見出し画像

“普通”の愛が分からない

「みーき(当日のあだ名)って男好きだよね。」
小学生の頃、男の子の友達と一緒に遊ぶ私を見て、女の子の友達から言われた何気ない一言。

「Aくんのことが好きなCちゃんが、Aくんと仲良いみずきのことよく思ってないよ。気をつけときな。」
中高生の頃、何度も言われたこういう台詞。

「俺よりあいつのことの方が好きでしょ。」
なんて台詞を、当時の彼氏から言われたこともあった。


その言葉が、どんな意図を含んでいるのかはそれぞれだったのだと思う。
だけどとにかくそんなことよりも、女の子よりも男の子が好きとか、Aくんのことが特段好きとか、全く思っていないにも関わらずそう見えているという現実が私にとって困難だった。

「私の“普通”が、誰かを不快にしてしまうかもしれないから気をつけなきゃ」と答えが分からないなりに、とりあえず頑張るしかなかった。

時を重ねる中で、何となくこうしていれば大丈夫そうが段々分かっていった。そしてたまに失敗していた。笑

それでもやっぱり当時の私には(たぶん正しくは今も)、男女の間にあるものの違いが、よく分からなかった。


大学時代、友人と映画館から帰るバスの中での会話。

「恋人に対する愛と友人に対する愛は違うか?」
「同じでしょ。」と答える私に、「そんなことある?!」と驚く友人。

「じゃあ〇〇くん(友人)と結婚できるの!?恋人として愛せるの!?」と聞かれて、「結婚するって私が決めたなら愛せるよ。そういうものじゃないの?違うの?え、そういうものだと思ってたわ」と答える私。

「そういうものじゃないでしょ!!!もっとこう・・・そういうドライな感じじゃないのよ!」とちょっと怒られたりしながら、熱のこもった議論を交わした。
その時は、「全然違うなあ〜そんなことあるのかな〜」なんて思っていた。

それから少し経って、愛には「友愛」と「恋愛」という分類が存在することを知った。おそらく友人はこの違いを言っていたのだ思った。
同時に、自分の友愛と恋愛のグラデーションは、多くの人のそれと少し違うのかもしれないということに気づいた。


ちょうど同じ頃、教授から「池田さんは博愛だね!」と言われた。
「私は博愛なのか」と思うと、急に気が楽になった。私の“普通”はここにルーツがあるのかもしれないと思うと、肩の荷が幾ばくか下りた。何かが紐解けた気がした。

私の「女性も男性も同じ人間だから同じように仲良くしている『だけ』」という“普通”が、誰かにとっては特別に映るのだときちんと理解ができたのはこの時だった気がする。
愛し方やそれにまつわる思想には違いがあるのだという前提が、私を救ってくれた。




とりとめもなく私の愛にまつわるエピソードを綴ってみたのだけれども、言いたいことはただひとつで、私には私の“普通”の愛のスタイルがあるように、あなたにはあなたの“普通”の愛のスタイルがあるんだと思う、ということ。

なんとなくみんな同じようにみえる「誰かを愛する」という行為にも、当然のように個性があるということ。

普遍的かのように語られる愛に違いがあるということ。

みんな同じだと思って生きることは、みんな同じでなければならないと思って生きることは、とても苦しいと思う。

同じじゃないから、人とは違うから、私は幸せになりづらい?

いいやそんなことはない。みんな違う。
違うことに気づいた上で、誰かと生きていく人生はもっと面白いはず。

私は胸を張って愛して生きていこうと思う。

ありがとうございます^^