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最初で最後に父が教えてくれたもの。

毎年、5/19日の親父の命日には、本当に多くの人が僕宛てにメッセージを届けてくれます。

親父の命日に僕ほど多くの方からメッセージを寄せられる人はそう多くないんじゃないかな。

ちなみに今回noteを書こうと思ったのは、FiNCに一番最初のラウンドで投資をしてくれたエンジェル投資家でもあり、公私ともにお世話になってる大先輩の千葉さんからいただいたメッセージがきっかけです。

僕が勝手に語るのは憚られますが、千葉さんはまるで業を背負うかのような壮絶な家庭環境を生きてきた方です。つい先日、僕の投稿がきっかけで意を決して久方ぶりにお父さんにお会いになられたそうです。その時の写真やメッセージが送られてきたのですが、なんだかとても嬉しくて。

千葉さんの他にも、この数日間だけでも本当に多くの方からメッセージを寄せられました。その中には、耳を覆いたくなるような、返す言葉に詰まる過去を教えてくれた友人や先輩もいました。

そうした複雑な家庭環境の方や、身近に「どうしても許せない人」がいる人に届いてほしい、そして自分のために、最後に自身の感情に蓋をしたいと思い文章を書きました。多分、今年最後のnoteになると思います。

さて、メッセージが届くようになったきっかけは3年前に感情のままfacebookに書き綴った文章です。

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親父の訃報が届いた。3歳の時に離婚した親父。

親父の情報で知っているのは、孤児院育ちで両親含めて親族がいないこと。ろくでもない男であったこと(母曰く)。借金を残して離婚したこと、だけ。

親父とは、中学の時に「プレステを買ってやる」という餌にまんまと引っかかって、迷った挙句に会ったけどその時の記憶しかない。

待ち合わせの場所に30分待っててもこなくて、帰ろうかと思った時に、遠くからいかついグラサンをしたおっさんが近づいてくるものだから「あれだけは勘弁してくれ…」と天に祈ったけれど、その祈りは届かなかった。

最初に発した言葉が「おまえ勇児だろ?高いふぐを食わしてやるからついてこい」

しこたまふぐを食ってやったら、会計時に「プレステ買う金なくなった。わりぃ」と言われて。帰りがけに「おまえは大物になる。強く生きろ」そう言われていなくなった。一挙手一投足すべてが豪快な男だった。

親父とはそれ以来会ってない。

それ以降も会いたいと思ったことはないし、もし死んでもたいして悲しくないだろうなって。

事実、7年前に「息子に会いたがっている。片目を失明してショックを受けているそう」という知らせを聞いた時も、心は大きくは揺れなかった。

かわいそうだなと少なからず思った一方で、当時の自分には人を気遣えるような余裕もなく、その知らせをただ放置した。「おれって薄情なんだな」と思う感情と、当時の置かれている有事を乗り越えないといけないという焦りと、これまでの不遇な日々の多くを親父のせいにしてしまう自分の感情とがぶつかって、悶々とした感情がずっと消えなかったのを鮮明に覚えている。

案の定、今日、訃報の知らせを聞いた時も、そう大きく感情は揺れなかった。たんたんと仕事をした。

ただ、役所から届いた封書を見てそれに変化が生まれてきた。

その封書には以下のように書かれていた。

福祉事務所の◯◯と申します。生活困窮のため当福祉事務所にて生活保護を受給中だった◯◯様が先月の5/19日にお亡くなりになられました。

つきましては◯◯様の死亡届を提出するにあたって、二等親内の親族の方々に届け出をしていただけるかどうかご回答ください。届出人をしていただける場合はできるだけ早急に下記担当者までお電話にその旨をご連絡ください。
届出人をする者がいない場合は福祉事務所長名で届出をすることになりますが、親族が届出人をしないことで何かしらの不都合が発生するわけではありません。

何とも形式的な文章だ。

福祉事務所の担当者に電話をした。死因を聞くと「個人情報の関係で教えられない」の一辺倒だった。頭にきて怒鳴りつけると、死因を教えてくれた。死因を聞いて、個人情報の問題以上に、その方なりの僕に対しての配慮であることがわかった。

