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みよたのサマーキャンプが教えてくれたこと




コモンズとは何か。それを若者から学ばせてもらうための時間だったのかもしれない。

個性的で芯の強い3人の若者とともに開催したみよたのサマーキャンプは、広場史上最も濃密でタフで学びの多い一週間だった。寝ている時間以外は常に一緒にいるようなプログラム期間中、コモンズについて学び、熟議を通じて学びを落とし込み、身体を動かしてコモンズの実践を目指している広場を感じ、そして最後のアウトプットに向けて身体と頭をフル回転する。

頭も体も疲弊しないわけがないこのプログラムは、最後のアウトプットとしてのマツキヨ側からの木道、”ありがとうの薪”の仕組み(来場者に薪を割ってもらう仕組み)に加えて、多くの気づきを与えてくれた。

みんなでつくった木道

何より大きかったのが広場が目指したいコモンズの姿がぼんやりみえたことだ。最終日に行われた土曜夜市の景色がそのヒントをくれた。

夜市当日、みんなで協力してつくった木道づくりもいよいよ終わりがみえてきた頃、けいごろーがニヤりとしながら「夜市でパン焼いてもいいですか?」と言った。すると、シルバーアクセサリー作家のあんちゃんは、「わたし、出店してもいいですか?」と続ける。夜市がはじまり人がちらほら集まり始めると、”ありがとうの薪”を発案したこたろーは、薪割りお兄さんと化した。ちびっこたちが両手いっぱいの大きさの薪をかかえて列をなし、こたろーが彼らの薪割りをサポートする。

薪を割る子どもをサポートするこたろー


夜市のときの彼らの役割は特に決めておらず、純粋に夜市を楽しんでもらえればそれでよかったのだが、彼らの表情を思い出すと、それが彼らにとっての最大の広場の楽しみ方だったのだろうと思えた。それくらい満たされた表情にみえた。

誰にやらされたわけでもなく、何かをGiveしているという感覚すらきっとなしに、おのおのが自然体でやりたいことを楽しんでいるようだった。これが「差し出す」ということなのかもしれない。それぞれがバラバラのことをしていても、広場全体には調和のとれた不思議な一体感が生まれている。とにかく心地のよい時間だった。
では、この「差し出す」はどのように生まれるのだろうか?

きっとその答えは「関係性」にある。

身体性を伴う共同作業、共に熟議した時間は、広場とみんな、広場に関わるいろんな人とみんなの「関係性」を育んだ。そしてその関係性が土曜夜市での「差し出す」を引き出したのだと思う。今回のように「差し出す」を引き出せる場の状態こそ、コモンズなのではないか?と感じている。

さまざまな人がさまざまな関係性を育み、おのおのが自分らしくその場を楽しんでいる。そして全体として不思議な一体感が生まれて続いていく。そんな景色を生み出す場が広場だとするならば、それはいつかきっと「コモンズ」と呼ばれはじめる。広場が向かっていきたいのはきっとそんな方向だ。

コモンズとは何かを教えてくれた3名の若者


広場にとっても、個人にとっても大きな意味をもつサマーキャンプになったのは、学びのトークセッションやディナーセッションをはじめ、様々な形でご協力くださった皆さまの存在、そして不思議なこの企画に参加してくれたサマキャンメンバーのみんなのおかげです。この場を借りてお礼申し上げます。
長かったようであっという間だったサマキャンを一緒に走り抜けてくださり、本当にありがとうございました!


参加者からのエッセイ

最後に。とっても個性的なサマキャンメンバーに想いを込めて書いてもらった最高のエッセイ。テーマは、「わたしが感じたコモンズとは」です。一人ずつどうぞ!


