【斉千】恋ぞつもりて 淵となりぬる

斉藤さんと千鶴、屯所恋仲設定。左之さんの横恋慕ものです。R-18ではありませんが、それに関する内容を含みます。15歳以下の方はご遠慮ねがいます。

※【一】から【五】の部分はサンプルとしてアップしているpixivのものと同じです。(サンプル
すでに読んでいただいた方は、お手数ですが【六】からご覧くださいませ。

※次回は18禁左之さんです。

――――――――――以下、本編。

【一】

門限を少し過ぎた時刻、斉藤は屯所に戻ってきた。御陵衛士へは間者として赴いたものの、隊士のなかには齋藤を裏切り者だと思っている者も少なくなかった。そのため帰隊してもすぐに巡察に参加することはなく、単独で屯所を離れる任務をこなしていた。

今日はただの見張りとしてとある藩邸を監視していただけだったが、一日中気を張り詰めていればやはり疲れる。部屋へ戻ってすぐに寝よう、と庭へ足を向けると、縁側で赤い髪をなびかせる男がひとり、静かに酒盛りをしているのが見えた。

「よぉ、いま戻りか? お疲れさん」

「ああ。あんたは寝酒か?」

「そんなとこだ」

そう言って原田は、徳利を持ち上げて斉藤の方へと掲げた。見れば、もうひとつ杯が置いてある。斉藤を待っていたようだ。

少し疲れてはいたが、旧友の心遣いを無碍にするのも心苦しい。斉藤は原田のとなりに座り、杯を手にした。原田は満足げに笑みを浮かべ、斉藤に酒を注いだ。

「どうだ、久しぶりの新選組は」

「そうだな……。やはり落ち着く、と言えるだろう」

「俺もそう思ってたんだ。やっぱり斉藤がいる方がしっくりくる」

そこに平助の名前が出てこないあたり、自分のいないところでいろいろとあったのだろうと推察した。

斉藤が原田をちらりと見やると、原田は女ならばうっとりするであろう笑みで返した。月夜に照らされ、普段まとっている彼の色気が一層強くなる。

「千鶴とは、うまくいってんのか?」

予想だにしていない質問をいきなり投げかけられ、斉藤は思わず酒を吹きそうになるが、寸で耐える。斉藤と千鶴は、彼が御陵衛士から戻ってすぐに恋仲になった。いままで離れていた分恋しさが募っていた二人の距離が縮まるのは、当然のことのように思われた。

だが斉藤としてはあくまで秘密にしているつもりだったので、原田の勘の鋭さに舌を巻いた。

「気付いていたのか」

「そりゃあな。千鶴、すげぇ幸せそうだし……。お前さんがいないときの気の落ちようといったら、不憫でならなかったからな」

千鶴の護衛を任されていた斉藤が離れることによって、その任は原田に任されていた。といってもいまとなっては多くの幹部が彼女をかわいがっているので、斉藤ほど彼女のそばにいたわけではない。それでも斉藤は原田がいろいろと便宜を図っていたのであろうことは理解しているから、素直に「礼を言う」とつぶやいた。

「あんたがあの者を引き受けてくれたから、俺も安心した。あんたは頼りになるからな」

「ははっ。ありがとうよ」

千鶴の護衛に関して、斉藤は土方に直々に原田に頼みたいと進言した。とても珍しいことだったが、残りの面子を考えれば当然のことだった。土方もそれを考えていたようでそれはあっさりと認められ、原田は千鶴の護衛役となった。

「斉藤。お前は千鶴のことをどう思ってんだ?」

「どう……とは?」

杯に酒を注ぎつつ、斉藤は小首をかしげた。原田はどこか遠くを見つめていたが、その瞳に憂いがあることを、斉藤は見逃さなかった。

「……いや、妙なことを聞いちまったな」

「それは構わないが。なにかあったのか?」

今度は斉藤が質問をすると、原田は苦い顔をして、自らの杯にうつる自分を見つめた。

「千鶴は、いろいろと悩んでるみてぇだからな」

ここ最近気にかけていたことを言いあてられ、斉藤は今度こそ目を丸くする。

斉藤と千鶴は、先日恋仲になった。だが、恋人らしい雰囲気は皆無だ。斉藤が殺伐とした状況に身を置いているため仕方のないものではあったが、口下手な斉藤と初心な千鶴では、なかなか甘い雰囲気になることもなく、ただたまに二人の時間を過ごしていただけだ。

