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葬送のフリーレンについて考える

先日、喫茶店の隣の席で 人語を解する獣 という言葉がX(旧ツイッター)でトレンドになっているという会話を聞いた。

葬送のフリーレンは自分が以前から気になっていた漫画だったので、嬉しく思った。

まだ、完結する前の作品だが、自分がこの作品について考えることを書いておきたい。

結論は、葬送のフリーレンは、他者に対するコミニケーションの仕方:理解と共感/拒絶と殺戮に関する物語であり、それは勇者ヒンメルと魔族という両極端の軸から語られる

というものだ。

魔王を倒した勇者ヒンメルのパーティーの一員であるエルフの魔法使いフリーレン。
物語は、彼女がヒンメルの葬儀で 
自分はヒンメルのことをわかっていなかった
と涙を流すことから始まる。

ヒンメルのことを理解するため、
魔王城の奥にあるという、死者と対話できる場所(オレオール)へと、フリーレンは旅に出る。

それはかつてヒンメルたちと旅した道を再びたどる旅でもあった。

序盤、ヒンメルのパーティーメンバーの弟子筋に当たるフェルンとシュタルクも旅に加わる。

道すがら、フリーレンはヒンメルとの冒険を追想していく。

人の心を理解できないと自覚する個人が、人の心を理解したいと願い、
今は亡きその人に思いを馳せながら旅を続ける。

ゆえに葬送のフリーレン。

旅の中で彼女は一つ、また一つヒンメルの心を理解・共感していき、魂の眠る地でヒンメルの魂と再会するのだろう。

この物語構造はやがて転換する。

転機は魔族という存在の導入、決定的なのは断頭台のアウラとその配下とのエピソードによってだ。

作中において、魔族は 人語を解する獣 と定義される。

彼ら、彼女らの外見は、ツノが生えている他は人間と酷似しており、ほとんどが若い美男美女の外見をしている。

アウラの配下、首切り役人のリュグナーは、和睦の使者として、グラナト伯爵領を訪れる。自身の父を先の戦で殺され、それでも未来に向けた関係を築くことをのぞむリュグナーの言葉に動かされ、グラナト伯爵は和睦を受け入れ、リュグナー一行の領内への滞在を許す。

伯爵との会見を終えたリュグナーは、同僚からの
「さっきのお父さんてなに」
という問いに
「なんだろうね」
と返す。

魔族に家族を営む習慣がないこと
ただ、そのように言葉を操れば、人間が自分たちの都合のよいように行動すると理解しているから、そのようにしただけなのだと
のちにフリーレンの口を通して語られる。

リュグナーとグラナド伯爵とのやりとりや、同僚との会話に、嘘をつくことの後ろめたさや、誰かを騙してやろうという気負いといった描写は一切なされない。全ては穏やかに、微笑みさえ浮かべながら、(人間目線で言えば)、リュグナーは伯爵を騙し、防護結界を解除するために暗躍する。

断頭台のアウラの一連のエピソードの秀逸な点は、上記のやりとりを裏返したエピソードを物語の終盤に置いていることだ。

人を騙すことに何の感情も抱かなかったリュグナーが、あたかもこの世の終わりのような絶望的な表情で(ちょうど、人が信頼していた相手に裏切られた時にするような表情で)、

「卑怯者」

と叫ぶシーンがある。

フリーレンの魔力制限を知って、である。

生まれついて魔力をもち、生涯をかけて一つの魔法を極める魔族にとって、魔力とは自身の矜持そのものであり、存在証明に他ならない。

普段、体から漏れ出す自然な魔力の量を制限して、自身を弱く見せる魔力制限を、魔族はやろうと思えばできるが、あえて日常的にやろうとは思わない。

(ちょうど私たちが、その気になれば人を騙したり、嘘をついたりできるが、日常的にやろうとは思わないように。もしやれば、異常者の烙印を押されて治療の対象となるだろう)

