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けむにまく

「臭いからちゃんと換気してよ」
 妻があくびを噛み殺しながらこちらを軽く睨む。
「ん。おはよう」
 言われなくても窓は開けているし、空気清浄機だってフル稼働している。それでもやはり煙の匂いというのは強烈だ。僕はもうすっかり慣れてしまって、むしろこの匂いがしないと心が落ち着かないくらいなのだけれど。それに、いちおう匂いが少ないやつを選んでるんだけど。
 頭をかきながら部屋に戻ると、デスクに置きっぱなしにしていたライターを引き出しにしまう。子供の手が届くところにライターを置いていると妻に怒られるからだ。最近のライターはもうチャイルドレジスタンス機能が標準搭載で子どもの力では火がつけられないのだが、むろん用心に越したことはない。
 2024年、5月。
 やっと花粉が落ち着いてくれたので、半開きだった窓を全開にする。初夏と言っていいような生ぬるい空気が部屋に入ってくる。



 僕がはじめてタバコを吸ったのは、大学一年生のときだ。きっかけは話すのも恥ずかしいくらいありがちだけれど、喫煙者の格好良い先輩がいたのと、失恋だ。
 少しだけテンプレから外れたことがあるとすれば、僕は手品のサークルに入っていて、タバコを使った手品をやりたかったというのも理由のひとつだった。実はタバコを使った手品というのは一大ジャンルだ。タバコは火がついているので、手品で消したりしたときのインパクトが他の道具とは段違い。煙をふっと吐きかけて手に握ったタバコが消えるという手品がお気に入りで、大学生のころは事あるごとに披露していた。
 ギリギリ昭和の最後に生まれた僕には「昔は電車の中でタバコが吸えた」なんていう話を聞いても想像が難しいけれど、それでも僕が大学生のころはまだまだタバコにはそれなりの市民権があったように思う。
 大学内には当たり前のようにタバコの自販機があったし、そこかしこに喫煙所があった。タバコが吸えない居酒屋なんていうものは存在しなかった。体感的に喫煙者の割合は半分くらいで、飲み会では誰かしら喫煙者がいた。

 朝6時。
 我が家で一番最初に起きるのは僕だ。
 起きたら歯を磨いて、常温の水を飲む。腸が弱いので、夏場でもあまり冷たいものは摂取しない。
 体重を測ったら、自分の部屋に行く。
 パソコンをつけるとdアニメストアを開いて、アニメをひとつ見るのが日課だ。最近のお気に入りはガールズバンドクライ。バンドアニメはたくさん見てきたがかつてなくロックな感じがすごく良い。高校生の時に友達とやっていたバンドを思い出す。軽音部に所属するでもなく、UKロックこそ至高とか言いながらOasisのコピバンでベースをやっていた。受験勉強が始まるにつれて、なんとなく解散してしまった。そういえば当時使っていたベースは引っ越しのたびに持ち運んでいたが、もう何年も弾いていなかったこともあり昨年ついに捨ててしまった。
 マウスを動かして動画の再生ボタンを押すと、デスクの横においてある箱に手を伸ばす。同時に引き出しからライターを取り出すとそいつに火をつける。

 大学時代、僕はサークル棟から一番近い自動販売機で売っているというだけの理由で、マルボロのアイスミントという強めのメンソールを吸っていた。メンソールは女子が吸うものだ、みたいな感覚もなかったし、なによりリフレッシュのためにタバコを吸っているのだからメンソールは必須だった。メンソールじゃないタバコも何度か吸ったことがあるが、美味しいと思ったことはない。
 タバコにまつわる思い出といえば、NANAにハマってBlack Stoneを吸っていた時期があった。当時喫煙者だった大学生はみんな一度くらい試したんじゃないだろうか。Black Stoneは普通のタバコ屋には売っていなくて、渋谷駅前の地下街にあるタバコ専門店で買っていた気がする。NANAのヤスが吸っていたのはBlack Stoneのチェリー味で、タバコなのに甘い匂いがするという変なやつだった。タバコと言うよりは葉巻で、肺に吸い込まないぶん体にいいのかもなぁ、とか思っていた。
 タバコで漫画といえば、BLACK LAGOONも忘れられない。ロックとレヴィがシガーキスをするシーンが好きすぎて、よく酔っ払っては友達とやっていた。男同士だけど。あんなに登場人物が全員常にタバコ吸ってる漫画も最近じゃあまり見ないな。いつの間にか加熱式たばこが主流になっているけど、あれじゃシガーキスはできない。あの名シーンが生まれる時代に生きていてよかったと思う。