そんななかで、千鶴がなにか物思いにふけっていることは気付いていた。だがそれとなく聞いても千鶴は「大丈夫です」と言い、その後「心配をおかけしてすみません」と謝った。恋仲の相手に、だ。

なぜ千鶴は、自分に甘えてくれないのだろう。むずかしい状況とはいえ、千鶴の頭を撫で、話を聞くくらいはできるのに。最近斉藤は、そんなもどかしい気持ちを抱えていた。

「お前は全部ひとりでしょい込むからな。千鶴も踏み込めないんだろうよ」

斉藤は意外な思いで、横にいる原田を見つめた。原田はその視線を無視するように杯を傾け、物思いにふけっていた。斉藤は原田の胸中を推し量れずに、真意を探ろうとした。

「……あの者を、よく見ているのだな」

これは皮肉ではなく、素直な感想だった。斉藤はほとんど屯所にはいない。そうすれば、恋仲だと気付いたのは千鶴の様子を見ていたからだということになる。

そう言うと、原田はこともなげに言ってのけた。

「ああ、惚れてるからな」

「な!?」

杯が斉藤の手からすべりおち、庭へ落下した。割れてはいないが、静かな月夜に、鈍い音が響いた。

「恋敵が隊務で留守にしているときにつけ込むのは、俺の主義じゃねぇんだ」

「あんた……本気か?」

原田は斉藤があまりに驚いたので、おかしくなったようだ。クスクスと笑っている。

「――本気だと言えば、千鶴を譲ってくれんのか?」

笑みを消し、原田が斉藤に向き直った。真剣な目で、斉藤を射抜く。斉藤自身も、その目に負けないほど鋭い眼光を放っていた。

「御免こうむる」

「ああ、だろうな」

原田はふっと息を吐き、徳利を持ち上げて手酌する。だがもう酒はほとんど入っていなかったようで、斉藤の徳利から継ぎ足す。もともと原田の酒ではあるが。

「そうか、あんたが千鶴を……。なるほど……」

斉藤はぶつぶつと一人の世界へと入った。

原田が面倒見のいいことは折り紙つきだ。だが引く手あまただろう原田が、あえて千鶴に惚れるなどとは斉藤にとっては夢にも思っていないことだった。そしてもし恋い慕ったとしても、義理を大事にするこの男があえて自分に言ってきたのもまた不思議だった。

「だが、意外だ。俺が御陵衛士として赴くとき、俺はあんたに千鶴の護衛の後任を頼んだ。あんたはよく気が利くし、それに……」

「千鶴を女として扱いつつも、口説くことはないだろう、か?」

「……そうだ」

その反応に原田は気を良くしたらしく、肩を揺らして笑った。実際ほかの者よりも原田が一番うまくやるだろうと思っての指名だった。

「ああ、俺も驚いてんだ。自分でも驚いちまったが、事実だ。俺はあいつに惚れてる。気付いたのはお前が戻ってくる少し前だが……。悪いな」

「なにに対して、だ?」

斉藤がぎろりとにらみ、右手で縁側に立てかけていた刀を取る。酒に誘ったのはこれが理由だろう。ならばもう付き合う必要もない。原田はそれを、冷めた目で見ていた。

「あんたが誰を思おうと自由だ。だが、あの者は譲れぬ」

「だろうな。あいつもすぐに心変わりはしねぇだろうし……」

「隙があれば奪うつもりか」

「隙なんか作る方が悪いだろ?」

眉間にしわを寄せ、苦々しげな斉藤。それを見つめる、無表情な原田。

お互いがお互いの胸中を見透かそうとにらみ合った。斉藤としては、この男が恋敵になるのはぜひとも避けたいところだった。朴訥人の自分と、花街でも名を馳せる色男。自分が無骨だと自覚している分、胸の奥から焦燥感が渦巻いてきた。

