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運命戦は運命じゃない?持論

運命戦は運命じゃない。

ちはやふるで主人公・千早の師である原田先生はそう言った。

運命戦とは競技かるたで互いに1枚ずつの持ち札になり、読まれた方がほぼ勝ちという試合展開の事である。

ただし読まれる札の確率は50%であるが、自陣を100%狙っていても相手がそれを上回れば守れるとは限らないし、お手つきという要素もある。競技かるたの奥深いところである。そういった意味で、運命じゃないと表現されている。

もうひとつの重要な意味としては、「最後まで読まれない札がなんとなくわかる」というものである。オカルトじみているように聞こえるが、そういう話をする人も少なくない。その一方で、確実に2分の1だという理論派も多い。運命戦で読まれる札は果たして天の「さだめ」すなわち運命なのだろうか。

まず、「最後まで読まれない札がなんとなくわかる」派について考えてみよう。よく試合後に、これは流れ的に読まれないよなぁ〜といった話を聞いたりする。

ここで私が大会で残り2枚になった時に読手の読みを止めてアンケートを取ってみたとする(失礼・迷惑ともに極まりない)。どっちが読まれると思いますか?と全組に聞く。読まれる札は等しくとも、試合展開の流れは十試合十色だろう。標本数を増やすほど、予想はフィフティになるのではないかと思う。そこで、各々の試合展開に寄与する読み札の流れというのは根拠になり得ないのでは無いかと思う。

一方で、全員共通の読み札最大98枚の流れのみを根拠とする「最後まで読まれない札」の予想については有り得なくもない。但し、そちらも標本数を増やせば増やすほど確率はフィフティになる。

運命戦の主に大会での試行数は運命戦ではない試合数に比べて大変少ないため、フィフティになるほど試行回数を重ねている人が少なくなり、偏った経験から運命戦はフィフティかどうかという論争が生まれるのではないかと思う。

その中でも、勝ったら次の試合のことを考えるが負けたらその日はその1枚で終わりなので、負けた試合の方が強く印象に残ることが多いだろう。私自身、3大会連続で運命戦が出ずに1回戦負けした時期や、B級決勝で運命戦が出なかった時のことは強く印象に残っているし、なんて運がないんだろうと思った。ただ本当は運命戦で勝った試合もたくさんある。その時は次の試合のことを考えるのでその後の試合の方が印象に残っているだけである。1枚の重みは敗者の方が何十倍も重く感じるのだ。運命戦が読まれないと感じる人は、ここに立ち返っても良いと思う。自分の陣が読まれないと思い込む必要はない。その思い込みは自分の弱みに変わってしまう。たかがフィフティである。

反対に、予想した読みが当たった試合というのも嬉しくて印象に残る。試合が終わってみてから確かにそっちの方が読まれる気がしたなぁと後付けする場合もある。中には本当に第六感が働く競技者もいるかもしれないが、その域に辿り着くのは理論的には難しく何人もいるとは思えない。ひたむきにやっていたらいつか見えてくるかもしれない領域なのだろう。私は「運命戦が出ない」「最後まで読まれない札がわかる」というような理論の大部分は人間の印象記憶に基づくものではないかと考える。

これまで述べてきた通り、私は運命戦はフィフティであるというスタンスに近い。読まれる読まれないは運不運に基づくものである。

しかし、運命戦になったとしても絶対に負ける気のしない最終盤や運命戦になったとしても勝てる気のしない最終盤があるのも確かである。

そこで、師に教わった言葉でたいへん納得して好きな言葉がある。

運命戦は強い方が読まれる。

私の解釈では、ここでいう「強い」とはかるたの実力は勿論だがそれだけではない。「持ち前の運が強い」「勝てるという気持ちが強い」「思い入れが強い」「祈りが強い」など様々考えられるが、複合的に「強い方が読まれる」という表現は好きだ。運命戦は50%だけれど、運を引き寄せる強さのある方が勝つ。これが私なりの「運命戦は運命じゃない?」の答えだ。

運不運ひとつで病んでかるたが苦しくなったら勿体ない。どんなに大切な試合の運命戦も、遊びの飲みがるたの運命戦も、どちらの札が読まれるかは同じフィフティだ。結果は神のみぞ知る。

その上で、運命戦はその時に強い方が読まれるのだ。読まれなかったらもっと強くなったら良いのだ。私はこういう風に考えられるようになってから、悔しさで落ち込みすぎることなく強さを求められるようになった。

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