フリーレンは、師フランメの教えにより、1000年に渡り常に魔力制限を行うことによって、漏れ出す魔力の不自然な揺れをなくし、自身を弱く見せている。

断頭台のアウラはフリーレンの魔力総量を見誤り、服従させる魔法を発動、自身の魔法によって命を落とす。

このエピソードは、フーリレンの1000年に渡る執念、アウラを打ち破ったカタルシスに目を奪われがちであるかもしれない。

だが、本作の主題が他者との理解と共感であると仮定した場合、重要なのは以下の点である。

生まれ持って魔力を持たず、魔法も使えない私たちは、フリーレンの魔力制限について、さほど卑怯だとは感じられない。一種の戦法だと思う。リュグナーの「卑怯者」の言葉を魔族の生態から理解はできても共感することは困難である。

その裏返しとして、人を騙すこと、嘘をつくことの卑劣さを(言い換えれば言葉を大切することを)、人はそのように振る舞うものだと理解はしていても、我がこととして実感することはリュグナーにはできない。

人と似た形をして、言葉をかわすことができるのに、決してわかりあうことができないモノがいる。

それが断頭台のアウラの一連のエピソードで語られたことである。

葬送のフリーレン

それは史上、最も多くの魔族を殺してきたエルフの通り名である。
(とリュグナーから語られる一連の流れはメチャクチャ格好いい)

フリーレンは魔族に対して一切の容赦がない。

「助けて」
「お母さん」
「対話をしよう」

フリーレンが
命乞いをし、母の名を呼び、対話をのぞむ相手に対して、一切情けをかけることなく殺してきたことが作中で直接的または間接的に示唆される。

なぜなら、過去の経験から、魔族の言葉に気を許せば、命を落とすと知っているから。

人の心を理解し、共感することをのぞみ、追想するもの
は同時に

人の形をしたモノに対しては、理解・共感することを徹底して拒否し、殺すもの

である。

葬送のフリーレン

このタイトルには二つの意味が込められている。

勇者ヒンメルと魔族

物語はこの両極端な二軸を中心に展開する。

同時に、フリーレンはこの二軸の中間者とでも言うべき存在である。

魔力が使え、感情が乏しく、1000年経っても容姿が変わらない。

そんな魔族と共通する特徴をもつフリーレンは、だが、自身を人類の側の存在であると自覚しており、魔族と敵対する立場をとっている。

なぜか。

それはフリーレンがかつて仲間と村で暮らし、村を魔族に滅ぼされたからだ。

生活習慣の類似と対象との来歴
共感と理解か/拒絶と殺戮か 
どちらの立場をとるのかには、この2つの要素が関わってくる。

この作品のテーマは今日的なものである。

世界はグローバル化と情報化が進展して久しく、背景の異なる人同士が交流する機会、交流せざるえない機会が増えた。

価値観の多様化とその見える化が進んでいる。

戦争が間近に迫ってきていることを感じる。

AIが進化して、人と日常的にコミュニケーションをとる未来もすぐそこまできていると思われる。

自分と似たような外見をしており、言葉をかわすことができる相手に対して、理解と共感を目指すのか、拒絶と殺戮の対象とするのか。

その選択は、当事者同士の自由意志と言うよりも、両者の種族としてのスペックや文化習慣の類似点、両者の所属する陣営の歴史的経緯から決まってしまう。

葬送のフリーレンはそのような状況下に置かれた我々がいかに振舞うべきかに関する、一つの思考実験の物語と見ることもできる。

自分が勝手に呼んでいるカテゴリーに「共感系主人公」と言うものがある。
鬼滅の刃の竃炭治郎に代表されるのだが、敵役を倒す際に、相手の過去を幻視し、理解・共感し涙を流すタイプの主人公のことだ。

炭治郎ほど典型的な「共感系主人公」が出てくる作品は、現在主流になっているとは言い難いが、闘いの終盤に敵役の過去のエピソードが挿入され、読者が敵役の背景について理解した上で、敵役は倒され、物語から退場する(または改心し味方となる)と言う構造は、比較的よく見られるものだ。