「みよたの広場の一週間とコモンズ」  けいごろー

丸太運びで驚異的な力を発揮するけいごろー

浅間山の吹きおろす涼しい乾いた風が皮膚の毛穴に柔らかくあたる。御代田の土地に一週間滞在しながらコモンズの実践をした大学4年生の夏。愛情にあふれた人たちと交わり、泊めさせてもらい、ご飯を食べ語りあった。御代田が大好きだ。

何となくその時の私をそうさせた。私は小麦粉2キロと酵母でパンを仕込んだ。みよたの夜市で発酵した生地を丸めて焚き火に並べて焼いた。20個の焼けたパンは1つを近くの人と3人ほどで分け合ってもらい食べてなくなった。どこまでも関係性がつながっていくのを感じた。私の中で幸福感と豊かさの最上級に満たされて幸せ者だった。

コモンズ。それは私が連動して本来つながるであろう、全てのものごとにつながりだした世界である。私の所有物、あなたの所有物の分けることから解放され、つながりだす。草や木もあるものすべてが一体化して調和しながら全体で呼吸する。有機的なアートのつながりの世界だ。私たちはシステムエラーしないように制限を守り忠実に境界をはっきりさせることに懸命なる努力を意識していたことに気が付いた。はじめて自由なアートができるようになれた。生かすこと活かしてもらうことの自然自由な存在となれた。

コモンズ。それは衝撃的に好きになっていることで始まっているのかもしれない。何かひとつを好きになることが素直に何かを差し出す気持ちになる。
コモンズの場が立ち上げる発生源のエネルギーは、誰かによる支配や仕切り屋、優れたシステムは必要ないだろう。むしろ沈黙の無から感じる心地よさや優しさ、何かいいという気持ちである。未完全の手作りである状態に触れるような気持ち。一人一人の個の内から生まれるエネルギーが自然に沸き立ち、擦れ合うのかもしれない。なんか関わりたくなってしまう気持ちにある。裸の感受性が重要だと思う。完結しない何かに補いあったり、分かち合ったりする。関わり代が見えているから。私を必要としているのがわかる嬉しさもある。里山は人の心身で手入れされてきた。同じプロセスで外側のものを内側に取り込むことで関係性ができていく。何かを仕向ける必要なんてない。自然にそうなっている状態ができている状態で良いのだ。コストもかからず、ずっと続いていく。

相手に求めてはいけない。負担は有機的関係性が途絶えてしまう。自然にできることが有機的関係性において調和する。不思議なことに完璧でないものがコモンズに調和しやすかったりする。


私は私有のものでなく、人と人の間の共有に有した状態にあっても良いのではと思う。もっと自分の立ち位置を考えても良いかもしれない。そもそも自分の私有知、私有地、私有財産の中で生きることは不可能だ。共有する存在として生きている方が活発にものごとの巡りが良いような気がする。

コモンズは難しくなく愛情や気持ちによって紡がれる。あとはゆっくり自然発達、自然発酵する。繊細だからこそ、人工的なシステムでコモンズを作ることは難しいと思ってしまう。システムは生きた人間の状態で扱おうとすると、結局は心に伝わる関係性に過ぎないのかもしれない。とにかく愛され、気持ちで感じられる生きた者になっておくか。そこにコモンズの場の芽が生まれるかもしれない。心を解放し合える限り、感じ合える限り上手くいくと信じている。そんな気持ちで何かをやり始めることでやっていこうと思う。

私たちはなるべく有機的な存在でいるように、人工物にならないような自然な振る舞いで広場にいたつもりだ。幸せ者の一週間の最高の日和と最高の仲間と最高の御代田の人にありがとう。皆さんがコモンズでした。愛して、感じ合えている間の限りは続いていくと思う。


「わたしが感じた、コモンズとは?」  あんちゃん

夜市で出店中のあんちゃん

コモンズとは何だろう。正直、今もまだよくわからない。ただひとつ言えるのは、共有される場や財(材)というよりも、いつでも共有され得るという「状況」なのではないかと感じたということ。場と人のあり方がもたらす循環が促進される状況。

