【#2】僕はまだ夢を見ていたい/エッセイ
9月18日
僕のこの倦怠感は何と形容したらいいのであろうか。
中学二年生のとき、週に1~2回学校へ行けば机に突っ伏してずっと寝たフリをして授業をやり過ごしていた。
既に内申点はボロボロであったし、僕の髪は茶色かったし、それでも金八先生を観て育った世代の熱血教師達が毎朝のように何度も電話を掛けてきてしつこいので、成人男性が飲む量の内科の薬を飲んで過敏性腸症候群の症状をほんの少し抑えて無理矢理教室の自分の席に真っ青な顔をして座っていた。
誰にもバレないように机に突っ伏してひたすら耐えていた。
1年間ずっと僕はそうやって無気力な生徒を演じていた、本当に無気力だったのかもしれないけれど、今ではあの一瞬に過ぎた1年間のことは思い出せない僕だ。
唯、その頃感じていた倦怠感に似ている気がする、髪を茶色にしても体操服を腰パンしても給食の時間に登校しても毎日遅刻早退欠席をしていても、授業をサボっても、決してお酒も煙草もやらずヤンキーと話すこともなく、かと云って一匹狼というわけでもなく浅く広い人間関係を築いていた。
漠然と、居場所はここじゃないと感じながら。
僕は本当なら病気(内科的・精神科的な)の治療の為に学校を完全に休んで、通信教育で勉強をするべきであった、中学校に診断書を提出して友人の協力を借りて授業のノートを写したり、提出物をやって出せば、内申点もある程度貰えた筈だし、配慮もして貰えたと思う。
元々授業を受けなくても勉強は出来ていたから、通信教育を受けていたらもっと上を目指せた、病気が悪化することも無かったと思うし、大学へも行けたと思う。
そう云う正解を当時の僕は愚かで知らなくて選択出来なかった。
唯、今選んでいるものが正解ではないことだけは判っていた。
だから当時から僕はいつも自分が間違っているのではないかという恐怖にビクビクしている、今まで散々間違いの方を選んで来てしまったから。
話がそれたけれど、居場所がここじゃないと感じるときに出てくる倦怠感、モラトリアムの最中にいるときに沸いてくる感覚だろうか、そういうものが犇々と最近の僕に伸し掛る。
自分という人間をプロデュースするセンスへの限りない自信と、早く結果を出したいという焦りが僕の中でとぐろを巻いている、僕はこんなところに居るべきじゃない人間だ、もっと輝ける場所がある筈だという絶対的な確信と、現実の自分の立ち位置とのギャップの凄まじさに僕はずっと耐えている。
中学二年生の自分に在った正解のように、今の僕にも正解があるような気がする。
それはきっと、作業所に行って働きながら障害者として生きていくこと、創作は趣味の範囲でやることだと思う、そして身の丈に合った生活をして貯金を貯めて一人暮らしをすること。
それが今の僕の正解だと思う。
それでも正解に抗おうと必死に頑張っている僕を、粉骨砕身、骨身を削ってまで毎日唯直向きにチャレンジと失敗を繰り返しながら作品を作っている僕を、創作活動の為に生きている僕を、愚かだなと嘲笑してください。
その道は間違っているよと言って否定してください、自分でも判っているから。
どっちを選んでももう片方の道を選んで於けばよかったという後悔は残る、それなら僕は諦めて後悔するよりも、諦めずに後悔する方を選びたい。
でも後悔はしたくないから、この道を選んで良かったと思えるような結果を出せたら、創作活動をやり切れたら、それは僕にとってとても仕合わせなことだと思う。
ごめんなさい、僕はまだ夢を見ていたい。
現実と戦うしか争うしか、ない。
黙らせないと不可ない。
不可ない。
今まで、本当に何もしていなくて、やっと惰性では無くて本意気で読書や創作活動をし始めたのが今年の4月からで、だからまだ5ヶ月半だからもう少し僕に時間をください。
4月までは唯消費だけを繰り返していたから、生産的なことを真面目にするの、本当に高校の部活以来なんです。
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