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一寸の虫にも五分の魂とは言うけれど〔エッセイ〕

 久し振りにnoteを書いてみることにした。
 スマホをディスプレイにして、ワイヤレスキーボードでカタカタと打つ。この白いワイヤレスキーボードは某通販サイトにて割とお手軽な値段で手に入れた物で、デザインや打ち心地がとても気に入っている。

 さて、そろそろ本題に入ろう。
 今朝、いつもの通りにモーニングページを書いていたときのこと。二、三ミリほどのとても小さな虫が、机の置き物の上をゆっくりと歩いていることに気が付いた。私は迷うことなくティッシュを手に取り、その虫をティッシュ越しにぎゅっとつまんだ。その手を少し上げると、掴みきれていなかった虫がバタバタともがいていた。とても苦しそうに。そして私は再びぎゅっとつまんで手元に持ってきて、ティッシュの中にちゃんとそれが居ることを確認してごみ箱に捨てた。

 「一寸の虫にも五分の魂」という言葉がある。
私はこれまでの人生の中でこの言葉を何度か発してきた。もちろんそのときの「私」は、「小さな虫でも人間と同じ一つの命だ」などと綺麗事を言っている「私」だ。口ではどんな命にも貴賤などないと言っておきながら、実際は、可愛いと思う生き物には動物愛護の精神を見せ、見た目が気持ち悪いと感じる生き物、つまり虫(特に小さな虫)に対してはその命を軽んじ、息の根を止めることすら平気でする。

 三十年以上の間それを疑問に思わずに生きてきた癖に、なぜ今になってこんなことを言い出したか。
それはあの小さな小さな虫がバタバタともがき苦しむ姿を、思わず身近な存在に置き換えて想像してしまったからだ。もしも犬や猫があんな目に遭うのを目撃したら、私は耐えられないだろう。可哀想だと心を痛め、その犯人を心から軽蔑し憎むだろう。
つまり、結局は「外見」で命の重みを決めているのだ、私という人間は。動物愛護法はあのように小さな虫の命は守ってくれるのだろうか。あるいは夏になると出てくる、あの黒い悪魔のような生き物の命は。

 しかしそのことを自覚しても尚、私は身勝手な理由でこれからも小さな命を奪っていくのだろう。人間とは、私とは、かくも罪深い生き物なのだなと思いながら。


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