「安心しろよ。好きな女の幸せを願うくれぇの度量はあるから、余計なことはしねぇ。だが千鶴を悩ませたら、俺が飛んでいくぜ? 泣かしたら、それこそ奪ってやるさ」

「ずいぶんな自信だな」

「悪いが、女の扱いには慣れてるんでな」

原田は、斉藤の徳利も空になったことを確認し、最後の一杯をクイっと飲み干した。斉藤は刀を持ったまま立ち上がった。

「千鶴を、これ以上泣かさないでくれよ」

いままでと打って変わって、後ろから聞こえた原田のその声は、ずいぶん弱弱しかった。斉藤は自分の部屋へ向けた足を止め、振り返った。

「お前のこと、ずっと待ってたんだ。だから、いっぱい笑わせてやってくれよ」

斉藤は視線を自分の部屋へ戻し、一歩歩を進めた。


【二】

次の日斉藤が朝餉のために広間へ向かうと、厨から原田と永倉のにぎやかな声が聞こえた。それに混じる、鈴の音のような高い声。厨に顔を出すと、そこにはいつもの原田と永倉、千鶴がいた。

「お、斉藤おはようさん」

「斉藤さん、おはようございます!」

御陵衛士のときは常に気を張っていたので、こんないつもどおりのやりとりに、ふと心が軽くなる。だがそれでも隣に原田がいると思うと、心にさざ波が立った。

「丁度よかったです。斎藤さん、お味噌汁の味見はいかがですか?」

千鶴が小皿に少しだけ味噌汁をうつしわけ、差し出してくる。そのほっそりとした白い指は男に見えるはずもなく、そんなところで「女」を感じてしまう。童でもあるまいし、と心のなかで苦笑する。

「では、いただこう」

そっと小皿を受け取れば、かすかにその指に己の指が触れる。自分の体温よりやや高い。柔らかい感触に動揺しそうになるが、それを堪え何事もないかのように味噌汁をすする。千鶴はといえば、斉藤の邪念などなにも気づいていないようで、いまかいまかと料理の感想を不安げに待っている。

――あんたが作ったものならば、なんでも良い。

そんなことが口に出そうになったが、もちろん伝えることはない。「うまい」とだけ言えば、千鶴はほっとしたように顔をほころばせた。

「だろー? そのわかめは俺が戻したんだ!」

永倉が自慢げに言い、原田は「湯を沸かしたのは俺だぜ」と胸を張る。正直そんなものそこらの童でもできることだが、千鶴が料理下手の二人にうまく仕事を分配したのだろう。それに気づいてしまえば、そんな心遣いもいとおしく思えた。

「味噌汁が終わったんなら、あとは並べるだけだな」

永倉の声に二人はうなずき、支度の終わった三人はそれぞれの食事を膳に並べていった。

「膳を運ぼう。そろそろほかの者も起きだしてくるだろうからな」

斉藤が手伝いをかって出ると、永倉は「頼んだぜ!」と鉢に煮物をよそい始めた。千鶴は味噌汁を椀に注いでいる。だが最後の方で寸胴を傾けなくてはならない段になって、千鶴は爪先立ちでどうにかこうにか持ち上げようとする。

ここには男が三人いるのだから――俺がいるのだから、声をかければいいものを。

そう思いつつ、斉藤は千鶴へと一歩踏み出す。

「ちづ「ったく、無理するこたぁねぇって。な?」

一歩踏み出したところで、原田に台詞を奪われてしまった。千鶴は「ありがとうございます」と、斉藤が心の癒しだと思っている春の陽だまりのような笑顔で原田を見上げた。

たかが、その程度のこと。

気にせずにおこうと膳の準備を整える。だが気にしないでおこう、と思う時点ですでに気になっているのは事実であり、千鶴のことになると心が狭くなる自分にひとり苦笑した。

そして斉藤が膳を重ねて広間へ運ぶとき、ちょうど原田も膳を抱えあげ、二人で並んで広間へ向かうことになった。

「今日は朝餉、屯所で食うんだな。最近朝餉はいなかったが」

そんな原田の何気ない一言にも、「お前がいない方が都合がいい」と言われているように思え、思わず顔をしかめる。

「ああ、そのあと出るがな」

「へぇ。いつ帰るんだ?」

「――終わり次第、だ」

斉藤がいない間に原田がなにかするのを案じ、釘を指す。原田もバカではないから、その威嚇に気付いたようだ。

「昨日は変なこと言っちまって悪かったよ。だが、俺とお前が同志なのは変わらない、だろ?」

「……そうだな」

原田は情に厚い男だ。斉藤は、疑り深い自分の考えを恥じた。

「俺が女に優しいのはいつもだろ。俺だって別に、常に下心を持ってるわけじゃねぇからな」

「――たまになら持っているのか」

「そんなわけ……。いや、あるかもな。惚れた弱みってやつだ」

そう言って、原田はカラカラと笑った。膳を運ぶ原田の背中を、斉藤は微動だにせず、険しい顔で見つめていた。

あの男は、千鶴がなにに悩んでいるのか知っているのだろうか。

いつものように朝餉をとり終えそれぞれが膳を持って腰を浮かしたとき、「総司、斉藤、新八、原田は残れ」と土方が指示した。それならば茶でも、と立ち上がった千鶴も、「お前もだ」と言われ、困惑したように座りなおした。

