【タイ語小説翻訳】ลางสังหรณ์ 前触れ

序章


《ลางสังหรณ์(前触れ)とは、良いこと、あるいは悪いことが起きるかもしれないと信じさせるもののことである。》

タイの伝統衣装をまとった、均整のとれた丸い身体。胸を覆う濃い緑の布は血に塗れて破れ、左胸の前に穴が空いている。下半身にはすねの中ほどまでの長さの茶色い布を巻き、とぐろを巻く蛇の柄が精巧に施された金色の装飾品を首・手首・足首につけている。後頭部で束ねられた黒髪は今、ボサボサに乱れ、形を留めていない。しかし、それらが見事な美しい容貌を損なわせることはなかった。ゆっくりと呼吸しながら岩の上に横たわっているその人は、ほんの数メートルのところに横たわっている、赤いジョーングラベーン(*)を身につけた背の高い人に一瞥を送った。ハンサムだったその顔は今や、一人のナーガの毒によって見るも無惨に傷つけられ、どんな顔立ちなのかわからなくなっている。美しい人が苦痛に満ちた叫び声を上げた。[サグナーンパルット]が自分にとってどれほど大切だったかを、心が今初めて理解した。
 …彼が息を引き取る時になって初めてわかったのだ…
美しい顔が空を仰いだ。今、二種族の高貴な半神半獣が、空中でお互い譲ることなく戦っている。愛が引き起こした出来事にも関わらず、彼らはこのような運命に陥ってしまった。彼女が間違いを犯して彼を死に至らしめるという運命に…うっ。
 「どうかお願いします…私が全ての輪廻で重ねてきた功徳が…うっ…彼に…効力を発揮して…うっ…良い人生に生まれ変わりますように。うっ…そして、わ…私は…全ての輪廻で彼に巡り会い…か…彼を…うっ…うっ。彼をあらゆる危険から守り続けられますように…はぁ…うっ…どうか…お願い…うっ。」

 あらすじ


正確な予知能力を持つ、明るい顔をした若い警察官ワンサー・ラックシーン(ターン)の物語。彼はどの組織からも独立した特殊捜査部隊に所属している。事件を解明して悪人や犯罪者、人殺しを逮捕するため、あるいは彼と同じ部隊に所属するチャーダーユ・ガモンウィパック(パヤー)との間にある過去世の問題のような、超自然的な出来事の謎を解くためだ。彼らの間には…何かがあるようだ…彼らを結びつける何かが…そして、何かが彼らに向かってゆっくりと忍び寄っていた。

 特殊捜査部隊[キャラクター紹介]


上官+司令官 アッジマー・アッカラワイスーン隊長:ソム
IT担当 パートーン・プレーンタイ捜査官:トン
科学捜査担当 アタゴーン・アッカラワイスーン捜査官:シン
突撃隊 インヤイ・パハノップ捜査官:ヤイ
突撃隊 ソンヨット・マリワン捜査官:ケム
突撃隊 チャーダーユ・ガモンウィパック捜査官:パヤー
突撃隊 ワンサー・ラックシーン捜査官:ターン

