みよたのスプリングキャンプ エッセイ集

とんでもない強風と寒さの中で開催されたスプリングキャンプ。みよたの広場のカフェを立ち上げる!というテーマで始まったプログラムでしたが、カフェの検討だけに留まらず、広場とは?コモンズとは?そのためのカフェって?と深い問いに潜り込んでいきました。
寝る時以外、ただひたすらに広場のことを考え続けた濃厚な1週間を過ごした彼ら。答えのない問いに向き合い、もがきながらも粘り強く考え続ける中で何を感じ、何を得たのか?彼らのエッセイを読んで、感じてみてください📖


りな

東京から長野に来た日は、信じられないくらい寒い日だった。
指の感覚がなくなりそうになりながら案内してもらった宿には、猫背で細長い人がいた。10個も年が離れた私たちに猫背と言われても怒らないその人は、相馬さんという名前で、私たち4人はちゃっかり7日間相馬さんにお世話になった。

相馬さんは面白くてとにかく優しい人だった。
相馬さんの部屋に遊びに行くと、こたつに入れてくれた。話そうとすると、スマホとパソコンをさりげなく片付けて、ながら作業じゃなく真剣に話を聞いてくれたし、猫背のままいそいそと立ってお茶を注いでくれた。私たちが疲れていると、たまーにビールをあけて一緒に乾杯してくれた。時に話が盛り上がって一緒に徹夜までしてくれた。FBをくれる大人としてというより、ともに暮らす一時的な同居人に対して、1人の人として私たちと話してくれたんだと思う。

もちろんこんな風にたくさんの愛情をくれたのは相馬さんだけではない。たった7日間で私たちの父になったジョージさんからも、その他会った大人たちからもたくさんのものを愛を持って差し出してもらった。

私はそんな相馬さんに、ジョージさんに、御代田のみんなに、なにか私もお返しがしたくてしょうがなかった。この人たちに何を返せるんだろう、とずっと考えていたがうまく思い付かず、東京にタコス食べにきてよ、待ってるよ、とだけしか言えず東京に帰ってきた。
他の参加メンバーも同じだっただろう。たくさんのものをくれた御代田の人に何か恩返しをしたくてうずうずしていたと思う。こんな風に外から来た私たちをも、そんな素敵なエネルギーで私たちを満たしてしまう力が御代田にはあった。「何かを返さなきゃ」ではなくて「何か私たちも返したい!」という気持ちだった。

結局もらってばっかりの一週間だったけど、私は今まで感じたことないようなささやで素敵な温かさを確かに肌で感じて東京に帰って来た。

東京でも心温まる場面はいろいろな所にある。朝まで飲み明かしたスナック、友達の展示を見に行った時、大好きな人たちとの仕事の打ち上げ。素敵な人に囲まれ素敵な瞬間をたくさん味わってきたが、それらのどれとも違う感じたことのない、とびきり安心感のある心の温まり方だった。

プログラムの本筋とは関係なさそうなこの生活は、結局のところ広場の本質を一番教えてくれたように思う。

私たちは7日間、コミュニティに向き合いながら経済合理に向き合ったり、色々な言葉を定義してみたり、フレームワークを片手に頭を悩ませたりしたけれど、結局向き合ったのはシンプルな問いだった。
「どうしたらみんなが満たされ、何かを差し出したくなっちゃうんですかね。」
自分達が感じた、何か私も返したい、という衝動をどうしたら循環できるのか。それはコモンズに向き合うことであり、広場が向き合うべき最大の問いであった。コモンズはとても繊細で安易なルールや支配で成し得るものではなく、既存の言葉に置き換えると、「おすそわけしたくなる、を作る」に近いように感じた。

東京で生まれ東京で育った私にとって「おすそわけ」という文化は頭では理解しつつ実感したことのない文化だった。こんな風に思いやりと人の温かさの循環が生まれることは奇跡に見えた。簡単なシステムで捉えることのできないこの場所の道理を理解し、その循環を設計することは非常に難しく、でも何よりも尊く価値があると御代田は教えてくれた。
だからこそ、そんな奇跡がしっかりと続くように場所を組み立てなきゃいけない。そんなささやかな思いやりが循環するように。そんな祈りが生まれる場所として広場があり続けるように。祈りを形にしなくてはいけない。

