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私に書かせなさい(オコナイサマ)


私の知り合いの不動産屋さんの社長であるSさんに聞いた話です。

Sさんは今の会社を設立する以前、同じような不動産屋さんに勤務していました。その頃のお客さんで、忘れられないお客さんがいるそうです。

そのお客さんがお店にやってきたのはバブルが崩壊して少し経ったころの年明けでした。
当時30代中頃の夫婦で、4歳くらいの男の子が1人、そして奥さんのお腹の中にはこの夏に生まれる予定の赤ちゃんがいました。

夫婦が探していたのは中古のマンションで、子供が2人になるから広めのマンションに引っ越したい、とのことでした。

しかしSさんが夫婦に細かく話を聞くと、今2人が住んでいる賃貸マンションも、その地域にしてはかなり広めのマンションで、家賃も相場からすれば3~4万円ほど安いものだと分かりました。

「正直申し上げて、広さや金銭的なことだけをみると、今のお住まいはかなりいい物件ですね」と、率直にSさんは伝えました。
不動産会社から好条件の物件情報を引き出すために、今住んでいる家の情報を実際よりも好物件であるように嘘を伝えてくるお客さんはたまにいるのです。

しかしSさんの予想には反して、旦那さんがあっさりと答えます。
「大家さんが同郷のよしみということもあって家賃は安いんですがね、虫がすごいんですよ」

家のそばを暗渠(「あんきょ」地下を流れる川)が通っていて、その湿気のせいか、虫が大繁殖してしまっているとのこと。

窓を開けていなくても家の中に黒い小さな虫がたくさん入り込んでしまうとのことでした。

なるほど、そういうことであればオーナーが家賃を下げているのかもしれないな、とSさんは納得したように夫婦に答えましたが、それを踏まえても安すぎる家賃に疑問が残りました。

あまり築年数にこだわりはないという夫婦の希望もあって、古いが駅から近くて広めのマンションが見つかり、その日のうちに内見することになりました。

Sさんの運転で物件へ向かう最中でした。

「パパ!虫ついてるよ!」

旦那さんの左側の首筋に一本の細い線が走っていました。よくみるとそれは米粒ほどの小さな黒い点々です。

Sさんが驚いたのは虫ではなく、その夫婦です。

旦那さんは特に慌てたような様子もなく、「あぁ、またか」といった程度で車の窓を少し開け、虫をつまんで窓の外へ。

「ほんと早く引っ越したいわね」とつぶやいた奥さんは、チラリと旦那さんのほうを見ると、さっきから読んでいるお店で渡した物件の資料へ目を戻してしまいます。

「ここまで虫に慣れてしまうほど虫が繁殖するマンションって・・・」。
Sさんは想像してみましたが、今月の営業ノルマに頭を抱えていたこともあって「そのおかげで売れるんだから虫にバンザイだな」と、深くは考えませんでした。

程なくして到着した4階建てのマンションは、その当時で築20数年のマンションではありましたが、造りがいいのか、Sさん自身も古い印象は受けませんでした。向かいには横に長くうねった形の公園もあり、周囲にはこのマンション以外に高い建物がなく、見晴らしもよさそうです。

賃貸物件や新築の物件とは違い、中古物件の場合は今のオーナー(売主)が居住中の場合が大半です。この物件もオーナーが住んでいて、事前に電話でオーナーには訪問の許可を得ていました。

Sさん自身はオーナーとは初対面ですが、物件の売却にはSさんの同僚が担当していましたので、相談で来店したこのオーナーを見かけたことがありました。白髪で眼鏡をかけた、ニコニコと朗らかな優しい印象の50代後半くらいの女性です。

玄関のインターフォンを鳴らすとオーナーが出迎えてくれました。ドアを開けたときに、ふんわりと、部屋の中の暖房のきいた暖かい空気と一緒に、かすかにお香のような香りがしてきました。

まずSさん自身がオーナーとあいさつをし、Sさんがオーナーに夫婦を紹介します。何となくですが、夫婦の顔を見たオーナーの顔が一瞬、曇ったように見えました。

部屋に通してもらい、奥さんの気にしていた風呂場やキッチンなどの水回りを説明し、一通り部屋の説明をし終わりました。夫婦にはある程度
自由に部屋を見てもらい、Sさんも部屋を見学することにしました。仮にこの夫婦が買わなかったとしても、他のお客さんをこの部屋に案内することがあるかもしれないからです。

ベランダから見ると、来るときにマンションの向かいにあった公園の形が、2階のこの部屋からもよくわかります。道路に対しては水平ですが、公園の奥に並ぶ民家の敷地に対しては「S」の字を書くように緩やかに蛇行しています。