(*)ジョーングラベーン:布をズボンのように腰に巻きつける、タイの伝統衣装。

第一章 出会い

ノンカーイ 二五四八(二〇〇五)年

 「僧正!僧正!」上下揃いの赤いサッカーユニホームに身を包んだ痩せた少年が、僧房に向かって全速力で駆けてきた。階段の下に着くとすかさず象星印のサンダル(*1)を脱ぎ、木造の僧房へと通じる五十段の階段を急いで上っていく。木の床に体重がのしかかってギシギシと大きな音を立てたので、静かな姿勢で瞑想をしていた僧房の主は目を開き、やんちゃな子に咎めるような一瞥を送った。
 「ターン」ことワンサー・ラックシーンは自分の振る舞いが適切ではなかったことに気づくと、木の床にそっと体重をかけてそろそろと歩いた。膝をつけて僧正に這い寄り、合掌して頭を三回深く下げてから、さらに少し近づいた。
 「歩きなさいと何度言ったらわかるんだ。走ってはいかん。」
 「はいはい、ターンはもう走りません…」ターンは寺で育った寺の子だ。父親も母親もいないわけではない。それなのにここにいるのは、実の父親が出家してこの寺にいるからだ。母親は離婚し、ターンが一歳になった頃からチェンマイに戻っている。僧正も母親も彼を放置などせず、むしろ厳しく教育した。ターンは母親が自分を連れて行きたがっていることを知っていたが、行くことはできなかった。満十八歳になるまでメコン川から離れてはならないと、大僧正に言いつけられていたからだ。もし言いつけを破って運命に逆らったら、ターンの運命は一年と保たずに断たれるだろう。そのため母親はやむなく、ターンをここで父親と一緒に住まわせることにしたのだ…ターンはたまに寂しさを感じることもあった。母親に愛されてないんだ、お金がないからターンを寺に置き去りにして僧正に育てさせてるんだ、とトーンたちに罵られてターンが泣きながら帰って来たとき、僧正は何も言わずにただターン名義の通帳を取り出し、そこに書かれた数字を見せた。なんと…ターンには百万もの金がある。
 「おまえは母親が貧しいからおまえを養う能力がないと思っているのか?」
 ターンはふるふると首を振り、通帳の金額を覗き込んだ。これは母さんが僕に毎月送金しているお金?月に十万?ひぇっ!こんなに金があると知っていたら、ターンはきっと僧正にスマホを買ってもらい、他の子どもたちと同じようにゲームに興じていただろう。僧正には金がないからと遠慮してばかりいたのだ。
 「だから女々しくいじけるのはやめなさい。おまえは男なんだから、心を強くしなければ。決して容易く泣いてはいけない。」
 ターンは頷いた。「じゃあどうして僧正と母さんは離れて暮らしてるの?どうして僧正は出家したままなの…どうして母さんはここで僕らと一緒に暮らせないの…」
 「ターン、よく聞きなさい。人は運命に逆らえないこともある…私とヨーマワリワンが一緒にいられないのはカルマなのだ。」僧正はそう言ったが、自分たちが一緒にいられないのは自分自身のせいかもしれない、とターンが感じていることに気づいていないわけがなかった。しかしターンは何も口に出さず、それ以上何も尋ねなかった。自身が考えていることが現実になるのが怖かったからだ。
 時間を現在に戻そう。今、ターンは僧正に、祖母の家に遊びに行きたいと頼むつもりだ。ラッタナワピー郡バーンナムペーにあるその家で、バンファイ・パヤナーク(*2)を見るのだ。そこは火の玉がたくさん見られる絶好の場所だと言われているらしい。ターンはそれが見たかった。
 「大急ぎで走ってきて、何かあったのか?」
 「へへ…」
 「遊びに行きたいのか?」
 「はい。僧正、行かせてよ。バーンナムペーのバンファイ・パヤナークが見たいんだ。観覧場所で火の玉がたくさん見えるんだって。」
 元警察大尉テープポップ・ラックシーンは、手を合わせ瞳を輝かせて自分を見つめている息子を目にして、ただため息をつくことしかできなかった。今、ターンは十二歳だ。ターンはいずれ彼を重い宿命から解き放ってくれる重要な人物と出会うだろう、と大僧正が言っていた。さらに僧正自身も、昨夜瞑想をした際、巨大な鳥が近くに飛んでくるという予知を見たのだ。もしかすると、その時が本当に訪れるのかもしれない。
 「僧正?」
 「行きたいなら行きなさい。」
 「やったー!」
 「でもよく覚えておくように…もしメコン川の中に何かが見えても、近づいてはならない。わかったか?」
 「はーい。それ、僧正はもう千回もターンに言ってるよ。」何度も繰り返されたので、もう頭に焼き付いている。
 「手を出して…」
