甘い檸檬 —フェスティンガーの認知的不協和理論—

 「認知的不協和が起きると不協和を低減する思考・行動が起きる」


 矛盾した2つの認知がある場合、その不協和を解消するために、比較的変えやすいほうの認知を変えて、協和している状態にしようとすること。

 たとえば、自分の責任・判断で接種したワクチンについて、政府や製薬会社が「非常に有効だ」と高く評価している場合は、認知的協和の状態で心地よい状態である。しかし、専門家によって「重度の後遺症、死亡の事実がある」などと科学的に批判された場合に、専門家の知見と自己の評価との食い違いが発生する。これを「認知的不協和」と言う。

 このとき、比較的変えやすい方の認知を変えて、協和させるよう働く。接種済みのワクチンを接種していないことにするのは不可能であるため、「専門家がいい加減なことを言っている」「それは陰謀論だ」など事実や科学的知見自体を否定するようになる。

 あるいは専門家の指摘した面(副作用)は認めながら、「副作用以上に、予防効果が高い」「社会の役にたっている」などといった、別の長所をむりやり探し、あるいは創作し、自己の認知的不協和を解消させるように、無意識のうちに思考を変更する。

 檸檬を自己の意思で取って食べた人は、前記のような方法で認知的不協和を解消しようとするが、もし「酸っぱいかも知れない」と不安に感じていた木の実を無理やり口に突っ込まれたらどうなるか。あるいは無理やり突っ込まれなくても、食べないといけないような状況に追い込まれ(同調圧力)、仕方なく檸檬を口にした人はどうなるか。

 心の穏やかな優しい人であれば「この檸檬は(比較的)甘かったのだ」と納得させるかも知れない。

 しかし、強制や同調圧力の下で仕方なく酸っぱい檸檬を食べたほとんどの人の心は、それでは収まるまい。その心が「怒り」に変わることは、想像に難くない。
しかも、それが檸檬だったのならただ酸っぱいだけの話だが、もしそれが毒林檎だったらどうなるのか。酸っぱいだけではない。命に関わる重大問題だ。


 命が危険にさらされた時の人の怒りは凄まじい。その怒りは、当然政府、製薬会社、マスコミ、職場にも向かうだろうが、強制したあるいは同調圧力をかけた個人に向かうのも、間違いないことだ。命を脅かされることへの怒りは、本能から出る「業」だから凄まじい。

 これからますます増えてくるワクチン死は、それだけで十分恐ろしい出来事だが、300万人という人が亡くなった大東亜戦争でも、「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」日本人は冷静に戦後を迎えた。しかし、ワクチンを打った人には戦後がない。公式発表によると、既に6000万人が接種済みというが、それが本当ならいずれ命のかかった6000万人の怒りが表に出る、ここからが本当の地獄だ。想像するだに恐ろしいことだ。

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