見出し画像

20160919

http://www.dialoginthedark.com/

同僚と共にダイアログ・イン・ザ・ダークに参加してきた。ダイアログ・イン・ザ・ダークとは、ドイツの哲学博士の発案による、「暗闇のソーシャルエンターテイメント」である。内容としては、視覚障害を持つ方にアテンドされながら、白杖を使いながら、見知らぬ方々と複数人のグループを組み、共に暗闇で活動する、というような試みである。

このソーシャルエンターテイメントは、季節ごとに趣向を変える。この秋は「見るということ」というテーマから、暗闇の中の美術館での芸術鑑賞となっていた。

まず、薄暗い部屋で、アテンドと対面した。説明を聞き、白杖を選び、そして、いよいよ、暗闇に入った。暗闇の中で、その部屋が小さく狭いことがわかった。その部屋の中で、姿の見えない見知らぬ人々と、互いの呼び名を確認し合い、アテンドの声に従って移動を始めた。恐る恐る足を進める闇で、トンネルがあると伝えられた。前を歩く人に手を取られながら、そのトンネルのありかを手伝いに確認し、くぐった。トンネルの閉塞感が消えたことを感じ、頭を上げると、またそこが、先ほどの小さい部屋やトンネルに比べ、とても広い空間であるということがわかった。普段の我々の空間認知が、視覚のみによるものではないということを、こうして身を持って知った。

歩いていると、砂利、芝生、木の橋、絨毯など、足裏の心地の違いがよくわかった。橋の上では特に、そこが地面の上ではないということがわかるのが面白かった。ようやく美術館に足を踏み入れ、作品とされる額縁にふれる。額縁の中は空洞であった。空洞の中には毛羽立つ布の感触があり、また鳥の声、水の音、匂いなどを感じた。視覚以外の感覚を用いて我々は作品を鑑賞し、感じたことをめいめいに語り合いながら、その額縁の中の「絵画」にタイトルをつけた。

さらに進むと喫茶店があると告げられた。店に入り、我々は視覚障害の店員の案内によってテーブルに案内された。差し出されたメニュー表には、麻袋のコーヒー豆や缶の中の紅茶のティーパック、ビールの瓶やオレンジジュースや茶のペットボトルがあった。私はコーヒーをオーダーした。席を共にする、顔もわからぬ人々と、メニューの手触りや、テーブルやコップの形、コーヒー、紅茶、オレンジジュースの匂い、店員の動く気配や物音など、感じるもの全てについて語った。

最後、かすかな明かりの部屋で、歩いてきた暗闇の地図を作った。材料は手触りで選んだ。暗闇で感じたものを思い出しながら、その形を指先で模し、木の破片、糸、布をボンドで紙に貼り付けて、確かめるように丁寧に地図を作った。同じ場所を歩いてきたはずなのに、人によって感じたものは違った。そばにいても、触れていた場所、踏みしめた足元の差異が異なっていたりしたからだった。

暗闇の中は不安より、包まれた安心感が大きかった。何より、触れる人の肌がみな温かく、優しいのだった。手探りの先にある皮膚を確かめて、あなたは誰?と問うと、その人が名乗ってくれる。その人の名を繰り返し、そして自らも名乗る。すると、その人も私の名を繰り返してくれる。名前を呼びあうことが、互いがそこにあることの確認であり、承認である。暗闇では声を出さねば互いのありかがわからない。感じること、もの、小さなこともすべて声にして、己、他者、相互に、自身の存在を主張する。感じること全てが己を示す。そして、他者も同じことを感じていることを知る。互いに互いの感じたことに応え合い、通じあう。暗闇の中で我々は、初対面の面々であるはずなのに、感じることが多すぎて、伝えたいことが多すぎて、話題に事欠かなかった。暗闇でのコミュニケーションは、普段は見てわかったつもりになっている、自分が何を見ているかということを全身で感じ、それを表出することであり、また他者が全身で何を感じているのかを知ることであった。「見える」ことで、普段どれほどのものを私は見落としているのだろう、と思った。また、暗闇の中で、私は姿形を失うことで、心身ともに、窮屈な鎧を脱いだような心地があった。私は私の姿、顔に、閉じ込められていたのかもしれない。窮屈な肉体を持たない、世界とつながる知覚的主体としての己を見出したような身軽さであった。

暗闇の部屋から放り出される時、私は再び自らの姿が他者に晒されることに不安を感じた。暗闇がとても名残惜しかった。明るさの下で、暗闇をともに歩いた人の姿が現れた。もったいない、と思った。暗闇では皆、渾名を名乗っていて、プライベートな話などは全くする必要がなかった。私は暗闇の中で、とある哲学者の名前を名乗っていた。明るみの下、猫兎柄の派手なスカートをはいた26歳の女として他者に認識をされる中で、哲学者の名を称するのは恥ずかしかった。暗闇だからこそ名乗れる名だったな、と思うと同時に、この恥ずかしさの正体は、やはり己の姿が晒されていることによる囚われなのかなあと思った。皆と互いの姿と名前の答え合わせをしながら、哲学者を名乗った者が私だと分かると、イメージと違う、と面白がる人がいた。暗闇で彼女の手に触れた時、柔らかい皮膚の人だな、と思った人だった。明るみに出てしまった今、もう私は決してこの人の皮膚に触れることはないのだな、と思った。綺麗な人だった。

暗闇では必要のない、顔や姿形という記号は、私の身体について何も私に教えてくれない。輪郭の決して現れない暗闇においては、己の身体性について、一挙手一投足すべてを敏感に生々しく感じたというのに。私は普段、他者に自身の姿を晒しながら、己の身体と感受性をどれほどおざなりにしているのだろう。今、目を閉じても、どうしても光がまぶたを透けてくる。愛おしく優しい、大いなる母の胎内のような暗闇に、また包まれにゆきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?