そんな風景を眺めているとSさんにオーナーが小声で話しかけます。

「ご夫婦はどちらのご出身なの?」

Sさん自身、そこまで聞いていませんでしたので「それは伺っていないですが、少なくともこの辺にお住まいのようですよ」とだけ返しました。

実際、Sさんがしっかりした回答をできなかったわけではありますが、オーナーはSさんに対しては「そうですか」と、どこか納得がいかないような表情で返しました。

ただ、夫婦の言葉は別にどこかの地域の訛りのようなものはありませんでしたし、なぜオーナーがそれを気にしたのか、このときSさんには分かりませんでした。

オーナーとSさんを余所に、夫婦は物件が割と気に入ったような様子でした。男の子も活発な年ごろのはずなのにしっかり夫婦の言いつけを守り、大人しく親の内見に付き合っています。

内見が終わり部屋を後にしたところで旦那さんが、「そういえばゴミはどこに出すんですか?」と唐突に質問をしてきました。

「ゴミ出しは私の仕事ですから」と自嘲気味に話す旦那さんに、Sさん自身も「うちもそうなんですよ、私は独身ですが」などと冗談交じりに話を合わせながらゴミ置き場に向かいます。

ゴミ置き場はマンション敷地内にある通りに面した小屋のようなコンクリート造りの建物で、鍵はかかっていませんが、小さい子供が開けるのには重そうな、しっかりとした扉がついています。

中の様子も見せた方が良いだろうと思い扉を開けようとしますが、なかなか開きません。「あれ?カギはついてないはずなんですがね」と言いながらもう一度力を込めますが、やはり開きません。

カギ付きだったかもしれないと思い、オーナーに聞いて来ようとしたところで、見かねた旦那さんが扉を引きます。

「あれ?開きましたよ!」

ゆっくりと開いたドアの隙間から、黒い大きな水溜りのようなものが、よく見れば小さな黒い虫が何百匹も、うじゃうじゃと出てきました。

後になって振り返れば、このとき「うわぁ!」と思わず声を出してしまったのはSさんだけでした。

夫婦は至って冷静で、「やっぱりこの虫はここにもいるんだね」と淡々と話をしています。ゴミ置き場の中を覗きながら「結構掃除されてるね、ゴミ出しのルール守ってるんだね」などと、特に虫を気にしている様子はありませんでした。

ゴミ置き場を見終わって車に乗り込み、お店に戻る道中。Sさんは内心、ゴミ置き場のあんな虫をみてしまったら、絶対に嫌だろう、なんて物件なんだと思いつつも、一応「お部屋はいかがでしたか?」と聞いてみました。

すると意外にも夫婦はゴミ置き場のことは気にしていないようで、「リフォームをする前提だから内装は気にしていない」とか、「外観が思ったよりもきれいで立地も良い」などと、好印象のままでした。

営業ノルマのことは頭にあっても、やはりあのゴミ置き場の件は聞かずにはいられません。

「あの。。。ゴミ置き場の虫ですが。。。」

もしゴミ置き場のせいで話がこじれそうになったら、Sさんが自分で殺虫剤でも買ってスプレーを撒いておこう、それで対処しようと考えていましたが、旦那さんも奥さんも、やはり虫のことは気にしていませんでした。

「あれくらいゴミを置いてたら湧いちゃいますよね、新築でも中古でも仕方がないんじゃないかなぁ」

Sさんの上司は毎日のように「決めるのはお前じゃない、お客様だ」と話をしていましたが、Sさんもこの時ばかりはその通りだと妙に納得してしまい、それ以上その件について触れることはしませんでした。

さすがにその日のうちに契約までには至らず、いったん検討してもらい、来週にでもまた来店してもらうことになりました。

Sさんは次の日の朝に来店することになっている別のお客さんに渡す資料ができていないことを思い出し、残業することにしました。思い出してよかったと思えるくらい、資料は正直言って面倒くさい資料で、完成にめどが立ったときには20時を過ぎていました。

まだ事務所にはSさんと同じように仕事をしている社員が何人か残っています。バブル期をこの会社で過ごしたSさんにとってはまだまだこれから、という時間帯で、同じようにまだまだ仕事をしたい社員はほかにもいるようです。

なんとなくバブルのころの懐かしい感覚に浸っていると、今日内見したマンションのオーナーを担当しているSさんの同僚に話しかけられました。「Sさん、電話いいですか?」

電話に出るとオーナーでした。

「今日は内見ありがとうございました、ご夫婦も気に入られている様子でした」

ゴミ置き場の件は、正直言って問いただしたいくらいのところではありましたが、夫婦自身が気にしていないならとりあえずは自分自身も触れる必要がないような気がしていました。