 6時20分。
 だいたい火が消えると、ダイソーで買った大きめの灰皿にそいつを投げ入れる。灰皿という名の金属製の立方体は8割がた埋まっていて、慎重に開け閉めしないと灰が飛び散る。本当はこまめに中身を捨てたほうがいいのだろうけど、なんとなく億劫でいつもギリギリになるまで放っておいてしまう。とうに火は消えているのだけど、何かのきっかけで発火したらと思うと捨てるのにも気を使う。マンションで火事でも起こした日には、取り返しが付かない。
 マウスを動かして動画のシークバーをチェックする。まだAパートが終わったばかりなのを確認すると、またそいつに火をつける。そういえばガールズバンドクライの登場人物は時代が時代なら全員喫煙者だったろう。昔はバンドやってるやつなんて全員喫煙者だった。大学1年生のときに半年だけ入っていたバンドサークルは部室がタバコの煙でひどいことになっていたのを覚えている。そういえばNANAもバンドの話だった。
 アニメが終わると灰皿を片付け、ライターを引き出しにしまう。昔使っていたZIPPOはどこかにいってしまったので、今使っているライターはダイソーで3個100円で売っている安物だ。ZIPPOをくるくる回して火をつける技を練習していたころがあったのを思い出す。あの頃はタバコにまつわる全てが格好をつけるための要素だった。
 時刻は6時半すぎ。家族を起こすまでまだ30分ほどある。軽くストレッチでもしようか。

「俺、禁煙のプロだからさ。もう何十回もやってる」
 かつてよく言っていた持ちネタである。あるあるなやつだと思うけど。
 禁煙法と呼ばれるものはあらかた試した。禁煙パイポ。ニコレッド。根性。
 一番効果があったのは意外にも本だった。禁煙セラピー。
 僕は物語がない本があまり好きではない。ビジネス書や自己啓発書の殆どはA4一枚にまとめられそうな内容を繰り返し書いているだけで、冗長さに嫌気が刺すことが多い。しかし、こと禁煙というテーマに関して言えばこの繰り返しというのが「効く」のだ。タバコは百害あって一理なしだよ、ということを何十回も繰り返すだけの本だが、読んでいるうちに脳裏に薄く薄くタバコは害悪だという考えが刻まれていく。実際に初めて一ヶ月以上禁煙できた方法は禁煙セラピーの本だった。
 禁煙を失敗してしまう理由の9割は酒だろう。喫煙者でない人のために補足すると、タバコと酒はピザとコーラくらい相性がいい。アルコールの影響で判断力が低下した脳に、タバコの誘惑がスッと入ってくる。最近は屋内で喫煙できる居酒屋が少なくなっているが、昔は酒を飲む環境では周囲に喫煙者が必ずいたのも大きかった。
 一本ちょーだい。禁煙はいつもそうやって唐突に終わりを告げるものだ。

 午前6時50分。ストレッチを終えるとスマホを弄りながらコーヒーを飲む。
 コーヒーはカフェインレスだ。20代のころは1日中ふつうのコーヒーを飲む生活を送っていたが、いつからか体がカフェインを受け付けなくなってしまった。コーヒーを飲むと交感神経が暴走して、動悸がするのだ。カフェインの離脱症状はとてもつらく、ひどい頭痛と倦怠感で数日間はまったく仕事が手につかなかったのを覚えている。それだけカフェインに依存していたということだろう。それでも、コーヒーの香りが忘れられずAmazonで適当なカフェインレスコーヒーを箱買いして常にストックしている。最近はカフェインレスコーヒーをおいているカフェも増えてきて助かっている。ちなみに今これを書いているジョナサンは、ファミレスでは珍しくドリンクバーにカフェインレスコーヒーがあるのでお気に入りだ。
 そういえばカフェインだけではなく、酒もやめて数年経つ。これも20代のころはそれこそ毎日浴びるように飲んでいたが、コロナ禍で飲み会がなくなったのをきっかけになんとなく飲まずにいたら、飲めなくなってしまった。缶ビール半分でふらふらになってしまうようになったのだ。何かのついでに医者に相談したところ、アルコールには慣れがあって、しばらく飲まないでいるとリセットされるとのこと。また訓練すれば飲めるようになるらしいけれど。
 午前7時。コーヒーを飲み終えると家族を起こすために寝室に向かう。