「とある屋敷に、薩摩の者たちが出入りしているらしい。場所はわかっているが、誰が出入りしているかをつかみてぇ。向かいの家を借り上げた。潜入捜査だ」

その言葉に、その場にいた者全員が顔をひきしめ、背筋をただした。

「で、千鶴。お前に一役買ってもらいてぇ」

「わたし……ですか?」

千鶴は小首をかしげる。

「そこらへん一体は、金持ちが多い通りだ。男ひとりじゃかえって目立つ。だからお前には、妻の役をしてもらいてぇ」

「つ……ま!?」

千鶴は目をぱちくりさせるが、ほかの幹部たちも同じだ。土方は、「十日もあれば、人数くれぇはわかるだろう。きな臭いヤツには監察をつける」とこともなげに言った。

「で、だれなんですか? 千鶴ちゃんの旦那さんは」

いかにもおもしろそう、と言いたげな沖田が、にやりと口角を上げる。

「それだがなぁ……」

土方が逡巡しながら、懐手をした。

「――原田に、頼むつもりだ」


【三】

その後千鶴は斉藤になにか言いたげに視線を寄せるが、斉藤はそれを無視してひとり屯所の門をくぐった。

気に入らない。

副長絶対主義の彼は、異など唱えない。だがずっと恋い慕っていた女が、ほかの男、それも恋敵とひとつ屋根の下となれば、複雑な胸中になるのは自然なことと言えた。

土方は、「総司は病」「新八は潜入にむかねぇ」「斉藤は多忙」「ならば原田」だと言った。たしかに、理にかなった人選ではある。そう、納得はしているのだ。実際斉藤は、ここ数日の食事は一日で一度屯所で食べられるかどうか、というほど出回っていた。

決行が明日、というのも、斉藤の焦りに拍車をかけた。明日から十日間、愛しい少女は、恋敵の妻となる。たった十日、されど十日だ。

自分は十日不在のときもあったというのに、彼女がいないと思うとどうにも気落ちする。その十日間、原田はきっと、いい夫を演じるだろう。千鶴はできた女だから、おしどり夫婦だと思われるにちがいない。

そう思うと、斉藤の中に渦巻くなにか黒いものが、少しずつかたちを成していった。


【四】

「千鶴、ちょっとこれ見てくれるか?」

風呂敷を持って現れた原田を、千鶴は部屋へと招き入れる。原田がそれを広げれば、そこには真紅に白い桜の花びらがあしらわれた、女物の着物がたたまれていた。

「本当は千鶴はもうちょっと明るい色が似あうと思ったんだが、地味にしとけってさ。もったいねぇが、気に入ってくれたか?」

千鶴はコクコクと何度もうなずいて、うれしそうにそっと着物を撫でる。

「あと……これ」

原田は千鶴に、ひとつのかんざしを渡した。千鶴は素直にそれを手にとり、ながめる。するとすぐに、「えっ」と驚いた声を上げた。

「あの、このお花って、胡蝶蘭……ですか?」

「ああ、知ってたのか。めずらしいだろ?」

ガラス玉のなかに、桃色の胡蝶蘭が浮かんでいる。かんざしを傾けると、その上品な花がゆっくりと揺れた。

「お前のことだから、こういうのも持ってねぇだろ? 十日とはいえ、女に戻れるんだからよ」

千鶴が何も言わないので、原田が慌てて「気に入らねぇか?」とたずねた。千鶴は顔をぶんぶんとふり、「とんでもないです! すごくうれしいです!」と顔をほころばせた。だがすぐに、困ったように眉を下げる。

