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私たちの心は燃えていたではないか



 主が復活された日エルサレムから隣街のエマオまで二人の弟子が歩きながら主の十字架での死と復活について論じ合っていました。そこに主が近づいてきて一緒に歩き始められ、聖書全体に渡ってご自分について書かれていることを解き明かしされたのです。そしてその街の宿に入って食事の席につかれました。

 主はパンを取り、祝福して裂いて彼らに与えると、二人の目が開いて主だと分かったのですが、主は見えなくなりました。彼らは「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」と言って時を移さずエルサレムに出発して弟子たちのところに行くと11人とその仲間が集まっていて「主は実に甦られてペテロに現れてくださった」と言っていたのです。二人も事のしだいを話しました。

 「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう」と言われたので、この二人の弟子たちの魂の火が消えかかっているので、再び燃え上がらすために二人と共有の時間を取られたのです。私たちはどうでしょうか?キリストの火、聖霊の火が内に燃えていますか?わたしは10歳の時十字架のメッセージを聞いて主を信じ、「主は命を与えませり、汝れは主のために何を捨てし」と皆で歌った讃美歌は涙でぐしゃぐしゃになりました。「イエス様わたしはまだ子供ですがあなたに全てをお捧げします。どうか導いてください」と声にならない声で祈っていました。先週末も主の十字架の苦しみを思い描いた時、同じように泣いて祈っていました。

 主は。主自身が投じられた火が消えかかっている人のところに来られてもう一度燃え上がって欲しいと神の言葉を通して燃やし、熱くしてくださるのです。

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