葬送のフリーレンにおいて、勇者ヒンメルとの過去のエピソードは毎回の事件の解決間際のタイミングに挿入され、フリーレンと読者はその度ごとにヒンメルについて理解と共感を深めていく。

拒絶と殺戮の対象である魔族の過去は決して描かれない。
魔族とはあくまで、言葉をかわすことはできるものの、不気味で、何を考えているのかわからない存在である。

この構造を転換させたのが、黄金郷のマハトに関する一連のエピソードである。ここでは作中初めて、魔族の、マハトの過去が描かれる。

物語構造の定石に従えば、魔族であるマハトの過去を描くことで、読者は、マハトを理解、場合によっては共感し、理解し得ないと思っていた相手でも、わかりあうことができたと言う結論になりそうである。

しかし、作者はそのような安易な展開、帰結をよしとしない。

そもそも黄金郷のマハトは、魔王直下の最高幹部、七崩賢最強と言われる魔族である。勇者と魔王の戦いを越えてなお生き延び、その万物を黄金に変える魔法は、人類には解除することは不可能で、魔法でなく呪いの一種と見なされているほどだ。

マハトは要塞都市ヴァイセに仕えた人類に友好的な魔族として知られていた。
アーティファクト支配の石環により、ヴァイセの民に悪意を抱いてはいけないという制約をかけられていた。

にも関わらず、マハトはある日、一夜にして、ヴァイセのすべてを黄金に変えた。

なぜ、マハトは支配の石環をつけていたにも関わらず、ヴァイセの民全てを黄金に変えることができたのか、彼の一連の行動の動機はなんなのか。

マハトは結局、フリーレンと敵対し、その闘いの終盤でマハトの過去が描かれ、読者に解答が提示される。

そこで示されたのは、最初から現在に至るまで、マハトは人類に対して悪意を持っていなかった。と言うものであった。

魔族にとって、人間を騙し、殺すことはごく自然なことであって、そこに特別な感情が入ることはない。

マハトはとあるきっかけから、人間のもつ 悪意 と言う感情に興味をもつ。

自分が抱くことのないその感情を理解しようと、親しい人間同士に殺し合いを強要し、それを観察するマハト。

自らが当事者にならなければダメだと思い、人間と友となり、その上でその人間を殺すことで、悪意と言う感情を理解できるのではないかと考えるマハト。

ヴァイセの太守で権力の復権を狙うグリュックとひょんな事から利害の一致を見出し、協力関係となる。

30年にわたってヴァイセの民のために働き(その中には、ヴァイセに攻め入る魔王軍残党の殲滅や、貴族の子息に魔法の指導をすることも含まれていた)、グリュックが老い、死期が見えたタイミングでヴァイセ諸共黄金に変えたが、ついに 人間の悪意について理解することはできなかった。

これが事件の顛末であった。

「もう少しで何かが掴めそうなんだ。」
自分が人間を理解することができれば、魔族と人類との共存も可能になると訴えるマハトに対して
「お前が人間を理解するよりも、人類が絶滅する方が早い」
と斬って捨てるフリーレン。
さらに、誰よりも人間との共存をのぞみ、人間を理解しようとした魔族が結果として人類の3分の2の人間を死滅させたとして魔王の名を挙げる。

ここで断頭台のアウラで提示されたテーマである
人と魔族はお互いに分かり合えない。
という命題がより先鋭化して提示されている。

ただ分かり合えないと言うだけではない。

魔族の側に、人類を理解したい、共存したいと言う意志があったとしても、魔族の思考や感性は人類側のそれとあまりにも違いすぎるため、結果として人類にとっての害になると言っているのである。

17世紀の哲学者イマヌエル・カントは無制限に善いものは善意志だと述べ、動機を重視した。

身体的、文化的類似を共有した、17世紀のヨーロッパ知識人と言う枠組みでは、彼の主張は有効であっただろう。

だが、国、種を超えて、コミュニケーションが行われるかもしれない今日的状況では、相手の考える善きものが果たして、自分にとっての害にならないのかその前提から検討する必要が生じて来るのだろう。

