何かをやろうとする人は負け

撮ろうとした記念写真よりも、撮っちゃった違和感のある写真が好きだ。
そっちの方が写真に躍動感がある。記念写真は写真を「静止」として捉えてしまうけれど、撮っちゃった写真はあくまで「連続する時間の中の一部」なのだ。

文章でもそれは言える話で、書こうとして書いた、かしこまった文章はなにも心を打たない。一方で、感情をむき出しに勢いそのままで書いた文章は胸を打つときがある。

これは、書こうとした文章はただの文字の羅列であって、勢いで書いた文章は「感情を表現する」という、ある種のゴールに向かって必死にジタバタした「結果」になるからだと思う。

「結果」に人の心は弱いのだ。

写真とか文章とか、そういったアーティスティックなものだけではなく、「表現」と呼ばれるものにはなんだってこの理論はある程度通じると思う。

それが「行動」であろうが「人」であろうが。

何かをやろうとしてやる人よりも、身体が勝手に動き出していつの間にかやっちゃってた人の方が僕は好きだ。

前者は、やろうとしてる時点で、一度躊躇っているので、その分熱量が奪われている。一方後者は、「やりたい」という気持ちと同時進行で身体が動くので、「やりたい」気持ちも止まらず一緒に動いていく。活発化していく。熱量がまったく薄れないのだ。

ここまで「成功」とか「失敗」とかいう観点を思い切り無視してしまっているけれど、たとえ後者の方が失敗が多くたって構わない。

前者はスピードが遅い。
いちいちためらったり、準備したりといった時間が膨大にかかるので数が打てない。

一方後者は、考えながら動いているから、たとえ失敗したとしても、その失敗が取り返しがつかなくなる前に、早めに修正することができる。
そうなってきたら、もはやそれは失敗ではない。

さらに、もし、失敗が取り返しのつかない領域に入ったとしても、数が打てるからまたすぐ次の行動に切り替えることができる。

「失敗」という大きな大きな経験値が積み重なった状態で。

長い目で見れば「大きな成功」や「沢山の成功」を果たすのは、明らかに「やりたいと思ったら既にやっちゃってる人」なのだ。

気の向くままに自分の直感を信じて、そんなに怖がらないで攻めていくことがとても大切だ。

記念写真の「撮るよ!並んで!こっち向いて!もう少し寄って!ピースして!いくよ!ハイチーズ」なんでやってるうちに時間はどんどん経っていくし、撮ろうとした景色は腐っていく。

そこには予定調和しかなくって、退屈なのであんまり好きじゃないのです。

「いい」思ったときには既にシャッターを切っていられるような、そんな行動力が大切だ。

写真なんてフィルムじゃないから今の時代何枚だって撮れる。恐れることはない。

行動もこれと一緒の原理。

大丈夫。きっと。

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