっていった。輸入版画を基にした作品群は精緻である。

これまで現実に理想を落とし込んだ廃墟画を観てきたが、Ⅳ章「シュルレアリスムのなかの廃墟」からは趣が変わり、観念の世界に築き上げた廃墟の世界に踏み込んでいく。
マグリット『青春の泉』は石化したモティーフが死を暗示しており、過去の栄光の残滓のような哀愁を感じる。デルヴォーの作品は特に廃墟的なモティーフを主体としている訳ではないので、本展覧会では少々異質に思われるが、現実の時間や空間と断絶した世界に配置したモティーフたちが神秘的に調和する効果は次章の布石として重要である。

Ⅴ章は、1930年代に伝播したシュルレアリスムの影響を受けた日本の画家たちの作品。虚無感の発露、幻視者たちの理想郷が並び、今回最も面白い章だった。
浜田浜雄『ユパス』のディストピア感が素晴らしい。人類絶滅前夜といった荒涼とした景色の中、巨大な女性像(首から下は埋まっているのか、初めから頭部しかないのか)の目線の方向へ子供たちが歩んでいく。その先に何があるのか。1940年に描かれた榑松正利『夢』は草の生い茂る聖域で、映画『ストーカー』のゾーンのような美しく恐ろしい予感がある。北脇昇『章表』は荒々しく無残な切断面と真っ赤なリボンが鮮烈な対照をなしている。リボンに止まる揚羽蝶は愛らしいが、これもまた虫ピンで串刺しにされている。

最終章は「遠い未来を夢見て:いつかの日を描き出す現代画家たち」。荒廃した国会議事堂など些か訓示的ではあるが、開発に次ぐ開発を繰り返す渋谷にて当地を描いた作品を観ることには味わいがある。野又穣の作品は過去・現在・未来における建築物の動態が同時に存在しているかのようで、現実を超えた場所に佇む孤高の美を感じる。人によって建造されたものである筈なのに、狡知、清廉、その他、人にまつわる手垢のような意味付けが風化し、建物が自立性を獲得している。虚無感などは全て人の主観であり、そうした未来完了形の感傷を一切受け付けないところがとても良い。

知識が曖昧になってきているので、廃墟に関する本を再読しようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?