希望、というか展望も提示されてはいる。

そもそも、魔族にとって、自身の使う魔法は、魔族にとって存在証明であると同時に、自身のあり方を規定する隠喩(メタファー)になっている。

マハトの万物を黄金に変える魔法によって作られた黄金は魔力探知によると金に間違いないが、それ自体、破壊も変形も不可能な物質である。加工ができないため、その貴金属としての価値も皆無である。さらに、人類側にはマハトによって変えられた黄金を元の物質に戻す手段はない。

比類なく豪華な外見をしながら、実用性はなく、それ自体は全く変化しない。

人類の理解、共存という崇高な理想を掲げながら、なんの進展もなく、なんの成長もしなかったマハトの在りかたそのものである。

だが、人類によって呪いとも呼ばれたマハトの魔法は、フリーレンによって解除される。

それを以てして、マハトが変化・成長したメタファーであるとしてはならない。
フリーレンがマハトのことを理解したことを暗示しているとも解してはならない。

そうした誤読を防ぐため、フリーレンがマハトの記憶を解析し、万物を黄金に変える魔法の解除に成功する直前に、大魔族ソリテールから注釈がつく。

曰く、
人は太古から、理解できないものを理解できないまま「対処」することに長けていた。
(浮力が例としてあげられる)
そして、それは最も原始的な営みである観察によってなされる と
(マハトが、人間同士の殺し合いを繰り返し観察し、ついぞ人間の悪意を「理解」することはできなかったことと対照的である。)

戦いの終盤、致命傷を負ったマハトは、フリーレンによって黄金化を解除されたヴァイゼの街並みを彷徨う。

再会したしたグリュックからマハトは「悪友」と呼びかけられ、グリュックと初めて出会った時グリュッグがタバコ一本を吸う間だけ生かして欲しいと命乞いをした時のことをなぞるように、タバコを一本吸い、吸い終わると消滅する。

80年前、グリュックがタバコを吸っている間に、マハトとの会話が生まれ、そこで互いの目的のために共犯関係になるという取り決めがされたのであった。

80年後、マハトがタバコを吸う間、グリュックから最後まで付き合えないことへの詫びという形で共犯関係の解消がなされ、死に行く友への言葉という形で自身を人質を取ることの無意味さが指摘され、互いに目を合わせることもなくマハトは塵となる。

理解はできても、到底共感することのできない相手に対して、共感することを放棄し、利害を調整することに徹することで対処すること。

思えば、グリュックとマハトは一貫して、互いに互いを利用し合う関係であった。

マハトはグリュックに臣従するそぶりを見せていたものの、支配の石環の定めた制約に抵触しない範囲で、嘘は言っていないが情報を全て開示している訳でもない、というやり方でグリュックの行動をコントロールしていた節があるし、
(正体不明の大魔族:おそらくはソーテルヌによって都市が一つ壊滅した時、自身とソーテルヌが知己の間柄であることが知られないように、また、討伐隊が向かわないようグリュックからの質問に巧みな言い回しで応答している。)

グリュックはグリュックで、マハトによって自身が黄金に変えられる際も、魔法が解けて、目の前に瀕死のマハトが姿を現した際も、一切動揺するそぶりを見せなかった。

そんな日がいつかくると、あらかじめ承知した上でマハトと付き合っていた。

グリュッグはマハトを「悪友」と呼んだが、この言葉が含意するのは、いわゆる通常の友情という言葉が意味するような、相互理解、互いへの貢献、感情的な親密さと言ったものではなく、協力して悪をなす同盟者というニュアンスである。