 「はい?」戸惑いの表情を浮かべつつも、ターンは僧正の前に手を差し出した。
 僧正は鞄を手にして何かを取り出すと、ターンの手のひらに置いた。守り仏?これは昨年、大僧正が巡礼に出発する前に父に与えた、プラロートという守り仏だ。「もしおまえが相応しいと思う人に出会って、その人にこのプラロートをあげるべきだと思ったなら、ためらわずに渡しなさい。」
 「えぇー…どうやったらわかるんですか、僧正。」
 「おまえには正確な前触れを感じる特別な感覚がある。その人の顔を見るだけで、おまえの心がこのプラロートを誰にあげるべきか教えてくれるだろう。」
 ターンはよくわからず、ポリポリと頭を掻いた。しかし、僧正が命じたことには文句を言わずに従わなければならない。だからターンは合掌した手を掲げ、手の中のプラロートに敬礼をしてから、自身の首にかけた。
 「その人を見つけて僧正に会わせてあげますね。」
 僧正は頷き、それ以上は何も言わずにただ膝に手を置くと、目を閉じて瞑想を始めた。ターンは僧正に向かって手を合わせ、頭を三回深く下げたあと、膝をずらして静かに部屋を出た。それから僧正の部屋の正面にある自分の寝室へまっすぐに向かった。部屋に入ると金と服を掴み、三年間使っている自身のリュックサックに入れた。鞄は大事にして、五年は使わなければならない、と僧正は言っていた。思い出すとターンは顔をしかめずにはいられない。口座に百万もの金があるのに、同じものを繰り返し使っている。友だちに馬鹿にされるまで使うなんてどうかしてるよ、はぁ…
 荷物をまとめて準備を終えたので、ターンは僧房から下りて靴を履き、足早にポーチャイ寺の前の停車場へと向かった。ロケット祭り(*3)の期間中なので、今日は特に人が多い。たくさんの人がご利益を求めてルアンポープラサイ(*4)に参拝に来ているのだ。他人と接触しながら歩かなければならないことに、ターンはかなり苛々していた。
 「あれだ、ターンが来たぞ。おいターン、こっちだ!」ターンの一番親しい上級生であるPヤイが大声で叫んだので、周囲の人が振り返った。しかしその大声は長くは続かず、Pヤイはジャムピーおばさんに耳を捻り上げられて呻き声を上げた。ターンはPヤイの行動を面白がって笑ったあと、傘の下で待っているPヤイの家族に駆け寄ろうとした。そこにもう一人立っている人がいることには気づかなかった。
 ドン!
 バサッ!
 ターンは黙ってぶつかった人の方を振り返った。今、その少年は俯いて地面に落ちた蓮の花を拾っている。そして顔を上げると、気に食わないという表情でターンを見つめた。その少年は…ターンと同じくらいの体格をしている。ターンは自分と同年代の少年に歩み寄ろうとした。しかし、その前に襟首を掴まれてしまった。
 「おいターン、どこに行くんだ?俺あっちで待ってたんだぞ。」
 「人にぶつかっちゃったんだよ…」高価な服を身にまとったその少年は怒りに満ちた瞳でターンを見つめていた。白いTシャツに膝丈の黒いズボン。成長したらとてもハンサムになると見ただけでわかる顔。彼らは黙って見つめ合った。その少年は咎めるような視線でターンを見ていた。その一方で、ターンは疑問の視線を相手に向けていた。なぜ見つめているのかもわからない。頭が真っ白で何も考えられない。しかし心臓は、胸の中で太鼓を叩く人がいるかのように早鐘を打っていた。
 「坊ちゃま!」大きな呼び声にその少年は踵を返して離れていった。ターンは後を追おうとしたが、ヤイがどこにも行かせなかった。
 「どの人だよ?」ヤイは左右を見回しながら尋ねたが、年寄りばかりで少年は一人も見えなかった。ターンはその少年を追いかけようともがいたが、ヤイはターンを離さなかった。年齢の違いによる体格差があるので、ターンはこの年上の友人の屈強な腕を振りほどくことができなかった。そのうちにあの少年は人混みの中に消えていき、影も形もなくなってしまったので、ターンはうんざりしてため息をついた。
 「Pヤイ!見ろよ、あの子を追いかけられなかったじゃないか。」
 「ヘイ、追いかけなくてもいいだろ。母さんがついて来いって。帰って家に来てる親戚を出迎えないと。」
 ターンは顔をしかめた…さっきの人がプラロートをあげるべき人かどうか、確信はない…しかも…彼の顔に、ターンはものすごく見覚えがあった。しかしいくら考えても、どこで見たのか思い出せなかった。
 「行くぞ!」ヤイが急かし、ターンの首を抱えて自分の後をついて来させた。ターンは振り返ってあの少年が消えていった方角を眺めた。彼にもう会えないと思うとひどく落胆した。なんでだよ?わけがわからない…

