からだとこころの話

3本目の記事でちょっと自己紹介的なことをしようという気分になったので、書いてみることにしました。

さて、1本目と2本目の記事で骨の話を書いていますが、私はわりと骨とか筋肉とか、臓器とか、神経とか、生理学とか・・・、大まかに言ってからだの話が好きです。

どんな感じで好きかというと、例えば仮にすごい意地悪をされて、自分の心がどす黒いもやもやしたもので覆われたときに、『でも、この人の身体にも心臓があって、心拍は自律神経系の働きで一定の回数に制御されて規則正しいリズムで動いて血液を全身に供給していて、その周りには肺があって全身に酸素を供給するとともに二酸化炭素を外に外に運び出していているんだよね』と思うと、なんとなくそのどす黒いモノが薄れていくというような感じです。

それってどんな感じ・・・?という感じですが、まあ、どんなに『おいおい、それは無いんじゃないか。けっこうひどいぞ』という人がいても、その人の中にも生きるために必要な調和的な部分が存在しているんだと思うと、なんとなく心が静まってくるということです。

これは自分自身のことにもあてはまって、大失敗をしてしまい、自分にがっかりしてしまうようなことがあったりして、情けない気持ちになっても、自分の心臓がちゃんと規則正しいリズムで打っていて、呼吸もちゃんとしていて、筋肉や骨がバランス良く動くことで立ったり座ったり歩いたりといった動きができていて、ついでに飲んだり食べたりもできていて・・・ということに気付くと、『自分の中にもまだ調和的な部分があるぞ。とりあえず、なんとかなるかもしれない』と、少し元気が出てくるわけです。

これは、私のお仕事の影響だろうと思っていたのですが、これを機に考えてみるとそうでもないかもしれない、ということに気付いたので、ついでに書いておこうと思います。

高校の生物学の授業でのことです。生物学の先生はやや厳しめの、いろいろズバズバ言う先生だったのですが、その授業はとてもおもしろい授業で毎回興味深く聴いていました。

私の心をがっちりつかんだのはミトコンドリアと細胞内呼吸の話で、ずいぶん経って母から「あんたミトコンドリアの話、学校から帰ってきて、すごい話してたよね。よっぽどおもしろかったんだね」と言われたことがあります。

吸う息によって取り込まれた酸素や食べ物から得られた栄養が血液に乗って何十兆もの細胞の、それぞれの中にある小さな小さなミトコンドリアに運ばれてきて、エネルギーが生み出され、その結果二酸化炭素や老廃物が発生し、血液によって運ばれて吐く息や排泄物となって身体の外に出ていく。

『目に見える呼吸の背景で、身体の中では人知れずこんなすごい出来事が起こっていたとは。人体おそるべし』とわくわくしたわけです。

母に話したことはすっかり忘れていましたが、授業の話を家族にすることはほとんどなかったので、母に話したということは、そうとう興奮したのではないかと推測されます。

日本語で言うと、『生きていることは、もう、それだけで奇跡』という多くの人に使われているありふれた言葉になってしまってしまって、自分の語彙力のなさに少々残念な気持ちになるのですが、とにかくいのちの営みに心を動かされたということですね。

大学では実習で骨の形や組み合わせ、筋肉や腱の形や動き、臓器のはたらきなど様々なことを学び、その都度、すごい!とわくわくしました。

今も昔も、人の身体の構造や機能に接して、その美しさを感じる機会や、精巧なしくみに心を動かされる機会が幾度もあることは、ほんとうにありがたいことです。

非常に落ち込んで立ち直るのが難しいときに、美しい動きをしている人を見ていると自分の心が癒される感じがするので、意図してそういったものを見る機会を作るのですが、それは、ちょっとおかしな私の個性を利用したものです。

からだと心のつながりについても興味深いことがたくさんあるので、今後も少しずつ書いていきたいと思います。

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