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人生は適当に生きようと思えばいくらでも適当に生きられる

タイトルの言葉からいろいろ考え始め、眠れなくなってしまったので書いています。

私は今、適当に生きていないだろうか? いや、適当に生きているな、と。
「死ぬまで消化試合」とはじめて思ったのはいつだっただろう。思い出せない。
今はその時の感覚とは違うけど、真剣に生きているかと言われたらそうじゃない。

高校生くらいから手を抜くことを覚えた。今思えば、良くない手の抜き方。
自分の人生をよくするため、自分のために手を抜くべきところは抜く、のではなく、全部を真剣にやることは無理なので、じゃあ諦める、ような手の抜き方。
そうすると自分の人生がどんどんどうでも良くなって陳腐なものに思えてきて、自分のこともどうでもいい存在な気がしてきちゃうんだよね。
それまでも、自分の(?)理想通りに頑張るけど上手くいかなかった時、ひどく落ち込みしんどすぎ…を繰り返していた。
こんなに辛いなら、頑張らない方がラクじゃない?と思って、手を抜いた。
手の抜き方も間違っていたけど、頑張り方も間違えていた。

こうあるべき!!が、とてつもなく強くて、それ以外は許されない!という価値観。今は少しずつ柔軟になってきたかも。


タイトルの言葉に戻ります。
シンプルに適当に生きたくないなと思ったので、ではどうするか?という話なんですが、ざっくりいうと 変な我慢をしない なのかなー。
他人からの目線や自分の中の世間の声は無視する。
こうなれたら素敵だな、をコツコツ積み重ねる。

プレッシャーは、自分でかけちゃっているものだと思うけど、他の人はこうなんじゃないか?という思いから生まれる気もしていて、ひとりひとりオリジナルなものなんだから、同じなわけはないでしょう、と。
人がやるより自分がやった方がうまくいくと思ってやれたらいいね。

私は恥の気持ちがすごく強くて、すぐ態度に出てしまうのですが、正直ダサいので常に安定していたいな。自分の存在は何かによって揺るがされるものではない。
スーパーで知らんおばさんにどけって感じでやられたんですけど、なんやあのオバハンって思えた。成長を感じた。今までなら100%自分が悪いと思ってました。
なぜ気持ちが変化したかですが、周りの人の存在はかなり大きいと思う。一番近くにいる人が自分を受け入れて肯定してくれるか、情緒が安定しているかは特に重要。一番近くにいる人に否定されたり受け入れてもらえなかったら、誰だって自分がおかしいのかな?と思うと思う。普通の感性なら。そのベースが育った上でなら、分別はつくと思うけれど。

だから夫とその家族にはとてもとても感謝しています。
取り急ぎ、書き留めておきたいことは書けた気がするので終わります。



Thanks!