私たち4人が一週間かけて向き合ったのは、まさにこういうことだった。

みよたの広場は、中に人がいなくなったら、循環が起こらなくなったら、簡単に死んでしまう。素敵なものを存続させるためには、お金も必要だし、循環の輪の中にいる人が複数人必要だし、循環が起こりやすい仕掛けが必要だ。

向き合わなきゃいけない課題は山積みだが、循環を生むのは人である。それはお金やルールなど義務による支配が意味をなさない動的なものだからこそ、脆いという運命から逃れられない。その脆さに対抗するためには、何かの制限で縛るのではなく、素直に自分のものを差し出したくなるような、排他性のない緩やかな輪を確実に広げていかなければならない。
その輪に入るのに、知識も経験もいらない。もちろん、御代田にいる年数も関係ない。コモンズなんて言葉を知らなくたっていい。「あ、あげるってもらうと同じくらい心地いい」そう思った瞬間、もう誰でもみよたの広場を作る人だ。そんな人の温かさを前提にするエコシステムは尊く、既存のフレームワークなんかで語れるものではないのだと強く感じた。
その循環のありかたは自分にとって新鮮で、大きなカルチャーショックでもあった。
たくさんの学びの中でも特に印象に残ってる気づきを、記録を兼ねて二つ書きたい。
一つ目は金銭を介在しないエコシステムへの気づきだ。
何か自分がポジティブな気持ちになるためには、対価として金銭を払い体験を受け取るのが当然だという価値観が自分に根付いていた。思想のあるホテルやサービスは高くて当たり前だし、むしろ素敵なものにはお金を払うのがリスペクトである、みたいな感覚が今もある。もっというと、感情が動く体験にはそれなりにお金がかかる、とまで思っていたのかもしれない。スマイルでさえマックで買えちゃう時代ですしね。
でも御代田には違う価値体系があった。広場で会った人は、「ここではたくさんのものをもらうより、あげるのが好きな人が多いんだよ」と教えてくれた。金銭を真ん中に置かなくなったってあげたりもらったり豊かに過ごせるんですって!なんて素敵!それは自分にとって新しいが確かにこの7日間で身体に根付いている感覚だった。

もう一つの気づきは「今あるものをありがたく受け取る」という考え方だ。
私は広告代理の畑で頭を使っていたこともあり、自分達の作るコンテンツでどう人の心を動かすかについて向き合ってきた。この期間で、もしかしたら私たちはコンテンツを作りこむことに必死になりすぎていたのかもしれないと感じた。
広場の持つ価値について話を聞いている時、「広場があって人がいる、気持ちいい風が吹く。それで十分じゃないですか。」と誰かが言った。その言葉は自分のこんがらがった頭の中をするすると解きほぐしてくれた。そして、もっと根源的に人間が何で満たされるのか、1人の人間としての身体感覚を見つめ直すきっかけをくれた。

もちろん私が元々持っていた感覚もそれもそれで間違っていないのだけど、それが全てじゃない、ということだ。感情は作り込まれたコンテンツやお金のみで生み出せるものじゃない、ということ。行きすぎた資本主義に加担しない方法、というと大袈裟に聞こえるが、そんな小さなヒントが詰まっているのかもしれないと希望を感じた。
そして、こんな素敵な場所を継続するためには、地道に手を動かさなきゃいけないということも当然だが大きな学びだった。どんな理想を語っても、実現するためには毎日広場を開けなきゃいけない、目の前の人との関わりを大事にすることが何より大事なのだ。結局自分たちで手を動かし続けることが一番大事であり難しく、それをする人が、何より一番偉いのだ。毎日広場で子どもたちと笑っている、というとてもシンプルな理由でジョージさんを尊敬している。
スプリングキャンプは7日で終わるが、ひろばの日常は続いていく。見たい景色を見るまで発想に責任を持ちたいと思うし、7日間考えたことをその場限りのアウトプットで終わらせたくない。実装できなければ意味がない。だから継続的にひろばに関わりたい。
いやそんな大袈裟な責任感みたいなものじゃなくて、ただひろばを見ていたいしジョージさんに会いにいきたい。素敵な景色を見ていたい、子どもたちと遊びたい。ひろばの1人でいたい。そんな理屈ではない理由で、私はこれからも長野に遊びに行く。