ラッタナワピー郡バーンナムペー

 ターンは祖母の家を何度も訪れていた。そしてPヤイの家に行くのはこれが三度目だ。Pヤイの母親であるジャムピーおばさんは、ターンをたいそう可愛がっている。ターンのおかげでPヤイが試験に通って高等四年(*5)に進級することができたからだそうだ。ターンは愛する息子になれたことが嬉しくてくすくすと笑っていたが、一方のPヤイは気に入らなくて顔をしかめた。
 勉強はできないけど、スポーツだったらさ、ヤイは誰にも負けないよ、母さん。ヤイは心の中で訴えた。
 「ここにいる間は遠慮しなくていいから、好きなようにくつろいでね。見てよ、ボロボロでズタズタな服を着てるのに、変わらずハンサムで愛らしいねえ。」ジャムピーおばさんは何も言わずに手を伸ばし、ターンの頬を優しく撫でた。ターンはジャムピーおばさんに向かっていつも以上ににっこり笑い、魅力を振りまいてみせた。ここにいる間、毎日美味しいお菓子を食べるためだ。ふふふ。
 ボカッ!
 「いてっ!」兄の一撃の強さは脳を揺さぶるほどだと言える。
 「俺の母さんを誘惑するなよ。目障りだ!」
 「ヤイ!なんで弟をぶつの!?僧正に知られたらどうするの!」
 「母さん!だって母さんがこいつばっかり褒めて、こいつの味方ばっかりするからじゃん。ムカつく。」そうと知ったら付き合わせないほうがいい。ジャムピーおばさんが見ていない間、ターンは満足げな笑みを浮かべ、Pヤイに向かってイラつかせるように眉を上げてみせた。
 「ほら母さん!こいつが俺をからかう顔を見てよ!」
 ジャムピーおばさんは振り返ってターンを見た。ターンはすかさず表情を悲しげで弱々しいものに変えた。「ターンは何もしてないじゃない。あんたでしょ、イタズラしたのは。こっち来なさい!」
 「いてっ!母さん、ぶたないでよぉ!ターン、この悪ガキめ!こっちに来い!」
 「はははは。」ターンは満足げに大笑いし、走って家のドアの外に逃げ出した。続いてヤイも駆け出し、ジャムピーおばさんの大きな声がその後を追った。九時までには帰ってきなさい、仲良くするのよ。Pヤイの家はバンファイ・パヤナークの観覧場所の近くにある。しばらく追いかけっこをしていると、その観覧場所に到着した。
 「疲れたな。何か食べるもの探そう。」
 「うん。Pヤイが出してね。」
 「毎回俺じゃねえか!」
 「Pヤイは兄貴だろ。兄貴は支払うもんだ。」
 「仕方ねえな。」
 ターンはにっこりと笑い、ヤイに続いてスムージーの屋台へと歩いた。二人は一杯ずつスムージーを注文し、店主に金を支払ったあと、景色を見るのにちょうどいい場所を探し歩いた。Pヤイの家族はノンカーイの人ではない。ノンカーイで働く父を追って南から移住してきたのだそうだ。家族がチェンマイ出身であるターンと同じだ。いや、僧正にはノンカーイの血が半分入っていると言わなければならない。当初、僧正と母親はただ旅行に来て僧侶に祈祷をしてもらおうとしただけなのに、母親の陣痛が始まり、ノンカーイで出産することになったのだ。そのため、彼らはしばらくノンカーイに滞在しなければならなかった。しかしいざチェンマイに帰る時になると、帰ることができず、結局ターンと僧正がここに留まることになってしまった。
 「おい、あれ見ろよ。どこのどいつが火の玉を見てあんな風に振る舞うんだ。あいつら、どんだけ身分が高いんだろうな。」ヤイは指を差してターンに示した。ターンはヤイに従ってその身なりの良い人たちを眺めた。ものすごく金持ちな人のように振る舞っている。幸運の火の玉現象は見たいけれど、他の人と一緒に座りたくはない。そのために個人用の白いテントを持ってきて広げ、白い椅子に座って静かに行儀良くお茶を飲んでいる。その立ち居振る舞いは、まるでターンの祖母その人のようだ。
 「放っておこうよ。俺らは俺らの場所を探そう。じゃないと人でいっぱいになっちゃう。」
 「そうだな。」