場と人のあり方というところを、もう少し分解して捉えてみたい。まずは、場のあり方について。「未完成であり続けること」と「関わりしろがあり続けること」が必要であると感じられた。未完成であるというのは、言葉の通り完成しないということである。コモンズという曖昧な概念をさまざまな人が多角的に見つめ続けるという事実が触媒となって、物や人の循環が促進される場として更新され続けていく。誰もがその触媒になり得るという事実にはっとした。関わりしろがあるというのは、人々が関わることのできる余白があらかじめ設計されているということである。余白がなく完成された決まり切った場は、安心感はあっても創造する面白みに欠ける。余白があるからこそ関わる余地があり、場の一員になれる。私が私たちになれる。これらが、あるものを受け取ってないものを与える、そんな循環が生まれる場のあり方を支えていく、そんな風に思えた。

次に、人のあり方について。「人々がそれぞれのふるまいをしているということ」が重要であると感じた。それぞれのふるまいをするというのは、各個人が自身のできることやあり方をそのまま差し出すことができるということである。ふるまいという言葉には、2つの意味があるように感じられる。物や技術を差し出すことと、人のあり方それ自体。場を利用する人々が「ある1人の誰かでありながら、誰でもない誰かになることができること」が重要なのではないかと思う。これは主体的にも受け身にもなれるということであり、人と人との関係性が移り変わっていくということである。あるときにはある1人の誰かとしてみんなにふるまうことができ、また、あるときには誰でもない誰かとして他者からのふるまいを受け取ることができる。これがふるまいの循環であり、心地のいい余白の埋め合いなのかもしれない。各々がふるまい合い、受け取り合う。そんな関係性の移り変わりが繰り返されていくことが場の豊かさを育んでいく。そんな風に感じられた。

未完成で関わりしろのある場の中に、ふるまい合いを楽しむ人がいるということ。場のあり方と人のあり方の双方が混ざり合いながら立ち上がってくる、ふるまいの循環が自然と促進されていく状況。これが理想的なコモンズのように私には思えた。ただ、ここまで書いて思ったのは、コモンズはあくまでも共有される材で、コモンズを循環させていくためのマインドセットをこのサマーキャンプで体感した、ということを書きたかっただけなのかもしれないということ。思考が振り出しに戻ってしまったかのようだけれど、螺旋階段を1周ぐるりと上ることはできたような少しの手応えは感じられている。

ふわっと宙に浮いているかのようなとりとめのない文章を書き連ねてしまった。コモンズとパブリックの違いなど、もっと考えたいことや学んだことがたくさんあったけれど、今の私に書けることはこんな内容だった。きっと他の2人は、それぞれまた違った手触りの文章を書くのだろうと思うから、私はこのふわりとした文章をそのまま差し出してみたいと思う。あのとき広場にいたある1人の誰かである私が、広場にふるまう文章として。


「コモンズとは」  こたろー

暇があったら薪を割る男 こたろー

みよたの広場を通して、「コモンズ」という概念を理解したとき、それは単に知識として受け入れたのではなく、むしろ感覚的に捉えたという言葉の方がぴったりくると感じました。なぜなら、「コモンズ」は何かが完成されたものではなく、未完成であり、私たち全員が共同で築いていくものだからです。

私自身、この概念を言語化すると、未完成が生み出す人と人とのコミュニティとして感じ取りました。未完成が生み出すコミュニティとは、未完成な状態から生まれる余白があり、その余白に私たちが関与し、共感し、協力することで形成され、維持されていくものだと考えます。

現代社会では、完成し切ったものに慣れ親しんでいますが、その完璧さが本当に正しいのか疑問に思うことがあります。完璧に仕上げられたものは余白がほとんどなく、一人で完結できることが多いですが、これが本当に良いことなのでしょうか?私は、余白があることで人々が集まり、コミュニケーションが生まれ、共にその余白を楽しもうとする循環が、本当の「コモンズ」なのではないかと感じました。 要するに、私たちが未完成な状態から共同で創り上げ、共有し、育てていくものが、真のコモンズの本質ではないかと私は思います。



みんな最高のエッセイを、そして最高の夏をありがとう!

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