見出し画像

初節句

2022年最初の満月の日、
我が家にお雛様がやってきた。

父が亡くなって独り身となった母が
少しずつ日常の動作が緩くなり
怪我がきっかけで私の家に引き取ったのが
2020年のお正月。
実家は空き家となり、私の家に住民票を移して
地域の介護サービスを受けるようになった。

1年が過ぎて、2021年の3月。
突然母が実家の「処分」という言葉を口にした。
それまでも、「家に帰りたい」と
言うこともあったが
ひとりでは生活が成り立たないことと
そうなれば私が会社員を
辞めなければならないことは
理解できていたので、
それ以上は何もなかった。

突然の「処分」という言葉が
重く私ののしかかった。
 『実家へ戻れ
  戻るのは今』
こんな言葉が聞こえた。
引越ししなくちゃ・・・

気がついたら引越しの準備を始めていた。
日程と業者の選定。
処分・廃棄するものの準備。

実家は、主人を突然失った時のまま1年が過ぎ、
しかも5年前に父が亡くなった時から
ほとんど片付けが進んでいなかった。
老夫婦の生活がそのまま残っていて
新規住人の荷物は仮置きすらできないほど
モノがえふれていた。

不要な家具、食器や日用品を1箇所に集め
廃棄業者に処分を依頼。
予測を遥かにオーバーしてると
ブツブツ文句を言いながら
廃棄業者は満杯のトラックで帰って行った。

「私、引っ越す。実家に戻る」と決めてから
ちょうど1ヶ月後。
都心のマンションを引き払った。
2021年4月だった。

実家は私に容赦なかった。
全ての押入れは、使う当てのない布団に占拠され
私の荷物が入り込む余地なんてどこにもない。
流石に途方に暮れた。
涙がこぼれそうだった。
ホント、泣いていた。。

それからは、自治体のゴミ出しの
ルールブックを見ながら
せっせと不用品を処分する毎日が続いた。
生活の場所とリズムが大きく変化したことで
生活に必要なものも大きく変化した。
フリマ・アプリをフル活用してして
さまざまな生活用品を売って買った。

そんな時、たまたま目についたのが
雛人形だった。
こんなものまで出品されていることに
驚きつつ夢中になった。

我が家には子供の頃からお雛様はいなかった。
小さな建売住宅に両親、私と妹、と祖母の
5人住まいで
お雛様に明け渡せるスペースなど
あるはずがない。
当時の雛人形には、今のようなバラエティはなく
7段かせいぜい5段飾り。
親王飾りは子供のおもちゃ。
近所の友だちの中でも
お雛様がある家は少なかったが
たまに豪華な7段飾りが鎮座している家もあって
ただただ羨ましかった。
やっぱり女の子は憧れるものだ。
たとえ自分のものでなかったとしても
眺めているだけで優しい気持ちになれる。

お雛様に憧れた女の子も
だんだんと我が家の住宅事情、
金銭事情が理解できるようになり
諦められるようになって
雛人形から距離が置けるようになった。
しかし、憧れが消えたわけではない。
むしろ熟成されていた。。。

新品であれば、雛人形は
今でも遠い憧れの世界で留まっていたと思う。
それが、フリマの世界から突然
現実的な存在として
お雛様は私の目の前に現れた
子どもの頃、決して手の届かなかった
憧れのお雛様が。。。


そして、2022年最初の満月の日、
我が家にお雛様がやってきた。

初めて自分のものとなったお雛様。
生まれはずいぶん昔。
もしかしたら私と同い年かもしれない。
最初の持ち主が初節句で飾った後
きれいに箱にしまわれたまま、
ずっと眠っていた。
時は経っているが、
それはそれは丁寧に作られていて
優しげなお顔立ちに十二単が美しい。
伝統工芸のようなものは
職人が手間を惜しまずに
「いいもの」を探求していた
昔のものの方が美しいことがある。
そんな時代を経て私のもとに来てくれた
そのご縁には感謝しかない。

お雛様が到着した時、母に見せずに
自分の部屋にこっそり飾ろうかとも考えた。
そんなもの買って・・・と
言われるかと思ったからだった。
しかし、やっぱり嬉しかったので、
見せることにした。

母は驚いた。
本当にきれいだとしばらく眺めていた。
そして、言った言葉。
「うちにはお雛様はなかったのよ」
私になかっただけでなく、母にもなかったのだ。


母は日本統治時代の台湾、基隆で生まれている。
父親(私の祖父)が電力の整備・普及の仕事で
台湾に赴任中の時のことだ。
今でいうExpatsの、
かなりリッチな生活だったそうだ。
2人いた姉はそんな生活を満喫しつつ
勉学にも励んでいたらしい。

ところが戦況が徐々に変わり、
敗戦の色が濃厚になるにつれ
周囲からの風向きが変わっていった。
最後は日本丸で命からがら脱出して
九州に上陸。
そこから列車で故郷の新潟に戻った。

敗戦を7歳で迎えた母は、1番好奇心が強く
遊びも学びもどんどん吸収して
成長していく時間を
台湾からの引き上げと故郷までの移動と
食糧難で過ごすことになる。

母に言わせると、
姉たちは既に状況を理解できる年齢になっていて
学校での勉強も経験していたが
母は、そんな楽しい経験が始まる時に
最も厳しい試練を迎えてしまった。
しばらく勉強どころではなく
ようやく学校に行ける頃には、
自分が周囲から大きく遅れていることに気づき、
以降ずっと劣等感に悩まされ続けたらしい。
ここ1年以内に初めて聞いた話だった。

こんな幼少期だから、
母にもお雛様はいなかった。
私だけじゃなかったんだ。

母は、このお雛様を自分のベッドの近くに
置いて欲しいと私にせがんだ。
驚いた。

いやだ!これは私のお雛様だ!
私が憧れ続けて、
ようやく手に入れた私のお雛様だ!!
冗談じゃないぞ!!!

しかし、母が背負っているストーリーが
ふと浮かんで、気づいた。
「そうか、母にもお雛様はいなかったんだ」

結局,母にも見える場所に
お雛様を置くことにした。

譲って下さった方から
「初節句おめでとうございます」
というメッセージをいただいた。
そうだ、お雛様を考えるのは、
通常は女の子が生まれた時。
我が家の女児が初節句を迎えると
元の所有者さんは考えられたのだ。
まあそうだろう。それが普通だ。
でも、事情は人それぞれ。

我が家は、母と私の初節句。
お婆ちゃんとオバさんの初節句。
何歳だっていいじゃないか。

お雛様とお内裏様と桜橘で
譲っていただいたところに
緋毛氈と燭台と金屏風を合わせた。
我が家のお雛様、
ちょっとご年配女児の初節句に
優雅な彩りを添えてくれる。

やっぱり何歳になっても
女児はお雛様が嬉しいのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?