「申し訳ないんだけど、今日のご夫婦には売れてしまったと伝えていただけないかしら?」

オーナーからの意外な申し出に、訳が分かりませんでした。

「え、即決には至っていませんが、ご夫婦も気に入られていた様子でしたのでそれは・・・なぜでしょうか?ほかの不動産業者で売却が決まってしまったのですか?」

「そうではないの。Sさんのところには引き続き売却の仲介をお願いしたいの。だけど、あのご夫婦だけは。。。」

「もちろんまだ購入を決めたわけではありませんが、見込みは十分ございますので、せめて理由をお聞かせいただけないでしょうか?」

不動産屋さんからすると、こういった物件の売却に関するお話で大事にしたいのは、買い手ではなく売り手です。ですから売主であるオーナーは神様。オーナーが言っていることに対してここまで食い下がるのはあまり無いことではありますが、それを言ったら「あの人だけには売りたくない」というのも滅多にないことです。Sさん自身、今月のノルマのことを考えるとなんとしても売買を成立させたい思いです。

食い下がったSさんに、オーナーはなかなか答えてくれません。沈黙のあとで、オーナーがやっと答えました。

「あの旦那さん、夫に似ているの。亡くなった私の夫に。」

予想外のオーナーの回答に返事が詰まってしまったSさんでしたが、Sさんが予想していた以上に問題が根深そうだということや、いま電話をしている時間帯のこと、そもそもあの夫婦が買うかどうかはまだ決まっていないことなどを踏まえて、それ以上深くは聞かずにいったん引くことにしました。

電話を切った後、このオーナーを担当している同僚と話をしましたが、同僚も亡くなったオーナーの旦那さんと会ったことがあるわけでも、写真を見たことがあるわけでもないことが分かりました。

同僚と話し合った結果、契約で両者が顔を合わせないようにすれば話が丸く収まるのではないか、いったん会社でその物件を買い取り、その物件を夫婦に売れば問題ないのではないのではないか、などの案が出たこともあり、とりあえず明日、オーナーには同僚からうまいこと話を丸めて伝えておいてもらい、夫婦には何も伝えないでおくことにしました。

Sさんも同僚も、営業ノルマとしてどうしてもその物件が欲しかったのです。

2,3日経ってから、旦那さんから連絡がありました。例の物件に決めたので契約の段取りを教えてほしい、とのことでした。Sさんにとってうれしい話ではありましたが、1軒の内見だけで契約に至るというのはなかなか無いことで、かえって少し不安な気持ちになりました。

オーナーさんを担当している同僚に相談し、まずは適当なお客さんをその物件に内見させて、オーナーさんにはそのお客さんが買いたいとして契約させることにしました。

内見した人と買う人で名前が違うことになりますが、そこは内見時の紹介の仕方でどうとでもなるし、契約の時も、長期の出張で同席できないと説明してしまえば顔を合わせることはないから大丈夫だろうと思ったのです。

作戦はうまくいき、夫婦の住宅ローンの審査も無事に通過して、いよいよ契約の日になりました。

夫婦には、オーナーが急病で来れなくなったと伝え、その数日後、オーナーには旦那さんが長期の出張になって来られないと伝えることで無事に契約することができました。実際、オーナーは体調が思わしくなくて、遠方に住む娘さんの家に引っ越してしまっていました。

Sさんも同僚も無事にノルマを達成させることができ、やがて入居前のリフォームも終了しました。夫婦が引っ越してくる日がお店のお休みの日だったこともあり、その日、お礼も兼ねてSさんは同僚と引っ越しの手伝いに向かいました。

夫婦のマンションへ向かう途中、Sさんはホームセンターに寄って殺虫剤を買いました。内見から契約までかなり順調に進んだので、せめてものお礼ということで、自腹でゴミ置き場に散布することにしたのです。

マンションに到着して夫婦の部屋を訪ねると、まさに引っ越しの真っただ中でした。夫婦は新居に移るのがとてもうれしいのか、満面の笑みでSさんと同僚を迎えてくれました。

早速荷物をトラックから運び込む手伝いを始めることにしました。
荷台に積んである引っ越しの荷物はさほど多くはありませんでしたが、2つだけ、変わった荷物がありました。カラーボックスを横にしたくらいの大きさのある、古そうな木箱が2つ。

