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20161012

理由のない気分の塞ぎの理由を考えて気分が塞ぐ。何にでも理由を欲しがるのが弱く悲しきヒトのサガ、とかいう常套句に乗っかったみたいだけど、多分生理前だからじゃないかな、と至極乱暴に子宮のせいにしてみる。いつも子宮は悪者である。女は子宮でモノを考える、という言葉があるが、アレは極端な物言いが逆にギャグ、みたいなものなのだろうと思っていたけれど案外その言説を真とする人は多いみたいで驚く。私は周りとおんなじ様に出来ないくせに周りの目を極端に気にするタチなので、もしかして自分はわかった風な物言いで実は人間のことについて何もわかっていないのではみたいな気分になってくる。子宮すなわち本能、みたいな意味なのだろうけれど、子宮があるイコール女、という物言いが苦手な私は、摘出とか発育不良とかインターセックスとか人間の体も人生もいろいろあるからそういう極端な物言いは常に真である命題では無いよなあ、なんて思考を巡らせてしまってめんどうくさいので何も考えたくない。何の反駁にもなっていない。こういうまったく要領を得ないことを気づけばモヤッと考えている。そういうのを何かにつけて人にぶつけまくっていた際、申し訳なくも標的となって頂いた或る人から、そういうこと考えちゃうのがそもそも女臭いよね、みたいなことを言われたことを思い出す。確かに自らの性についてセンシティブであるが故にこういうことでモヤッとするのかもしれないけれどそれは私が女だからというよりは私が私だからなのであって短絡的な一般化しないで欲しい!と肥大した自己意識でひとり部屋で喚いたのだった。

ふらっと立ち寄った本屋で買った小説では流産について語られていて、一気に読みきってしまう。毎月生理があるということは毎月卵子を流しているということなので流産しているも同じなんじゃないかなあ、と、小学生くらいの時からずっと考えている。卵子や精子は「いのち」ではないのか?受精した途端にいのちになるのか?いのちの息吹、という言葉がある。感覚的なものなのだけれど、呼吸があればいのちがある、というのは個人的にはなんとなくしっくりくる。仮に呼吸をし始めたらいのちだとして、受精卵はいつから呼吸を始めるのだろう。私の体内で、いつか卵子が体外から侵入してきた精子と邂逅し、発生し、次第に人間の形となって、自ら呼吸し、生命を維持し、認識の一主体として世界を眼差し、自分という意識を持つ時のことを考える。私は自らの卵子の発生形たる他者に名前をつけるのだろう。自分が、自分ではない人間の名を選ぶ役目を担う可能性があるのだということを考える。私だって私の預かり知らぬ所でこの姓名を与えられ、この姓名でありこの私として世界に投げ込まれていたのであった。人間は自分を表す最も代表的な記号を自分で決められないのだ。

姓名の自己決定権という言葉はとても現代的な思想だと思う。自認の性と違和のある名前を変えたいセクシャルマイノリティ、キラキラネームに苦しむ人々、夫婦別姓推奨者、己の納得の行く記号を携えて己らしく生きたい人々、様々な理由で人々は姓名を己の望む形に変えたいという想いを抱く。私は特段今の与えられた名前に愛着はなく、むしろ自身の名前がすなわち自身を示すものだという意識が薄い。単純に、皆が呼ぶから、私はその名を受け入れているのである。この場所でこの環境でこの遺伝子で己が生まれる事、全て選べない。配られたカードで戦うしかないけれど、所詮姓名は遺伝子などとは異なって人為的な設定であり、いわばただのラベルなのだから、己で選べるのなら越したことはなかろう。自らというものを大切にしすぎると我執になるけれど、生き抜く上で頼るべき自己を確立することは必要である。己が生きやすく生きるための装備としての名の変更。制度上いつか自身の子に名付けねばならない時がきたとしても、子が名を変えたいと相談してきたら、いいよ、お前の人生だ、と言う、他ない。もちろん事後報告でも構わない。頂いたものとしてその姓名をありがたく思い、姓名と自己との違和も感じないのならば、それを使い続ければいい。ちなみに私のハンドルネームの由来は、何ものにもとらわれのない水という存在への憧れと、そうした水の中でやすやすと泳ぐ魚への憧れ、理想を表したものであるが、呼び名にはこだわらないのでなんとでもお好きな記号で呼んで頂いて構わない。

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