みくり食堂の今日のお客さま「父が会いに来たと知る」

本日の定食

今日、お母様を亡くされ、待ち合いの合間だとおっしゃるお客様が、ご家族で来てくださった。
いつものように定食を作りお出しする。
ひとくち毎にため息をつくように「沁みる」とおっしゃってくださって、なんか急にブワッと涙が出そうになった。
たぶん、ひと月前の自分を追体験し重なってしまったのだ。

父を亡くして1か月経った。

その日は、ふわふわしてて非現実な気持ちと、ただただ穏やかに父を送りたい気持ちと、やらなければいけない現実的な業務とで、あまり涙も出なくて、流れるように終わってしまった感じだった。

「さみしくなるね」と声をかけてくれた友達がいた。
「今はさみしいより、ホッとした感じ。父、よく頑張って生ききりはったなって思う。」と返し、なんか自分ってアッサリしてんな、冷めてんな、と思っていた。
友達が「あとでふと寂しくなることもあるかもだよ」って言ってくれた。
ほんとにそうだ。
自分が何を感じどう思っているか、一番自分がわかってないのだ。

父の葬儀は穏やかにひっそりと家族と近い親族のみで滞りなく終わった。
望んだとおりに。
でも それは、私の望みではなく、父の望みだったのだと今は思う。
きっと亡くなった自分に会いに来てくれる人々が争ったりせず、ただ穏やかに心からお別れを言って欲しかったのだろうと思うのだ。
そして、父は自身で思うように全てを整えて、逝ったのだ。たぶん。
死に際に、その人の生き様が出るのかもしれない。

今ごろ父が亡くなってさみしい。
そして、良いお別れの時間をくれた父に感謝している。
ひと月経って、お客さまを通して、父が会いに来てくれたのかもしれない。
きっと不自由だった身体から抜け出て、今は自由にどこでも行けるから、嬉しくて来たんだな。

父の葬儀の日の夕べ、
雲になって天に還ってるなぁって、
運転中、息子に撮ってもらった1枚。


今日、ひと月前の自分みたいなお客さまが来てくださって、一気に思い出した。
その日は、合間合間に、目の前にあるコンビニやファミレスで、目についたものを作業のように食べる。
次にやるべき事と忘れてる事がないか考えながら、口に放り込んでいる。
誰かの作った美味しい味噌汁食べたいって頭の片隅にかすめつつ、もう次の事を考えている。
その時は、父が亡くなった事より大事な事無いと思うけど、ただ忙殺される波の中にいたのだ。

自分の事なのに、どんな死に方になるのかわからない。

禍根を残さず、綺麗に死にたい。
死んでも、笑って思い出してもらいたい。
父が倒れてこの3年半の間に、生きている人も含めて大事な友達を何人も失くした。
その度に、ぽっかり心が無い、ただの身体の側だけで生きているみたいな気持ちになった。
そして、自分を取り戻す時間も何度もやってくる。
不思議だけど、ゆっくりゆっくりある所まで潜ったら、底を打ったように感じて「ま、いっか」とあっけらかんとした気持ちで上を向くのだ。
薄情でもあり、能天気でもあり、「馬鹿なのか?」とつぶやいて、「ま、いっか」って思う。

時々、急に父や亡くなった人を思い出して、少しさみしい事がある。でも同時に、「あんな事あったな、面白かったな」って、ニヤッとしたりもする。
そうやって少しずつ自分を解放して取り戻していく。
私は、自分で自分をあやして、ご機嫌を取る、という使命がある。

大きな自然に会いに行きたい。
綺麗な海とか、大きな木とか、美しい岩とか。
ふと、手元に、小さく見えて大きな自然からやって来た野菜や食材がある事に気づく。
生き物である野菜を手にする仕事のおかげで、たぶん何度も自分を取り戻しているのかもしれない。
「沁みる」とおっしゃってくださったお客さま。こちらこそ沁みました。

本日の定食。
・愛媛crucruさんの放牧豚とキヌアの中華あん
揚げ野菜と揚げ豆腐にかけて。
・福立菜とごぼうとはっさくのサラダ
など。


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