 ターンとヤイは協力して座る場所を探した。しかしその時、ターンは不意に風がざあっと耳元で囁いたような感じがして、今朝の少年のイメージが頭の中に浮かんできた…
 ドサッ!
 ターンはスムージーのコップを地面に落とした。そして身を翻すと、少年たちがいると思われる方向に急いで駆け出した。ヤイは隣にいたターンが走り出したのを目にして、慌てて後を追いかけた。
 「助けて!誰か助けて!坊ちゃま!坊ちゃま!」助けを呼ぶ叫び声を耳にするとターンはさらに足を早め、到着すると急いで靴を脱ぎ、すぐさま川に飛び込んだ。
 ドボン!
 「チャーダーユ・ガモンウィパック」ことパヤーはこれまで溺れたことはなかったし、川に入るつもりもなかった。この朽ちかけた桟橋の上を歩いて写真を撮っていた時に、突然何者かの手が彼の足を川の中に引きずり込んだのだ。パヤーは泳げる。しかしどれだけ必死にもがいても、浮かび上がることはできなかった。まるで、メコン川が腹を空かせて彼を水の底に吸い込もうとしているかのようだ。パヤーは息を止め、目を見開いて水底を見つめると身を翻し、もう一度足を蹴った。しかし移動できない。なぜだ?一体何が起きているんだ?沈みゆく太陽の光は水底を強く照らしてはくれない。彼には身体を囲む水草のほかに何も見えなかった。そして水底から二つの赤い光が現れ、彼に近づいてきた。それの巨大な姿はチャーダーユを恐怖に震え上がらせた。ここから逃げたいのにどこにも逃げられない。助けて!誰か助けてよ!あいつが近づいてくる!こっちに突き進んできた!
 パッ!
 何者かの手がチャーダーユの肩に触れると、その巨大な影はすぐにバラバラになって消えた。チャーダーユはこれ以上息を止めていられなさそうだったので、ゆっくりと身を預け、その人に首を掴んで水から引き上げてもらった。運良く間に合った…
 ターンは泳いでチャーダーユを川岸に連れていった。たくさんの人がそこで待っているのが見える。そしてヤイが手を伸ばしてターンを助けてくれた。この人たちは、先ほどヤイがターンに指し示したのと同じ人たちのようだ。
 「早く早く。私の孫を引き上げて。私の孫を引き上げて。」
 あんたが引き上げろよ!ターンは心の中で思ったが、彼を引き上げたのはPヤイだった。
 「ゲホッゲホッ。」岸に上がったあとも、パヤーは咳が止まらなかった。彼の身体は祖母、母親、叔母に取り囲まれていた。乳母のヌンがバスタオルを差し出してパヤーに掛けた。そしてもう一枚のタオルを少年に渡した…
 「ゲホゲホッゲホッ、君…」君は昼間僕にぶつかった人だ。
 「はぁ!泳げるんでしょ…」ターンがそれを知っているのは、相手が自力で浮かんでついてきたからだ。過度に体重を投げ出さず、泳げる人のような体勢をしていたのだ。「なんで泳いで上がらなかったんだよ。」その少年は文句を言った。
 パヤーは立ち上がり、母親が近くで彼を支えた。「パヤー、パヤー、そんなに動いちゃだめよ。どこか怪我してたり、骨が折れてたりしたらどうするの。」そう言いながら母親は終始彼を支えようとしていた。パヤーは意に介せず、ボロボロのサッカーユニフォームを着た少年を黙って見つめた。
 「ありがとうね、あなたたち、私の孫を助けてくれて。本当にありがとう。」おばあさんが振り返って彼にお礼を言った。
 パヤーは祖母に目を向けたあと、目の前の少年を見つめ続けた。とにかく彼は助けてくれたし、パヤーは恩知らずな人間ではないので、彼に感謝の言葉を述べた。「助けてくれてありがとな。」潜った時に水の中で何かを見なかったかと聞きたかったものの、態度から察するに、彼は何も見ていないのだろう。でなければ先ほど彼を非難したりはしなかっただろう。
 ターンはパヤーの顔を見つめ、それから自分の首にかかったネックレスを掴んだ。唇を固く結んでパヤーに近づき、真正面で立ち止まると、自分がつけていたネックレスを外してパヤーの首にかけた。パヤーはわけがわからず固まっていた。一方の大人たちは、理解できなくて顔を見合わせていた。