持ち上げようにもとても重く、Sさんは同僚となんとか持ち上げて、引っ越し業者に借りた台車を使いながら、やっとのことで部屋に持ち込みました。

「旦那さん!この木箱はどちらへ置いたらよろしいでしょうか?」
「うわぁSさん!それ重かったでしょう?とりあえず室内だと邪魔になっちゃうのでベランダへ置いておいてもらえますか?後で置き場所を考えますから」

Sさんは慎重に木箱をベランダへ置き、またトラックへ向かってもう1つある木箱を同じように部屋まで持ってきました。この木箱は先ほどのものよりもさらに重く、持ち上げ方によって肩が脱臼するのではないかと思ったほどでした。

「旦那さん!この木箱もさっきと同じでベランダでいいですか?」

「あれ?さっき運んでいただきませんでしたっけ?」

「そうですよ!こっちのほうがめちゃくちゃ重くて!」

「おかしいですね、木箱は1つのはずなんですが・・・」

とにかく今にも木箱を下さなければ落っことしてしまいそうなくらいに腕がつらかったので、旦那さんの許可をもらってとりあえずベランダへ置きました。

「しっかし重たい木箱でしたね!中身は何なんですか?」

重すぎてしびれてしまった手を労わりながら旦那さんに尋ねると、それは旦那さんの家で代々伝わる岩とのことでした。

旦那さんの家は近畿地方のとある県の旧家で、その地域の集落では昔から、「オコナイ」と呼ばれる行事を行うそうです。
旦那さんの家はその「オコナイ」を行うために神様をかたどった「オコナイサマ」と呼ばれる岩を受け継いでおり、両親も親戚も亡くしてしまった旦那さんがこの岩を受け継いでいるとのことでした。

「そんな大切なもの勝手に運んでしまって大丈夫でしたか?」まずいことをしてしまったのではないかと旦那さんの顔色を窺うように同僚が尋ねましたが、

「大丈夫ですよ!私が実家から持ってくるときも宅配にしましたから!」

と、旦那さんは笑いながら答えてくれました。

かなり重いものを運んだSさんと同僚は少し車の中で休憩することにしました。10分ほど休んだでしょうか、体力が回復してきたSさんが車を出ようとすると、道中で買った殺虫剤を見つけました。

ゴミ置き場は部屋へ戻る途中にありますので、殺虫剤を手にゴミ置き場へ向かいました。

ゴミ置き場へ来たところで、このドアが開きにくいことを思い出したSさんでしたが、ドアが少し開いていることに気付きました。

「これなら簡単に開きそうだな」と思ったSさんがドアに手をかけて引いてみると、やはりドアは簡単に開きました。

中には虫がたくさんいるはずですので、すぐに中に入るのではなく、入り口からスプレーを噴射し、ある程度殺虫剤が充満してから中に入ることにしました。

殺虫剤は何本か買ってきていましたので、少しもったいない気はしましたが、1本まるまるを入り口から噴射し、息を止めて中に入って2本目を噴射しようとすると、中は薄暗いものの、キレイで虫がいるようには見えませんでした。

せっかく封を切ってしまったので、虫がいる様子はありませんでしたが2本目もまるまる噴射しました。もしかしたら管理人さんかほかの住人が内見の後に殺虫剤を使ったのかもしれないな。Sさんは空になった殺虫剤を車に戻すと、また手伝いをしに夫婦の部屋へ戻りました。

部屋へ戻ると男の子がSさんに近寄ってきて、「Sさん変なにおいがする~」と言ってきましたが、これはかえってチャンスとみたSさんは、「お兄さんいまね、ゴミ置き場に殺虫剤撒いてきたんだよ!その臭いかもね!」と夫婦に聞こえるように大きめの声で返してやりました。

しかしSさんの期待とは裏腹に、夫婦は「あぁあの虫、わざわざありがとうございます」と、やはりあまり関心がないような風に返してくれたのみでした。少し残念な気持ちもありましたが、実際大したことをしたわけではありませんので、すぐに気を取り直して手伝いに取り掛かりました。

引っ越し作業がひと段落して日も暮れたころ、そろそろ帰ろうと同僚のところへ向かうと、同僚の首筋に黒い点々が見えます。よく見ると、例の小さい虫が這っているのでした。

「おまえ!首に虫ついてるぞ!」Sさんはすかさず同僚に伝えましたが、同僚はさほど気にもせず、ベランダへ行き、虫をベランダの外へはらいました。幸いにも、その様子は夫婦にみられずにすみました。まぁ仮に夫婦が気付いたとしても、虫に対してあれほど鈍感な夫婦でしたので、あまり気にしなかったかもしれません。

