水の中の村

6月のある日曜日、農カフェさんのところのイベントで田植えのお手伝い。実は農家始めてからも田んぼには手を出したことがなく、田植えはこのときが農大1年次の(悪夢のような)農業実習のとき以来。この20数年、もっぱら野菜ばかりをつくってきたのだ。

田植えの最中、稲を荒らすアヒルが、子どもたちに追いかけられ逃げ惑うガーガー声を聞きながら、素足に感じている田んぼの土がきもちよい。

終わって、農カフェさん宅の大きなイトヒバの木陰で、店主ご一家とゆったりと昼食。天気良好で蒸し暑い日の「木陰」は最高!
風が自由に行き来する、楽しいひと時。

意外なひと


昼過ぎに帰宅。ひとめで玄関先の宅配ボックスを兼ねたポストに異変があることに気がついた。
中身がはちきれんばかりにパンパンなのだ。

取り出してみると、その主は「魚沼産こしひかり2kg」。一緒に広告の裏に書かれた走り書きが出てきた。「近くを通ったのでよってみた」系の文面と新潟県魚沼在住の懐かしいKくんの名前が書いてあった。

Kくんは小学校から高校まで同じ学校の同級生。何回か同じクラスになったことはあると思うけど、接点は多い方ではなく、一緒になにかやった記憶はそれほどない。だけどかなり前に開催された高校の全クラス合同同窓会の折に立ち話(?)をして、その後メールでなにかやり取りしたような・しないような記憶はある。
彼はそれで自分が群馬の田舎に引っ越したことを知り、気になっていたという。永いこと気にしてくれていたことに少し驚く。

自分は生まれて最初の10年間は千葉や横浜に住んでいたけど、10歳になる1969年の夏休み、東京の千駄ヶ谷というところにあった父親の勤務先社宅に引っ越してきた。それから干支が一回りするくらいはそこにいた。
Kくんは千駄ヶ谷ではないけど、小学校から見て原宿方向の神宮前というところに住んでいた。原宿駅から400mくらいのところだ。

 高校時代だったか、超都会ネイティブの彼の口から「東京は住むようなところじゃない」というような話が出たことを覚えている。当時、バンド活動に熱中していた半端田舎者の自分は当時都会の恩恵を無批判に受けていたので、彼の言葉に少し驚くとともに、彼のもつ自分にはないある種の生真面目さを感じたものだった。

彼はその後、歯科医となり早々に魚沼に移り住んだ。それから30年以上たつという。

懐かしい街


自分が千駄ヶ谷に越してきたのは、東京オリンピック1964の5年後だ。小学生にとって5年前というのは大昔だけど、自分が気がついただけでも千駄ヶ谷近辺にはオリンピックの残り香がいくつかあったように思う。
たとえば、住んだ家ははっきりいってボロ屋だったんだけど、トイレは水洗。オリンピックを契機に下水道が敷設され、あたり一帯改造したと思われる。和式トイレの天井付近に水槽があって、そこからぶら下がったチェーンの先の白い把手を引っ張ると水が流れる。そんなトイレ、今は知っている人も少ないだろうな。
小学校の前は、やはりオリンピックを目指して整備されたその名も「オリンピック道路」が走っていた。原宿駅そばの代々木体育館から国立競技場や神宮外苑界隈にいくメインルートだったらしい。大人たちの会話には「オリンピック」という単語が時々入っていた。

一方、当時「連れ込み旅館」といわれていた今で言う「ラブホ」が小学校校区の中に林立していて、そのひとつは自宅の隣にもあった。地域で目立ったのはHという旅館で「H本館」から始まって「H新館」とか「H別館」とか、あたりにいくつも散在していた。
一族の親兄弟たちがそれぞれ経営しているらしく、同級生にもその子弟がいた。1970年前後の小学生にしてスキーを趣味とするハイソなやつだったが、神宮前の彼の家に遊びに行った際に、近くの空き地の草むらで「ここはマムシがでる」と脅されたことがある。明治神宮が近かったというのもあって、そんな話もそれなりにリアリティがあった。

また同級生たちの親が経営する昔ながらの商店街も近くにはいくつかあり、そこにはお菓子屋、本屋、酒店、パン屋、そば屋、小さなスーパーや、「海彦山彦」という釣具や登山グッズを扱う小さなお店もあった。
ちなみに、自分の生活圏ではなかったものの、中学校のころまでは竹下通りも普通の商店街だったような気がする。

母親たちは毎日夕方近くになると、商店街にでかけてその日の食材を買い求めていた。これっていわゆる「三丁目の夕日」ってやつ?