 「プラロートのネックレスだ。あげる。」ターンが言った。パヤーの顔を近くで見ると、本当にかっこいいと思った。
 「プラロート?大変、そんなものを簡単に人にあげちゃっていいの?」パヤーの叔母が驚いて声を上げた。パヤーは俯いて自身の首にかかったネックレスに目をやり、手に取って近くでしげしげと眺めたあと、外して返そうとした。しかしターンはそうさせなかった。
 「持って行ってよ。あげる…僧正が、相応しい人に渡せって言ってたんだ。それで、おまえ、じゃなくて君が相応しいんだよ。」ターンは確信していた。このネックレスに相応しいのは、このパヤーという名の少年に違いない。
 パヤーは言葉を失ってターンの顔を見つめていた。俯いて首にかかったネックレスを眺めたあと、顔を上げてターンにお礼を言った。「ありがとな。」どれくらいの値段のものかわからなかったが、このことに遭遇してから、パヤーもこれを身につけておくといいような気がしていた。
 ターンはにっこりと笑った。「どういたしまして。」
 「素晴らしいわ、助けた上にネックレスをあげるなんて。お礼にあなたたちを食事に招待してもいい?」パヤーの祖母が親しみのこもった口調で誘った。パヤーは母親に抱き寄せられ、この人と一緒に食事をしたい、という期待に満ちた目でターンを見上げていた。ターンは相談しようとヤイの方を振り返ったが、ヤイは肩をすくめてみせた。そのためターンは向き直って答えた。「大丈夫です。僕ら急いで帰らないと。」こんなにびしょ濡れじゃ、ジャムピーおばさんに文句を言われるに決まってる。
 「大変、ほら、こんなに濡れてる。まず私たちと一緒に着替えに行ったらいいんじゃない?ふむ、あなたと私の孫は同じくらいの体格よね。」
 ターンは首を振った。全然良くない。そんなことをして、後で僧正に知れたら…背筋が凍る〜。ヤイはターンの困っている様子を目にすると、状況を改善する助け舟を出した。
 「僕と彼の家はそんなに遠くないんです。帰らせてもらって家で着替えた方がいいです。」
 「そう?残念ね…それなら、私たちが行ってあなたの家の人にお礼を言ったらいいんじゃない?ねえプットソーン。」おばあさんは振り返ってパヤーの母親に意見を求めた。
 「お母さんに任せるわ。」パヤーの母親が振り返ってターンに優しい笑顔を向けたので、ターンは気まずくなり、手を伸ばして兄の腕を掴んだ。
 「それじゃあ道案内して。あなたと私は一緒に行きましょう。パヤーは戻って服を着替えてからついていらっしゃい。」
 「はい、おばあさん。」パヤーが答えた。おばあさんは彼に微笑みかけ、他の人たちと一緒にターンの方へ向かった。
 「案内してちょうだい。」
 「はい。」ヤイが言葉を受け、ターンの腕を引っ張って一緒に歩いた。おばあさんとパヤーの叔母はそのすぐ後ろをついていった。ターンが振り返ってもう一度パヤーを見ると、彼も同じようにターンの方を見ていた。長いあいだ視線を合わせていたが、ターンは耐えられなくなり、先に顔を背けてしまった。
 ドクン、ドクン
 心臓が激しく脈打っている。何かの病気に違いない、とターンは思った。検査に連れて行くよう僧正に頼まなければならないかもしれない。
 ヤイとターンはおばあさんとパヤーの叔母をジャムピーおばさんの元に連れていった。一言二言会話を交わすと、ジャムピーおばさんは振り返って喜びの倍増した視線でターンを見たので、ヤイは俯き、今度こそターンが俺の代わりに母さんの本当の息子になっちゃった、と呟いた。しばらく話をしたあと、パヤーの叔母が電話で長々と道を説明し、パヤーと彼の母親、それに乳母が家にやって来た。パヤーは手に持っていたブレスレットを、感謝の言葉の代わりにターンに差し出した。ターンは目の前のブレスレットを見つめると手を伸ばして受け取り、不思議なほど喜びに溢れた気持ちでそれを眺めた。パヤーから何かをもらえたことが嬉しい。ものすごく嬉しい。
 「ありがとう。大事にするよ。」
 「うん。僕も。」
 二人は黙って見つめ合い、パヤーがターンに笑顔を見せた。ターンもパヤーに笑いかけた。周りを囲む大人たちの歓喜の中で、友情が生まれていた。しかしヤイにとって、ターンの視線はわずかに違和感を感じさせるものだった。それは愛しの弟が自分を見るときの視線と変わらないのに、どうして恥ずかしくなるのかわからなかった。
 長いこと感謝を伝え合ったあと、その都会の人たちは別れの挨拶をした。ヤイはターンが悲しそうな顔をするのをこっそり見ていた。彼が去った後もまだブレスレットを眺めている。ハハハ。
 「Pヤイ、ターンはまたあの子に会えると思う?」
 ヤイは歳の離れた弟を見て答えた。「たぶんな。運命の糸が繋がっていれば会えるよ。」少し希望を与えてあげよう、可哀想だから。