電話で発覚した事実として、僕には腹違いの妹がいるそうだ。「妹さんからも昨日ご連絡がありました」という言葉を掛けられてそれが発覚した。

あまりに多くのことが重なり、電話を切った後に、なんとも言葉では言い表しようもない感情がこみ上げてきた。

実は生前、親父からは会社に何度か電話がきていた。僕は直接的には話すのは避けたのだけれど社員が対応してくれて。不遇な思いをさせてしまったことをお詫びがしたかったみたいで。

中学三年の頃に突如として姿を消した母と、それから数年して再び、彼氏を選んで僕の前から消えた母。19歳で望まずに僕を身ごもって、そこから誰も頼る人はいない中で、朝はバイトをし、夜は水商売をして懸命に働き、女手一つで育ててもらった。いろんなことがありすぎて、当時は母の全てが許せなかったけれど、大人になってその思いは少しずつ変わってきている。

何年もの時を経て顔を合わせた母。父と母から共通して伝わってくる感情は、「なんとかお詫びをしたい」、「挽回したい」といったもの。

これまでのことを、親としての役割を担えなかったことを反省しているのだろう。二人の感情を満たしてあげようとする優しさを僕が備えていればよかったのだけど。

「おれが必要としてる時に手を差しのべてくれなかったのに。自分で生きていける様になった今、手を差しのべられても面倒なだけ」

そんな感情が邪魔して、どうしてもそれを受け入れられなくて。

しかし世の中は不条理だ。

僕は生まれながらの悪党なんて存在しないと思ってる。親父は決して真っ当な人間ではなかった。けれど、それは世の中の不条理のせいによるところが大きいのではないか。

高校生の時に図らずも飛び込んだフィットネスやヘルスケアの仕事がなければ僕は親父と同じようになっていたかもしれない。

僕はこの仕事に出会ったお陰で、この仕事を通じて得た仲間、先輩達のお陰で今がある。

ただ、親父にはそれがなかった。

いったい親父の人生ってなんだったのだろう。

両親に捨てられ、親戚もおらず、身寄りもなく、片目を失い、そして虚しい死を選び、誰にも看取られずに火葬されて。

職員に聞くところによると、長きにわたって生活保護を受給していたそうだ。

僕が一度でも会ってさえあげていれば、きっとこうはなってはいかなかっただろう。

同時に周りの仲間の姿を見て、一緒に悲しみ、泣いてくれている共同代表の小泉や乗松の姿を見て、「骨を拾いにいこう。3人で線香をあげにいくぞ」という二人の言葉を受けて、嬉しいとか、悲しいとか、ホッとしたとか、そんな感情ではなくて、あまりに周囲に恵まれすぎている自分と、親父の最後とを比べると、えも言われぬ感情が込み上げてきた。

世の中は不条理だ。

最近は恵まれすぎている環境に身を置いていたせいか、こうした感情をすっかり忘れている自分がいた。

この世界を100人の村で例えると、村民の20人は食べ物を捨てて、かつ肥満者であり、20人はそこそこ食べられていて、30人は十分な食事をとる事ができず、残り30人は飢餓で死にかけている、といったのが今だ。

そんな状況下で、例えば今日まで満たされてきた、恵まれてきたから大きな富や名誉を得てきた人たちが、自分が長生きしたいがためにそこに研究資金を投下するなんて、自分本位すぎやしないかと思ってしまう。

移動中スマホをいじっている時も、ミーティング中も、仕事をしている時も、そんな事ばかり考えていた。

何か別のことをしながら忙しくしている時はそこまで悲しくなかったのに、社内の個室で一人になった瞬間に突然、涙が止まらなくなった。

親父を亡くして後悔に苛まれている自分に酔っているのか。

会いたいと思ったことはないし、もし死んでもたいして悲しくないだろうなって思った親父が死んだ。結果として、こんなに涙が出てくる自分は想像できなかった。ただ、なんだか悲しいとか、それだけじゃなくて、いろいろ複雑な感情が重なったからなんだと思う。

今、少し心が整理ができたのもあって、会社でこの文章を打っている。何度も何度もディスプレイがまともに見えなくなる。「おれは昔から自分のこういう自己憐憫的なところが嫌いなんだよ。でも、そこはもうとっくに越えたと思ってたはずなのになんで?なんで? いい年して、たいした思い出もない親父を亡くして涙を流すなんてかっこ悪くない?」自分でも驚くくらいいろんな言葉や感情が湧き上がってくる。周りには何人かこんな時間まで頑張ってくれている仲間がいる。いつもと変わらない普通の時間が流れていることもあって、自分の感情が普通の状態に少しずつ戻りつつある。