「あの、どうして胡蝶蘭……桃色の胡蝶蘭、なんですか?」

その台詞に、原田は首をかしげた。

「好きじゃなかったか?」

「あ、いえ、めずらしいので聞いてみたかっただけです。ありがとうございます」

千鶴はそこで話をたたみ、かんざしを丁寧に着物の上に置いてもう一度風呂敷で包み込んだ。原田はその様子を満足げにながめる。

「――千鶴」

「はい、原田さん」

千鶴は原田に向き直り、きょとんと首をかしげる。

「左之助って、呼んでくれねぇか?」

「ええ!?」

原田がいたずらっ子のように笑い、千鶴は顔を真っ赤にさせた。

「夫婦のふりをすんだから、原田さん、じゃダメだろ? お前も原田なんだから」

そう言って苦笑するも、千鶴は「でも……」ともごもごと反論らしきものをする。顔まで真っ赤で、膝に乗せた両手を何度も組み替える。その初心な様子がかわいらしく、思わず原田の目も細くなる。

「な? 潜入捜査、ちゃんとやり遂げようぜ?」

あえて挑発的に言うと、千鶴はすぐにしゃんとして、「はい!」と元気よく返事した。

「えーーーっと……。は、原……えー……その、えっとですね、うーん……」

「なんだよそりゃ」

原田は思わず吹き出し、片手を千鶴の頬に這わせる。千鶴の顔はさらに真っ赤になり、慌てて目をそらす。だがそれを良しとしない原田は、千鶴の頤に手を当て、上を向けさせた。

千鶴の目に映るのは、女ならだれでも見とれるような整った顔と、燃えるような赤い髪を無造作にまとめ、――瞳に熱を宿す男だった。

「さの、す、け、さん……?」

まるで瞳に吸い寄せられるようにつぶやけば、原田は「合格だ」と千鶴を撫でてやる。

「もう一回」

「え!?」

「そりゃそうだろ? うっかり原田さんってよばねぇようにな」

そしてそこから、原田は時間が許す限り、千鶴に自分の名前を呼ばれたのだった。


【五】

ふっと空を見上げれば、月は雲に隠れていた。どうりで暗いはずだ。昨日よりだいぶ早く切り上げられたものの、夕餉には間に合わなかった。

食い盛りの男たちの巣窟で、まともな食事が残っているとは思えない。外で食べる、という選択肢もあったが、斉藤にはそれを選択できない理由があった。

彼はほとんど走っているような速度で、一目散に屯所へ向かった。できればこの様子を夜の巡察の者には見られたくないものだ、などと思いながら。

斉藤に言い渡されていたのは、とある要人の護衛だった。日中は商談などでどうしても外に出なくてはならず、斉藤は陰ながらまわりの様子に気を配っていた。さすがに夜は監察が変わってくれることになっているが、監察も暇ではない。昨日のように、引き継ぎが遅くなることもままあった。

だが、今日だけは。

明日から、たった十日とはいえ、千鶴が原田のもとで「妻」の役割を演じる。あのまっすぐな少女がかんたんに心変わりするとは思えない。だが原田からすれば、あの初心な少女を口説くなど、たやすいようにも思えてくる。

千鶴のことを疑っているのではない。自分が信じられないのだ。

原田のように見目がいいわけでもなければ、男らしい体躯をしているわけでもない。気遣いができない、ということはないだろうが、女の扱いにいたっては歴然の差がある。そしてなによりも、原田は千鶴を笑顔にするのがうまい。

彼女のささいな言動を覚えていて、こっそり贈り物をしたり、後々褒めてやったりする。器用な男だ。

だからこそ、そんな魅力をなにも備えていない自分が情けなく、またそんなどうしようもない焦りをやり過ごすこともできなかった。

屯所に戻ると、もうすでにいくつかの部屋の灯りは消えていた。だが千鶴の部屋はまだ明るいままだ。きっと繕いものでもしているんだろう。

「千鶴」

小さくつぶやけば、中から慌てて立ち上がったのであろう音が聞こえる。

すっと障子が開き、そこからは髪をおろして夜着に身をまとった千鶴が、うれしそうにはにかんでいた。その幸せそうな顔がかえって斉藤の心をざわつかせ、思わず両手のこぶしに力を入れた。