マハトには、魔族としては異端というべき、人間を理解したいという目的があった。

グリュックも、超法規的手段でヴァイゼの実権を握るために暴力装置を必要としていた。

互いが互いの陣営にとって悪とされる目的をもち、互いが互いに相手に必要としているものを提供しあえるとわかった時、二人はお互いに最大の理解者となったのだ。

再度、イマヌエル・カントの思想を引用すると、
カントは、人はそれ自体が目的であるから、手段としてはならないと主張した。

この考えは、人格や尊厳といった表現で要約され、現在でも道徳を考える際の主流な考えとなっている。

だが、種族的身体的、文化的な差異があまりに大きく、相手が人格を持っているとこちらが計りかねる相手とコミニケーションをとらなければならなくなった際には、相手を尊重しようとしたり、100%理解しようとしたり、共感しようとするのはむしろ害悪であり、ひたすら利害の調整に徹し、もしかしたら、互いの陣営で悪とみなされるような、そんな譲歩をした時か、互いの陣営で異端とされるような、そんな存在同士でしか、安定した関係を築くことができないかもしれないのだ。

グリュックがマハトとの関係を保つ上での、利害調整の手腕は特筆に値する。
ヴァイゼの政敵を全て始末し終え、暴力装置としてマハトの利用価値がなくなると見るや、魔族の人間にとり入る能力を見抜いて、今度は周囲の人間を懐柔する手段として利用するなど、次々と役割を与えていく。
そうすることで、マハトが人間の悪意に触れる機会が増えていく(=マハトの目的に叶う)と理解した上で、である。

マハトが消滅する際の、グリュックとのやり取りは、二人の関係性を端的に現している。
「結局、何もわからなかった」というマハト。
「人間の感情が理解できるまで、地獄まで付き合うと約束したのに、最後まで付き合えずすまない」と詫びるグリュック。
「存じております」と返すマハト。
一見して、互いを思い合う部下と主君のやり取りのように見えるが、よくよく検討して見ると、そのような親愛の情はこの会話に含まれていないことがわかる。

グリュッグは瀕死のマハトをみて、その身を心配することも、明らかに戦闘中であり、誰かに追われているように見える状況にも関わらず、匿うようなそぶりも見せない。
ただ、傍にいて、一緒にタバコを吸い、その死にゆく様子を見守るだけだ。

この会話は、マハトがグリュックとの同盟によって得られる予定だった利益(人間の心の理解)の享受が完了されていない状況の中で、マハトに利用価値がなくなったため、同盟関係の解除をせざるを得ないことを詫びているのだ。マハトは、自身に利用価値がなくなったことと、それまで自分の目的達成のためにグリュクが努めてくれたことを理解していると相手に伝え、同盟の破棄を受理したのだ。

この瞬間を持って、グリュックからは人間の悪意にマハトが触れる機会を与えること、マハトからはその武力と人間にとり入りいる能力をグリュックのために使うこと、人間社会に溶け込むために主君と臣下という役割を演じるという取り決めが無効となった。

以降のやり取りでは、二人の口調は顔見知りの人間と魔族のそれとなる。

諦めが悪いことに、追っ手であるデンケンがやってきたのをみて、マハトはグリュックを人質に取ろうとする。しかし、それを見たグリュックの
「君はもう、本当にながくはないんだな」
という呟きを聞いて、彼を人質にとることをやめてしまう。

このやり取りも、マハトがグリュックへの忠誠心か友情に目覚めての行動とも取れるが、おそらく真相はそのようなものではない。

ヒントは、この場に諦めが悪くも現れたデンケンとの対比にある。

マハトとの対決のなかで、デンケンは、「最後までみっともなく足掻く」。
行動で、セリフで、回想のなかで、この表現は何度も繰り返される。

デンケンがマハトを討てたのは、フリーレンによってヴァイゼの黄金化の魔法が解かれるのに一瞬意識をそらしたところを相打ちに持ち込んでのものだった。

それもいつかチャンスが来ると信じて、瀕死になっても温存していた高密度の貫通魔法を使って、である。

諦めなかったデンケン。

対して人質をとることをやめたマハト。
・・・諦めたのである。
冷静に合理的に自身の状況を鑑みれば、人間一人人質にとったところで、この状況が覆ることはないと判断して諦めたのである。