そのあと夫婦にはまた何かあったら気兼ねなく連絡してほしいなどといった、半分社交辞令的な挨拶をしてからその場を後にし、同僚と飲みに行って帰宅してその日は終わりました。


Sさんがこの夫婦のことを思い出したのはそれから1年ほど経った秋のことです。

あの夫婦の奥さんから電話があり、旦那さんが亡くなったのでマンションを売却したいとのことでした。

2人目のお子さんが生まれてから半年ほど経ったころ、リビングで食事を食べていた旦那さんが突然、吐き気がすると言ってトイレに行ってしまいました。

なかなか戻ってこない様子を見に行った奥さんが目にしたのは、口から滝のように真っ黒い小さな虫を吐き出す旦那さんの姿だったそうです。

そのまま旦那さんは亡くなってしまいました。

色々ありましたがマンションを売却して、さらに2年ほど経ちました。

Sさんは会社を辞めることにしました。

同僚が亡くなったからです。


Sさんが会社を辞めてから、体調を崩して娘のところへ引っ越した例のマンションのオーナーが会社を訪ねてきました。

そのオーナーは同僚が亡くなったこと、Sさんが退職したことを聞かされると、次のような話を教えてくれたそうです。

オーナーの亡くなった旦那さんの実家は近畿地方にあるとある神社の神主さんの家でした。その地方では「オクヌイ」という催し事が行われていたそうです。「オク」とはその地域を流れるとある川の神様のことだそうで、その川は昔から大雨の度に氾濫し、「暴れ川」としてそのあたりの住民を困らせていました。

このため住民はこの「オク」を祭る神社を立て、年に一度、台風の過ぎた10月の中頃に「オクヌイ」という祭りを行ったのです。

「オクヌイ」とは「オク」という神様を「縫う」ということらしく、要するに川が暴れないように川の神様を今の形で縛り付けてしまうために、太いしめ縄を巻いた大きな岩を、川と川の端に沈める、というものでした。

1年も経つとしめ縄は水でボロボロになってしまいますので、そのしめ縄を張り替えるために、近くの村々から大柄な若い男たちが集まり、岩を川の底から引き揚げて、しめ縄を結び、また岩を沈める(鎮める)。これが「オクヌイ」の儀式の一連の流れ、つまり「行い(おこない)」です。

しかしその川は昭和の中頃にコンクリートで護岸工事がされて「暴れ川」ではなくなってしまいました。コンクリートの川に岩やロープを沈めるというお祭りも、行政からの指導で出来なくなってしまい、「オクヌイ」はなくなってしまいました。

その川も街の再開発によって徐々に川幅が狭くなり、生活排水などもたくさん流れ込んでしまい、今では黒い虫がたくさん湧く、汚い川になり果ててしまったそうです。

オクヌイで使われていた2つの岩ですが、何百年も地域の「鎮め岩」であったわけですから、たとえ「オクヌイ」が行われなくなったからと言って放置する訳にもいかず、「オク」を祭っていた神社の神主の家と、その地域の名士で地主であった家がそれぞれ引き取ったとのことでした。

オーナーの旦那さんが亡くなった後も、オーナーはその岩の云われを知っていたため、その岩を大切にし、言いつけを守ってきました。

言いつけとは、川の神である「オク」を封じた呪いを受けた岩を持つ家の人間と関わってはいけない、というものでした。

この岩の呪いはとても強く、亡くなったオーナーの旦那さんは、海にでも沈めてしまおうかとも思ったほどではありましたが、さすがにそんな無責任なことはできないですし、実家である神社も朽ちてしまったわけですから、自分が遠くへ移れば良いとして、この地域へ引っ越してきたそうです。

あのマンションを売り払ったとき、オーナーは原因のはっきりとしない病に侵され入院し、引っ越しも娘に任せざるを得ませんでした。

ようやく体調が回復して娘の家に戻ると例の岩がなく、娘も岩のことをよく覚えていないとのことでした。それで居ても立ってもいられなくなって、心当たりのある先を捜し歩いていたわけです。

そこまで話したところでオーナーは
「こんなこと言ってしまうと怖がらせてしまうわね。だけど大丈夫よ。あんな大きな岩を揃えて一緒にしておくなんてそれだけでも大変なことだし、川の虫を寄せ付けないための蚊取り線香みたいなものを焚きさえすれば、おかしなことにはならないからね」
と伝えてお店を去って行ってしまったそうです。

あの2つの岩はいま、いったいどうなってしまっているのでしょうか。

Mくんたちの怖い話「オコナイサマ」

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