「どうぞ」

千鶴は斉藤を部屋へと招き入れ、自分は布団の横にちょこんと座った。斉藤もその向かいに腰を下ろす。千鶴からしたら、布団を背にするような恰好だ。

――不用心な。

「お疲れでしょう? 夕餉、少しでいいなら取って置いたんです。あと明日の下ごしらえの分も、すぐにご用意できますからね」

千鶴はにこにことその場を辞そうとする。だが斉藤は彼女の腕を引き込み、自分の腕の中に抱きすくめた。いままで手すら触ったことのないような清い関係だったにも関わらず、彼の大胆な行動に千鶴は目を丸くした。

「あの、斉藤さん……? なにかありましたか?」

斉藤のただならない様子に、千鶴はなにか不穏なものを感じた。――と思ったとき、千鶴の目線はすでに天上を捉えていた。柔らかな感触が、背中を包む。

彼女を押し倒した細身の男の顔はいたって真剣で、それでいてなにかにおびえているようだった。

千鶴は驚きつつも彼の頭をそっと撫で、「どうしました……?」とささやいた。

「明日から、あんたは左之の妻なのだろう?」

「それは……隊務ですし、お部屋も分けますし……」

「だが、左之が無理やりあんたを自分のものにしたら、どうする?」

千鶴はまさか、という思いで斉藤を見返した。だが斉藤は、本気だった。

「副長に、役を交代してもらうように頼むつもりだ」

「そんな……。斉藤さんらしくないです。その、斉藤さんとご一緒ならうれしいですけど、いただいたお役目は果たします」

どうやら千鶴は斉藤が自分の身を案じてくれているのだと思い、「大丈夫ですよ」とほほ笑んだ。

「斉藤さんにお会いできないのはさみしいですが、がんばりますので」

その千鶴の、斉藤をいたわる微笑が。

斉藤のいらだちを募らせるばかりだった。

「……あんたは!」

ほかの者をはばかって、それは決して大きな声ではなかった。だが千鶴は肩をぴくりと震わせた。

「あんたは……それで、いいのか。好きでもない男と、演技とはいえともに暮らすことに、なんとも思わないのか」

斉藤がそうやってうめくと、千鶴も顔を険しくした。

「斉藤さんは先日、お仕事で四日ほど、遊郭にいましたよね」

「知っていたのか」

「あれだけ強い匂いをつけていれば、だれだってわかります」

遊郭への潜入捜査が済んだあと、きらびやかな女たちに目もくれず斉藤は千鶴に会いに行った。媚びへつらう女どもにうんざりし、あの笑顔に癒されたいと思ったのだ。だがそれが裏目に出て、遊郭にいたことに気付かれたようだ。斉藤らしからぬ失態だろう。

「でも、なにも言いませんでした。……言う権利なんて、ないから」

千鶴は目に涙を浮かばせたが、それでも負けじと斉藤をまっすぐ見つめる。

「斉藤さんの隊務の内容を、わたしは聞きません。斉藤さんをお慕いしたときから、詮索したことはありませんでした。だって、お嫌でしょう? お困りになるでしょう?」

斉藤は眉を下げた。誇れない汚れ仕事が多いのも、事実だ。そしてそれを見過ごしてくれる彼女に救われていたことも。

「わたしは今回、みなさまのお役に立ててうれしいんです。がんばります。だから、心配はご無用です」

千鶴は、まっすぐ斉藤を見据えた。

そこでふっと斉藤が息を吐き、「すまなかった」と謝った。だが千鶴は、「ふふっ。意外に心配性なんですね?」と幸せそうに笑った。その様子を見て、自分の心の狭さに呆れてしまった。千鶴はこんなにも自分を思ってくれているのに。

そこで一件落着――と思いきや、斉藤が体を起こそうと思ったとき、その爆弾は放たれた。

「原田さんがいますから、大丈夫ですよ」

薄く散っていった黒いなにかが、はっきりした形をなして、斉藤の体を占拠した。斉藤は千鶴を強引に引き寄せ、口づけを浴びせた。驚いた千鶴が体をひねるも、抱きすくめてそのまま何度も口づけする。

「さい、とう、さん!」

合間に千鶴が苦しそうに息を吐き、斉藤の胸板をたたく。

「千鶴。あんたが思いを寄せるのは、だれだ」

「斉藤さん、です」

「ならば……」

最低だと、心の中でつぶやいた。

今度はゆっくりと、優しく千鶴と唇を合わせた。そして、離す。

「あんたを、抱きたい」


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