自分でも驚くくらいいろんな言葉が湧き上がってくる。周りには何人かこんな時間まで頑張ってくれている仲間がいる。いつもと変わらない普通の時間が流れていることもあって、自分の感情が普通の状態に少しずつ戻りつつある。

ただ、だからこそこの文章を今書かないといけないと思っている。そんな衝動に駆られている。

世の中から不条理をなくしたい。

僕は世界を変えたい。力を得たら、いつかは市場原理が働かないところにメスをいれたい。何があっても、何度倒れても、必ず立ち上がる。

今日の思いが風化しないように、決意として、今、ここに綴る。

こんなポエムを見返したら怖くてボタンを押せないから、勢いに任せてそのまま投稿する。

ただ、安心してください、元気だから。

親父、さようなら

最初で最後に父が教えてくれたこと

友人及びFiNCの役員の誕生日が親父の命日なこと、毎年Facebookの過去のこの投稿にコメントをしてくださる方が複数いてそこから怒涛のようにメッセージを皆が寄せてくださるので、この時期は必ずといっていいほど少しの思い出しかない親父のことを思い出します。

ただ、この3年間における自分の中での変化はとても大きかったように思います。特に変わったことは身近な存在に対しての捉え方です。

その変化のきっかけはやはり親父の死と、そして親父が残した遺言による影響が大きいです。

勇児に伝えたい事がある、俺の父親は姉妹父と並んだ三人兄弟の長男で、○○○○だ、長女は一代で○○○○会社を築いた大社長だ、いまだ大阪に存在する、今は誰がやつているか分からない、俺に父親がいつしよの兄貴が居るらしい、勇児は只の馬の骨の子供ではない溝口家も○○家も○○○○の家系だよ、大阪の○○市に○○家の墓はある。俺の子供は良くても悪くても先代の血をひいている、勇児が立派な男になるにつれ、俺は心配になるし嬉しくもある事を、俺は勇児には合わないつもりでいる。

勇児の為に1つだけ言える事がある、父と母は別れてしまつたがお前は本当に愛し合つた二人から生まれてきた。

只俺が運命に振り回されただけだよ、俺の弱さがそうさせた、無責任な只の馬鹿親父だよ

親父は死を通じて僕に多くを与えてくれました。

その最たるものは、親父の死後、長い間、心のどこかで許しがたかった母に対してのわだかまりが溶けていってることです。先月、初めて母に誕生日プレゼントを送り、また先日、久方ぶりに食事に行きました。(親父が最後に残してくれたプレゼントだったりして)

もう一つ親父の死から得た大きなものは、「許す」ことの大切さです。僕がここで指している許す対象というのは、「自分以外の誰か」ではなく「自分自身」です。

許すことは、自分を傷つける過去と決別するために、最後に蓋をすることです。

もちろん、急に気持ちを切り替えて自分や相手を許すことは難しいのかもしれません。本気で向き合っていたり、根が深い過去であるほど簡単ではありません。

許すためには強さと時間が必要です。

僕の親父は生前、僕にも、母にも、義理の妹やその母からも許されることはありませんでした。親に捨てられて孤児院で育ち、最後は生活保護を受けながら、一人寂しく死んだ親父。孤独な人生だっただろうなと、どうしても考えてしまいます。僕は、失明をして会いたがっている、生活保護で困窮している、という知らせや会社に掛かってきた電話を度々放置したことをこれから一生引きづっていくのだと思います。

自分以外の誰かを許すことができていない人は、自分自身のためにも、あらゆる感情を手放し、自分や相手を許す努力をしてみてください。人生は長いです。余計な重荷を抱えすぎて良いことはありませんから。


最後に

父親や母親として、二人に点数をつけるなら、ひいき目で見て100点満点で10点くらいかな。

けど、もしまた生まれ変わっても、おれは二人の子どもでいいと思ってたりしてる。

産んでくれてありがとう。


拙文にお付き合いしてくださった皆様の中に、親孝行ができていない人や、ずっと心にシコリを抱えている相手がいるならば、1日も早く行動を起こしてください。それは、相手のためだけではなく、必ず自分のためになりますから。


追伸 : 5/21の今日は栗城君の命日でもあります。栗城君の分まで我々は懸命に生きないと。



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