みよたの広場の挑戦は本当に最高だ。それに実現できたら最高だし実現までの足掻くこと自体も一つのシンボルであり価値があることだ。
東京で2年前飲み屋であったおっちゃんが、愛は祈りだ、と呟いていたことを、キャンプで何回も思い出した。本当にその言葉の通りなのだと思う。私たちは祈りという形でしか愛を語れないのですから。祈りが可視化されるようなものを作れたら、それがずっと未完成で誰かの手によって紡がれていったら、それはなんて価値のあることでしょう。
そして、自分が生まれ育った東京でも。普段暮らす大好きな東京でも、金銭を介せずにありがとうの循環が生まれる場所を作れるはずだ、作ってみたい。それはこの一週間を通して私の小さな夢になった。
最後に!今回のキャンプで関わってくださったジョージさん、他の参加者3人、相馬さん、本間さん、起業家の皆様、友の会の皆様、鬼ごっこに混ぜてくれた子どもたち、全員からたくさんのものをいただいたなあと心の底から思います。たった7日でもう御代田の虜です。ありがとうございました。また御代田に帰って来た時はぜひ一緒に飲んでください。


チタン

コモンズを体現する。その難しさを痛感しつつ、考えを巡らせる濃密な1週間であった。私は当初、コモンズにおけるカフェの在り方を理解できていなかった。単に利益を追求せず、人々の居場所としてのカフェを実現する。空間設計からメニュー開発、環境づくりなど思考することは多様にあった。しかし、その過程において、自分は固定観念に縛られていることに気づいた。カフェ以外の方法を模索するという選択肢を用意しなかった。最終的な着地点としてカフェがあったにしても、コモンズを体現する上で正解が一つでないことを知った時、自身の視野の狭さを感じた。その気づきをもたらしてくれたメンバーには大変感謝している。

スプリングキャンプを通じて、広場に関する二つのことを考えた。一つ目は音だ。人々の笑い声、子供の泣き声、薪を割る音、焚き火の燃える音、無音。すっと一息した時に聞こえる多彩な音は広場に欠かせない魅力である。カフェ当日、夕暮れ時に、目を瞑り、耳を澄ませてみると、焚き火の音と人々の話し声に心地よさを覚えた。森林に身を置いた時に小鳥の囀りや葉の揺れる音が聞こえるよう、広場も生態系として存在していることを認識させられた。

二つ目は人だ。この広場に関わる人々の魅力は言葉では語れない。直接お会いして、一緒に広場で過ごすことで初めて知ることができる。DIYを通じて一緒に窓を完成させた時の感動は忘れない。焚き火を囲んで語り合った時の安らぎは一生ものである。強く結びすぎず、ほどけすぎない、ゆるやかな関係性が心地良かった。場所だけ用意されてもコモンズはなり得ない。そこに集う人々がいて、一人ひとりが生きるために互いを尊重し、与え合い、認め合う。背を向けず、向き合い続けることでコモンズは完成するのではないかと思う。

生きるって難しい。でも楽しい。寒くてもその分、人の温かさやご飯の美味しさは倍以上に感じることができる。人間関係が難しくても、話し合いを通じて、歩み寄れる。順風満帆な人生はないのかもしれない。しかし、その複雑さや不器用さが人間の醍醐味であり、それを乗り越えた先に、コモンズとしての生き方があるのではないかと感じた。

「大人が自分主体で過ごせる」をコンセプトに作り上げたカフェは完成しておらず、現在も発展途上である。しかし、それが良いのかもしれない。今あるニーズを満たしつつ、これから生まれる新たな価値を取り入れていく。共創して進化し続けるカフェこそ、コモンズとしての広場にあるべき形なのではと思う。春休みの最後、みよたの広場に関われたことに深く感謝する。今後も広場がみんなの居場所として続いていくことを心から願い、「ありがとう」が循環する未来を作る一人として応援したい。ありがとう。