人の心を理解することを切に望みながら、最後までその行動は魔族の判断基準を出ることのなかったマハト。

彼の肩に手を置き、去っていくグリュック。二人は目を合わさない。

グリュックはデンケンをヴァイゼを救った英雄として遇するよう衛兵に命じる。

当然の判断である。利用価値のなくなった危険な獣は処分されるべきなのだから。

それでも
「楽しかった。本当に楽しかったんだ」
虚空に向かって、グリュックは呟く。

仮に相手に心がないと理解していても、私たちは相手の行動に心を読み取ってしまう。

グリュックはマハトの心に友情や忠義心といったものが存在しないことを理解し、それを踏まえて適切に行動しつつも、それでもマハトとの間に友情のようなものを感じていたのではないだろうか。

あるいは、単に、秘密の悪巧みを一緒にする相手には、ことさら親しみが湧いてきてしまうというだけのことなのかもしれない。

読者もまた、マハトの行動、セリフ、一連の描写の中に、彼の心、親近感のようなものを読み取ってしまう。それが、マハトに関する一連のエピソードの味わいとなっている。

黄金郷のマハトに関するエピソードでは、初めて魔族の過去が描かれるという試みがなされたが、それが単純に読者に敵役たる魔族に共感させ、感情移入するための装置ではないということは、今見てきた通りである。

この試みの最終的な評価を下すのは現時点では難しい。

結局、人間と魔族はわかり合うことも、共存することもできない
ということを極限状況を設定することで示したとも読めるし、

他者と交流する際の
理解と共感か/拒絶と殲滅
という二項対立以外の第3の選択肢
相手の利害を理解した上で対処する
という視点を導入したとも解釈できる。

ただし、現状、大多数の魔族の目的は人間の殺害と捕食にあるようなので、
それを踏まえての利害調整や対処というと、
生贄を出して大人しくしてもらうか
一定頻度の人間の殺戮を保障した上での傭兵
くらいしか思いつかない。
どちらも、人間陣営の価値観からすると悪とされる行為に手を染めざるを得ない。

これでは、ゲナウ編で描かれた、魔族と戦う一級魔法使いの言動は魔族じみて来るという表現と大差ない。

(更に追記すれば、相手の内面に一切興味を示さず、ただ行動パターンを理解し、コントロールしようとするという方針は普段魔族が人間を捕食する際にとっている方針そのものである。結局、マハトは、相手の内面を理解しようという人間的な方針をとって、結局果たせず、最後は魔族らしい最後を迎え、グリュックは、魔族的な方針を持ってマハトと付き合い、最終的に生き残り、最後に人間的な呟きをマハトが消えた虚空に漏らしたのだ)

結局、マハト編の解釈は、フリーレンの完結を待って再度なされるべきものなのだろう。

さて、本原稿執筆現在、フリーレンは影の戦士編とでもいうべきエピソードが進行中である。マハト編が、理解も共感も不可能な魔族に対して、ギリギリ限界までの理解と共感の可能性を探ろうとしたのに対し、本編は、本来味方陣営にあると思われてきた人間を敵として配置することで、理解と共感の対象であると思われてきた人間が、その限りでなくなるギリギリの可能性に迫ると思われる。

さらに、その先には、魂の眠る地、その手前には魔王城がある。そこで魔王関係者との遭遇、魔王とヒンメルとの戦いの追想がなされるのだろう。

現在わかっている、魔王が誰よりも人間を理解し、共存することをのぞみ、結果、最も人類を死なせた魔族であるという情報から、マハト編で提示された命題を更に深化させるエピソードとなることが予想される。

結局、葬送のフリーレンとは、
勇者ヒンメル:理解と共感の対象

魔族:拒絶と殲滅の対象
のエピソードを交互に配置しながら、
私たちが他者に対してどのようにコミニケーションをとるべきであるかについて語る物語であると思われる。

フリーレンの今後の旅の行く末に注目していきたい。

#フリーレン
#葬送のフリーレン

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