成田凌になりたい

長らく長編の物語を見ていなかった。自分に余裕がなかったからか。

ようやく見ようと思える気持ちと、みることが可能な時間が重なったので、5月に録画したままだった、WOWOWで放送されていた、根本宗子作、高畑充希主演の『宝飾時計』を見た。

いい演劇だった。こういう舞台演劇が好きです。ハマりすぎないように自制しているのだが、ハマりたい気持ちが大きくなっている。そもそもなぜそんなに自生しているのか。自分に素直になればいいのに、と自分が言っている。

感想や解釈などうまくできないので、以下、この舞台演劇を見て思ったこと。

僕は最近自分のことを人に話していない。いや、正確にいうと、自分の核心を人に話せていない。

まずそもそも自分の確信を話せる人が少ない。最近仲良くなった人なんかには核心を喋らない。

そして、人が俺に興味がない。俺は正直話を聞くのがうまい。人の話を聞き出す能力に長けている。それでいて、人の話をよく聞くのに、「君はどうなの」という返事が返ってこない。俺は人に興味を持たれていない。

ここまでの前提条件があって、たまに自分の話を話せるチャンスが来る。その時にうまく話せない。素直になれない。いつも濁す。

例えば、俺は「死にたい」なんて絶対に言いたくない。しかし「すごく生きていたい」訳でもない。しかし「別にすごく生きたい訳じゃないけどさ」なんて言って、明日死んでしまったら、その会話相手は俺の死を悲しむだろうか。いや、別に悲しんで欲しい訳ではないが、そんなことを言っていたという事実は残ってしまう。だから俺は絶対にそんなこと言わないし、言いたくない。

星野源の「ダンサー」という曲に『誰でも帰り道に車道に飛び出して、今まで残したもの水に流したいけど』という歌詞がある。この歌詞が大好きだ。

僕だって、駅のホームに立っているとき、電車に吹き飛ばされたら全て終わるのかと妄想する。しかし、そういう妄想をしちゃうんだと人に言えない。実際にそうなってしまった時に、あいつはこんなことを言っていた、あいつは元々そういうやつだったんだ、みたいに思われたくないから。

星野源がもし、本当に車道に飛び出してしまったら、きっとこの曲がワイドショーで取り上げられて、こんな一面があったんですね、と、ふざけた社会を動かす燃料にさせられる。星野源はこんな歌詞を書いてしまった以上、もう車道には飛び出せないのだ。

俺も言えないよ、そんなこと。思っていることを誰にも言えない。言霊を信じすぎているのかもしれない。

もしかしたら、俺が口から出る言葉というのは俺の本当に思っている言葉ではないのかもしれない。ただの世を渡っていく道具にすぎない。相手と会話しているときは、自分と相手に楽しい会話に見せかけるためだけに、文章を作って、口から発しているだけだ。特になんの意味もない。

意味のある言葉を言いたい。

そして自分のことを言えない理由はもう一つ、恥だ。例えばこんな感じでnoteを書いているという事実、大学の人には言えていない。なぜなのだろうか。恥なのだと思う。俺は自分の本当の思いすら誰にも言えていない。それは本当の思いを自分の中で鍋の蓋でギューッと押し込めてるからだ。俺の思いは圧力で固めて鍋キューブとなって、家の引き出しの奥底にしまわれている。引っ張り出して水をかけてしまったらそんなものすぐに溶けるというのに。一体何がしたいんだ。

自分のことを理解するのに時間がかかりすぎた。成田凌は確かそんなようなことを言っていた。

結局自分に振り回されて、世間体を考えた自分を装って、それが自分だと思い込んでいる。それが本当の自分だと思うが、それ以外の自分にもなろうと思えばなれる。そのそれ以外の自分に憧れてしまうのはないものねだりなのだろうか。だからと言って、それ以外の自分になろうとする勇気がないのだが。

自分は成田凌だった。俺は成田凌になりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?