ゆい

スプリングキャンプを振り返って

振り返ってみると、信じられないくらいつめつめの1週間だった。御代田に到着すると早速「そもそもみよたの広場とは何か」から始まって、長野で活躍するたくさんの人の話を聞きに行き、意見をもらい、御代田の情報を知り、広場に関わる方々からフィードバックをもらう。インプットが盛りだくさんだった。その盛りだくさんのインプットをひとつのアウトプットとして形にしていくこと。経験足らずな私には知らないことだらけで、本当に本当に難しいことだった。

そんな余裕のない日々を過ごす中でも、お裾分けをしてくれる人。親身になって話を聞いてアドバイスをしてくれる人。お手伝いするよ、と顔を出してくれる人。癒しをくれる人。私の声に耳を傾けて寄り添ってくれる人。御代田には優しい人がたくさんいて、多くのgiveを受け取った。みよたの広場を介して、御代田に住む人のやさしさに触れることができた。
誰かのために自分の時間を使って行動すること、そうやって生きていくことが人生の豊かさを彩っていくのではないかと感じた。あげることはうれしいこと、らしい。なんて素敵で共感できる言葉なんだ。と思うからこそ、次は私がもらったgiveをつないでいきたいと思っている。

結局今も、コモンズとは何かをちゃんと言葉で説明することはまだできていない。けれどこの1週間を経て、コモンズというものを体感することは間違いなくできたと思っている。みよたの広場が完成しないみんなの広場であるように、コモンズとは何かという問いに対する明確な答えを出して終わってしまわずに、コモンズって何なんだろうなあというクエスチョンマークを頭の片隅に置きながらこれからを過ごしていこうと思う。

正直しんどい瞬間はたくさんあったし、帰りたいと思った時もあったけれど、みよたの広場に向き合う1週間の中では、自分の未熟なところや足りないところ、反対に自分の好きなところや長所、そしてわくわくすることは何かにも向き合うことのできた1週間となった。スプリングキャンプが始まる前は短いと思っていた1週間だが、振り返るとびっくりするくらい長かった。濃かったなあ。刺激だらけだった!

ジョージさんをはじめ、お世話になった皆様本当にありがとうございました。


Haru

心理学者のアドラーは「すべての悩みは対人関係の悩みである」という考えのもと構築されている。

人間関係を良い状態に保とうと意識した上でプロジェクトに取り組むことは必要であると認識しながらも、認識が薄れたり根本的な考え方が間違っていたりすると関係は破綻する。かくいう私も些細なひびが大きな影響をもたらすことを表層でしか理解できていなかった。

「チームビルディングしない?」

一日が過ぎた朝にRが提案した。

一般的にチームビルディングはメンバーの個性を活かし、今のチームをより良くするために行われる。今のチームが能力を活かしきれてないと感じ提案してくれたのだろう。

とりあえず、私たちはRの提案を受け入れ、指示通りに求められている情報を提供した。私からはどうにも、変わったようには見えなかった。だが、目指す先もまた見えていなかったので改善提案することすらできなかった。

数時間後、互いの心の内にある気持ちが爆発しチームが分裂した。彼女はこれを予期して今朝提案したのだろうが私は気づけなかった。修復するためにはどんな進め方に修正すれば良いか、どんな声をかければよいか、どんな振る舞いをすれば良いか… 自分ですら処理できているかわからないほどに思考が目まぐるしく、回り続けた。

その後チームビルディングと言えるものではないが、どうしたらプロジェクトが上手く進むのか、メンバー個人個人が気持ちよく進行できるのか話し合い、一旦二つのチームに分かれそれぞれが意見を持ち寄り、それを合わせたアウトプットをチーム全体で導くことになった。

しかし、二つのチームに分かれたものの、うまく機能せず最終的にはまた一つのチームで考え直すこととなった。

かなりバタバタしていたが、最終的にカフェの体験を向上させるアウトプットが完成した。数多の議論の末のアウトプットに乗せられた憶いは言語化するのが烏滸がましいほどに濃密さを孕んでいた。

私は今回の分裂について、それぞれが考える合理性を突き通すような行動をとっていたことが原因であると考えている。

私たちの限られた頭で導き出す合理性なんて大したものじゃない。それよりも私たちが非合理だと思っているものに真の合理性が潜んでいるかもしれない、そうやって無知に対して探究し、疑い続ける姿勢が何よりも大事だとスプリングキャンプで再認識した。影のできやすい領野に目を向け、関心を灯す努力を忘れてはいけない。

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