沈んだ村


ポストにこしひかりが入ってから、Kくんの捜索が始まった。
彼のメッセージには差出人として氏名しか書いていないし、連絡をつけようにも手近なところに手がかりがないのだ。まずはPCの中をあさるがみつけられない。魚沼とKの名前でググると、ヤツの歯科医院がヒット。医院の昼休みにかけてみたがつながらない。

時々開催される自分のクラスの高校同窓会で世話になっているヤマグチにKくんの所在を聞くと「わからないけど、Kと同じE組にはFというやつがいて、Fの麻雀仲間であるウチのクラスのキンタに聞けばわかるかも?」という、ものすごいアドバイスをもらった。早速キンタに聞いてみると、その2日後には、Kくんの自宅住所と固定電話番号を丁寧に書いてくれたFくんの文面が転送されてきた。

ほぼ同時にKくんから「日曜日は、突然押し掛けて申し訳ありません。」で始まるメールが着信。
彼はしばらくたって、なにやら「却って迷惑だったかも」と思い始めていたらしい。

彼の実家は今も神宮前にあり、帰省した折に千駄ヶ谷の鳩森八幡神社にある都内最古とも言われる富士塚(富士信仰ベースのミニチュア富士山)を登りに来るらしい。自分が住んでいた社宅はその神社のすぐとなりだったので、彼はそこを通る度に自分を思い出してくれていたという。ありがたい話である。

彼はその日曜日に群馬の吾妻峡にでかけてきていて、その折に足を伸ばして吾妻峡の少し南側に位置するわが地元・倉渕まできてくれたらしい。
そうだ、彼は以前から山登りが好きだったんだ。

吾妻峡には少し前に八ッ場ダムができてしまっていたので、その話や中止になった倉渕ダムの話をすこし書いて感謝の返信。それから何回かやり取りをすると、そんな関係からか以下のような一文を含むメールが送られてきた。

「実家に帰ると必ず原宿〜千駄ヶ谷を散歩するのだけど、誰か知ってる顔が居ないか探すけど誰も居ない。ダムに沈んだ村のようだよ。」

自分が千駄ヶ谷を去ったのは1982年。その後暫くして始まったバブルがあたりを一変させた。
いま、どこの都市でも商店街はその衰退が著しい。しかし、都心でのそれは少し様相が違っていた。バブルで異常に膨れ上がった地価のおかげで、界隈の多くの人達は相続税が払えない事態に陥った。初期の頃、おそらく多くの人は不動産を売却して次々と土地を離れていき、そのときに同級生たちもかなりいなくなったと思われる。その後始まったのが、土地を担保に融資を受け自宅や店舗をマンションやテナントビルに建て替えて賃料でローンを返済していくというビジネスモデル。

結果、千駄ヶ谷―原宿近辺の商店は次々とビルに変身していった。一階に店舗をのこした店もいくつかあったが、今その殆どは閉店していると思われる。なつかしき連れ込み旅館も姿を消した。
今や住人やビジネスマンとしてたくさんの人を収容したビルが林立しているわけで、国内的には経済ががんがん回っているクチだろう。彼はそれを形容して「ダムに沈んだ村のよう」といった。

単なるノスタルジーと考えることもできる。だけど、今ここにある社会の本質のいち断面を鋭く描写しているように自分は感じる。

なぜなら、今の千駄ヶ谷―原宿には「生活臭」がないのだ。ダムに沈んだ村のように。
ちなみに自分が倉渕に越してきた頃は、旧権田村の中心地であった自宅近くは徒歩圏によろず屋さんが数軒、ヤマザキショップ1軒、床屋さん3軒、ガソリンスタンドや郵便局もあった。お向かいさんみたいなところに元映画館という建物も残っていた。

そして今現在、残っているのは床屋さんと郵便局のみである。当時と比べて生活臭は・・・かなりなくなってきていると思う。

お店があれば生活臭があるのか?それは短略的すぎておそらく違うだろう。たとえば、田植えをしている田んぼのとなりで、知らない人がなにかやっているのが目に入るとすれば、それでもいい。
しかし今、この地元で畑仕事をやっていても「見渡す限り誰もいない」ことも多いのだ。

自分の知っている「生活の場」に「生活臭」が急速に消えつつあるのは事実であるように思える。沈みつつある村のように。

「リアル」を拡げるもの


参議院選挙が終わった。これからは、今にまして近隣諸国の脅威が大きく語られる状況になるかもしれない。しかし、そんな驚異から「守るべきもの」っていうのはいったいなんなのか?

守るべきものがあるとすれば、それは自分たちの「日常」なのではないかと自分は思う。
モノをつくり、ヒトと出会い、モノやコトをやりとりし、衣食住する「日常」。その中身が自由で多様であるほど、失うことが耐えられない豊かなものになる。そしてそんな「日常」は「生活臭」によって「赤の他人」を自分と繋ぎ、「日常」はリアルに拡張され「豊かさ」が拡張されていくことになるのではないだろうか。

あ、トマト好きのあの人が今日も買い物かごに入れている。あ、今日あの家からはサンマ焼きの煙がでてる。あ、・・・。

もし界隈に生活臭がなければ、他者は想像するしかない。しかし、想像の他者はいつも遠くにいて解像度が低い。そうなるとご近所さんが「工作員」(?)みたいに見えてくる可能性が高くなったりしないのか?

自分は80年前の戦争の時代よりも自分たちの時代はアップデートしているって、なんとなく思ってた。憲法も違うしね。

しかし、もしかして今が「沈みつつある村」であるならば、「脅威」がひときわ強調されるとき、80年前を「超える」相互監視社会がやってくる可能性が充分にあるのではないだろうか。


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