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ブラジャーのホックを外す歌より、

渋谷駅前に堂々と飾られた「真赤」の歌詞。大好きなロックバンド「My Hair is Bad」の歌詞がこんなに人目につく所に飾られてしまうのは少し寂しい気持ちにもなるけれど、実際に見てみると涙が出そうになるくらい、嬉しさと共に感傷的な気持ちが込み上げてきた。

もう二年半前のこと。私たちは別れてからも友達だった。ただの友達では無く、お互いが辛い思いをする友達だ。寂しさが故に自らその道を選んだのだから仕方が無かった。彼にはずっと好きな人がいた。私にも忘れられない人がいた。そこから逃げるかの様に私たちは付き合ったのだから、お互い真正面に向き合えるはずが無かった。私には「依存」だけが残って、彼には「情」だけが残った。そんな二人がただの友達に戻れるはずも無かった。

最後にきちんと会ったのは2019年のクリスマスだった。もちろん恋人同士では無く、友達として。恵比寿ガーデンプレイスに行ってから、渋谷で夜ご飯を食べた。帰りに渋谷駅まで向かう道のりで彼は私の手を握った。私も握り返した。周りから見れば私たちは紛れも無く恋人同士であり、幸せそうなカップルだった。でも私たちの事を知っているのは私たちだけだ。繋いだ手の感触も温もりも全てがフェイクだ。それが悲しかった。目が合うだけでも胸が痛んだ。その瞬間、ふいにあの歌が私の頭をよぎった。この曲なら彼も知っているよなぁ、と「三番線に悲しい音が流れた 曖昧な誓い、会いたいが痛い バイバイが聞こえなくなるように」と口ずさんだ。そして二人で「春、恋に落ちて 耳を澄まして 君を探して 僕は誰かを ついに失って それでもいいって 君を待とうって決めてた 夏の匂いがした 」と歌った。周りからの視線が少し恥ずかしかったけれど、あの日渋谷駅前で手を繋ぎながら歌った二人の「真赤」は、どこか切なくて愛おしかった。その後は私の家に帰ってお互い限界が来るまで抱き合った。フェイクでも、悲しみの中でも、私はきっと幸せだった。いつの間にか時間が止まればいい、何度願った事だろうか。それでも朝が来て、「またね」を言って彼は先に家を出て行った。それが友達としての最後の日となった。

あの日の「またね」を信じた私は二ヶ月後に彼に次はいつ会えるかの連絡した。二日後の夜に「ごめん無理かも〜」とだけ返信が返って来た。いつかは終わってしまうと分かってはいたけれど、本当の終わりが来てしまった。もう彼の為にも、おそらく出来たであろう彼の新しい恋人の為にも、既読も付けられずにいた。もちろん私自身の為にも。でも苦しかった。寂しかった。もう一度だけ君に甘えたかった。

次の日、友達に誘われて渋谷CLUBQUATTROへライブを見に行った。友達に励ましてもらっても、数々のバンドのライブを見ても心が晴れる事は無かった。寂しさが薄れる事はなかった。

真っ黒の心と真っ白な頭のまま、ライブハウスを出た。少し歩いた所で私は立ち止まった。目の前から彼が歩いてきた。昨日の今日なのに。神様のいたずらにしても、あまりにも酷すぎるのではないか。と思う反面、少し嬉しくなってしまう私もいた。彼も私に気付くと、かなり気まずそうな表情を浮かべていた。「彼女出来たの?」の私の一言に彼は小さく頷いた。「良かったね!おめでとう!お幸せに!」精一杯の作り笑いと共に言葉を放った。そんな事思ってもいない事くらい、彼にも察せたはずだ。
それが私たちの本当の最後になった。
最後に手を繋いだ渋谷。最後に一緒に渋谷駅前で歌った「真赤」。そして最後の最後、私たちが二人から「卒業」した渋谷センター街。

それから約二年後、相変わらず今日もうるさい渋谷駅前には「真赤」の冒頭の歌詞が飾られている。この場所で起きた出来事、彼との幸せだった思い出、心にナイフを刺された時の事。感情や痛みはもう忘れてしまったけれど、その事実は今でもこの場所と私の中の記憶に残っている。「傷は治ったはずなのに、傷付いた日の事、なぜか覚えている」そんな言葉を思い出した。この場所にこの歌を飾っている事に、偶然だとしても私は大きな意味を感じた。それが私は嬉しかったし、どこか感傷的にもなった。
「真赤」しか知らなかった君へ、ブラジャーのホックを外す歌より、いい曲があるって知ってた?

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