 ヒュウゥゥゥ!ヒュウゥゥゥ!
 「ターン!起きて見ろよ、バンファイ・パヤナークが始まったぞ!」ヤイはマットの上に横たわっていたターンをつついた。ターンは身体を起こし、次々と空に浮かび上がる火の玉を眺めた。すると不思議と気分が良くなった。
 「すごく綺麗だね。」
 「願い事をしよう。」
 「願い事もできるの?」ターンは困惑して尋ねた。火の玉を見ている時に願い事などしたことがなかったからだ。
 「とにかくやろうぜ。めでたいイベントでは願い事をするもんだろ。」ヤイはそう言って手を握り合わせ、目を閉じた。ターンはヤイを見ると、余計なことはしないほうが良さそうだと思った。
 《どうか、もう一度パヤーに会えますように。お願いします!》 

チョンブリー 二五六二(二〇一九)年

 背が高くてスタイルが良く、ハンサムな青年。白いTシャツに黒の革ジャケットを羽織り、キャンプ用のリュックサックと、黒いサングラスをかけている。彼は船の乗務員に歩み寄って尋ねた。「この船ですか?プラ島に行くのは。」俳優のようにハンサムなその顔を、船の乗客の何人かは息を呑んで見つめた。
 「そうです。お乗りください。」青年は微笑むと船に乗り込み、自分に合った席を探した。
 同時に、二人の人物が抜きつ抜かれつ走って船着場に到着した。一人は背が高くて体格が良く、もう一人は背が高くピュアそうだ。「あんたのせいだからな、Pヤイ。寝坊するから間に合わないとこだったよ。」
 「おい、俺だけを責められないだろ。おまえだって着替えるのが遅かったじゃないか。」
 二人は言い争い、船に乗り込んでもまだ罵り合いをやめなかった。そのため彼らと同じ列に座っていた青年はイヤホンをつけて電源を入れ、彼ら二人にはもう興味を示さず外の景色に顔を向けた。
 今、船は風を切って、海軍特殊部隊の訓練場であるプラ島へと向かっている。彼がいつかそこで訓練を受けたいと思っていた場所だ。母親にどれだけ止められようと、パヤーは聞き入れなかった。夢を叶えるためなら、母親の意向に逆らうことも厭わない。ずっと目指してきた、特殊捜査部隊で仕事をするという夢を。
 今回の試験は絶対に合格してやる。

(*1)タイで広く流通している、シンプルで安価なビーチサンダル。
(*2)ノンカーイやウボンラチャータニー、ラオスなどのメコン川上で見られる火の玉現象。陰暦11月の満月の夜、複数の火の玉がメコン川から上空に浮かび上がる。この現象については科学的調査が行われているが、正確なメカニズムは未だにわかっていない。
(*3)タイ北東部とラオスの村で、雨季が近づくと開かれる伝統的な祭り。各村で手作りのロケットが打ち上げられる。二〇二四年は五月十日から五月十二日まで。
(*4)ポーチャイ寺に祀られている仏像。
(*5)日本の高校一年生。


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