 タバコの値段の6割は税金らしい。僕らは税金を吸っていたのだ。(税金を吸う、なんていうとなんだか悪徳政治家みたいだ)
 大学時代、増税する直前のタイミングで大学の周辺で売っている全てのマルボロアイスミントを買い占めた思い出がある。コンビニやタバコ屋を巡って、片っ端からカートンを買って回った。買い占めたカートンで研究室の机の上にピラミッドを作って遊んだりした。そうえいば、研究とタバコの相性もとてもよかった。喫煙者じゃないひとのために補足すると、ランニングとサンボマスターくらい相性がいい。一度でもタバコを吸っているときにアイデアが閃いてしまうと、それが成功体験としてシナプスに記録される。そうすると因果が逆転して、アイデアを得るためには喫煙が必要という結論に達する(そう、喫煙者は少しばかり頭が悪い)。
 ただ、机から離れて外に行って深呼吸をするという点にだけ注目すると、アイデアが生まれる習慣であることにはあまり驚きがないかもしれない。ただ、深呼吸をするときにわざわざニコチンを接種する必要はまったくないわけだけれど。
 昔は200円くらいで買えたタバコも、今では一箱600円くらいする。安めのラーメン一杯食べれる値段だ。その大半が税金なわけだから、空港の免税店でタバコが人気商品なのもよく分かる。

 たまに、僕が起こす前に子どもたちが起きてくることがある(妻が自力で起きてくることはまずない)。
 子どもたちはリビングに現れると、たいていソファーに倒れ込む。眠かったらまだ寝てていいのにと思いながら、朝の挨拶をすると、ストレッチを中断してまだ小さな娘のおむつを交換する。その後は今日見た夢の話や、朝ご飯何を食べたいか、息子の小学校の時間割の話なんかをしながら、自分はストレッチを再開する。最初はYouTubeを見ながらやっていたストレッチでも、数日続けるとそらでできるようになるものだ。
 子どもたちの顔を見ると、この子たちに副流煙を吸わせるわけにはいかないと思う。できれば大人になってもタバコを吸わないで欲しいとも思う。もっとも、彼らが大人になる十数年後にタバコを吸う文化が残っているかは甚だ疑問であるが。
 そこから1時間は慌ただしい。僕はパンを焼いたりりんごを剥いたりと簡単な朝食の準備をする。やっと起きた妻は洗濯物を片付け、娘の保育園と息子の小学校の連絡帳に記入する。ヒゲを剃って着替えをする。朝の日課で煙くなっているパジャマを洗濯機につっこみ、きれいなTシャツに袖を通す。冷え性なので、夏でも長い靴下を履くようにしている。通っている鍼灸の先生から、くるぶしの上の三陰交というツボまで靴下で温めると良いと教えてもらったのだ。気まぐれな子どもたちにあの手この手でご飯を食べさせ、着替えさせ、小学生の息子を送り出すと同時に娘を保育園まで送り届ける。
 午前8時半。全てを終えて家に戻る。

 僕が最後に禁煙したのがいつだったのか、正確には覚えていない。当時の僕は流行に乗ってiQOSを吸っていて、タールも1mgくらいの軽いやつだった。当時のiQOSはiPhoneくらいの大きさがあり、そのわりにバッテリーがすぐに切れる感じだったと思う。それでも、この加熱式たばこというの商品がかなり画期的な代物だったのは間違いない。当時勤務先が入っていた六本木ヒルズの喫煙所はiQOSを持ったサラリーマンで溢れていた。新しいもの好きが多そうな場所だった。
 それまで何十回も禁煙してきたわりに、最後の禁煙はそれほどつらくなかった。カフェインの離脱症状のほうが何倍もつらかった。それはひとつは当時吸っていたタバコが軽いものだったからかも知れないが、なにより目的がはっきりしていたからだとおもう。
 子供ができたのだ。
 妻の妊娠をきっかけに、自分でもびっくりするくらいサクッとタバコをやめた。
 それまでの禁煙は自分の健康のためというのが一番の理由だったが、それではどうしても辞めることのできなかったタバコをまだ会ったこともない子供のために辞められたのは、もはや生物的な本能ということなのかもしれない。
 禁煙して10年近く経つ。
 未だにタバコに変わるようなちょうどよい休憩方法に出会えていないが、もはやタバコを吸いたいと思うことは全く無い。

 午前8時30分
 娘を保育園に送り届けて家に帰ると、部屋に戻ってPCをつける。
 そう言えば今日はこのあと大事な予定がある。少し緊張をほぐしたい。
 僕はデスクの横にある箱から5円玉くらいのそれをいくつか取り出すと、裏面の剥離紙を剥がして、引き出しから出したライターで火をつける。
 緊張するときは郄門と労宮のツボがおすすめだって鍼灸院の先生が言っていた。
 火をつけたそれを左右のツボに貼り付けると、目を閉じる。
 もぐさが焼ける匂いが部屋に漂う。

 良い匂いなんだけどなぁ、と思いながら僕はまた窓を開ける。 









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