見出し画像

ナタデココをのんだ

実は、ナタデココはのんでいない。

今日は高校の同級生の誕生日だった。

高校一年生の時に同じクラスだった彼女が私はとても好きだ。喜怒哀楽が明るく優しく顔に出る、こちらまで楽しくなるようなひとだ。喜怒哀楽というよりは、喜笑幸楽くらい言ったほうが正しいかもしれない。そして非常に聞き上手・褒め上手だった。今日の誕生花は写真のシャクヤクだそうだ。花言葉は「恥じらい」「はにかみ」「謙遜」ぴったりだと思った。

彼女は私の話をいつも楽しそうに聞いてくれて、私の書いたものをすごくよく褒めてくれた。とても調子に乗せるものだから、私はよく彼女に身近な題材で詩を作っては見せていた。

彼女は書道部だったのだが、私のかいたナタデココの詩をとても気に入ってくれてその詩を書道作品の題材にしても良いか聞かれた。自販機でナタデココ入りのヨーグルトドリンクを買ったが缶の底と歯の間に残ってしまって取れない、みたいな詩だったと思う。彼女はとっても素晴らしい書道作品をつくるひとだったので、その作品はなにか賞を取って飾られた。わざわざ出典も明記してくれたので、小学校の同級生からこれあなたの詩?と連絡が来たのには驚いた。

私は紙切れに書いていたので書いたものはほとんどどこかへ行ってしまったが、ナタデココの詩は彼女が作品にしてくれたおかげで写真が残っているし記憶にも残っている。九職でチームが勝てなくて悔しくてひとりでナタデココが食べたくなって自販機に財布だけ持って行った瞬間とその周辺の記憶が彼女の笑顔と共に鮮明に思い出される。

ことばに残すということは時を経て自分に帰ってくる。しかも言葉そのものが持つ意味だけが伝わるんではなくて、ことばを紡いだ当時のことやそれ以外のたくさんの気持ちが思い出せる玉手箱だ。誰かに言ったことばなんかも同様に玉手箱になって時々蓋があくことがある。良いことばも悪いことばも未来の自分が手に取る瞬間が必ずくる。

それだけ取り扱い注意であることばを適切に使えているのか酷く不安になることも多い。誰かを傷つけていないかどうか口から出るときには正しく判断できていないこともある。なるだけ上手く振るいにかけたいがそれは難しいことだ。

彼女はそういうところがとても上手だったと思う。すごく尊敬するしそんなふうになりたいと思っている。

そんな彼女は大学で経験者に混ざって楽器を始めたそうだ。聞いた時は驚いたが、いつだって彼女は誰かの「作品」を新しい「作品」として届けるひとなんだなと思った。

ナタデココをみかけたらいつもおもいだす。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?