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天津飯よ、冷めないで。

僕は天津飯に夢中だった。

夢中といっても、天津飯ならばどんなものでもいいというわけではない。天津飯というと、白いご飯(もしくはチャーハン。旨いけれども邪道と言わざるを得ない)を深めの皿に盛り、カニ玉をのせ、片栗粉でとろみをつけた餡を目一杯かけた中華の一品。そこが王将なら「餡だく」と唱えて、さらに餡を盛ってくれとねだる事もできる。グリーンピースは蛇足であるけれども、乗せてみても見栄は良い。

特に餡の美しさは、中華料理の中でも一、二を争うところだろう。しかし、この餡の味については議論が分かれる。というのも、実は関東と関西とでは味付けが大きく異なる。関西ではケチャップなどで味付けされた“甘酢餡”が主流な一方、関西では、ダシや醤油味の透き通った薄茶色の餡がメインである。無論、私は関西風を愛しているが、踊る!ディスコ室町のギタリスト、クマ山セイタが一家相伝で守っている“甘酢餡”の天津飯には舌をうならせた。

一時は毎日食っていた。京都のいろいろな店に言っては天津飯を食べ、研究を重ねた。東山にある某中華料理屋の天津飯は、カニ玉の上にかける餡のなかに、さらに卵が溶かれており、その輝かしいビジュアルにはため息がでるほどであったが、店を仕切っていた“おかあちゃん”による新人バイトへの教育的指導に目と耳をうばわれ、味については一体どのようだっただろうか記憶は曖昧である。また自宅では、いかに美しい天津飯を作るかという事に日々の情熱を注いでいた。いまもその日々を思う心から、twitterのヘッダーには天津飯が鎮座している。

振り返ればそんな日々もあった。天津飯に夢中であった。しかしどうだろう。現在はすっかり落ち着いてしまっている。Ubereatsをかます際、王将の天津飯に目を光らせるものの注文するかは風向き次第。その程度に僕の欲望は現在下火であり、一時の熱狂を思うと、どこか後ろめたいほどである。

いまは豆苗。僕は豆苗に夢中。豆苗は良い。豆苗は一度食べた後も、お皿の上において根の部分に水をやっておくと、一週間ほどで伸びてくる。またそれを収穫し、食べるのである。マンガ『凪のお暇』では、主人公が節約生活の中で豆苗を育て、いろいろなレシピに利用して楽しむ姿が魅力的。以前、実家・広島の居酒屋で、豆苗と細葱などが入ったゴマだれのサラダがおいしかったので、京都に戻ってきて自分で再現してみるとそれがうまかった。豆苗は相手を選ばない。豆苗と茹でた豚バラ、ゴマだれの上に食べるラー油などをかけてしまっても良い。そこには無限の可能性が秘められており、愛を持って研鑽を続ける日々だ。

熱しやすく、冷めやすい。お察しかと思うが、僕にはそういうところがある。

以前からnoteを始めてみようと思いつつ、そうしなかった理由はそこにある。遠く振り返れば、中学生の時に友達と組んだバンドのHPのコンテンツとしてやっていたブログはえらく熱心に更新していた。当時は小さなデジカメを持っていて、それで日々友人を撮影したりしてアップして悦にいっていた。mixiも熱心で、大学時代の先輩の写真をアップした際のコメントの付け方にあこがれてマネするも、うまくいかなかった。アメーバブログや、tumblrのアカウントだって持っている。それらだって、別にいまからでも更新できる。でもしない。

文章を書くならどこだっていいし、場所によって書く文章が良くなったりするわけじゃない(場合によっては良く見える事もあるが)。でも、別に僕は作家じゃないし、いつまでも残る文章を書くつもりもない。だから気分を変えて、やり方を変えて、好きに書いてみてもいいんじゃないか。そんな自分を肯定する条件を揃えていき、自分を納得させ、ちょっとした一手間を乗り越えることができた。そうして本日、noteに登録してみたのである。

これだけいろいろと書いたあとにこんなことを言うのもおかしいが、ちんたらとエッセイを書くために登録したわけではない。twitterなんかだと読み手を意識して遠慮してしまうような、音楽等々日々の制作について少しばかり自分のために書き留めてみようと思っている。「そんなもんは自分の日記帳にでも書いておけ」と、日々日記をつけているような人は言うだろう。しかし書かない人はそうしない理由がわかるだろう。

夏が終わるぐらいまでは続けばいいなと思っているが、明日にでもやめそうな気もしている。冷めやすい性分はあきらめているが、まずはいったん熱されてみようかと思う。

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