障害者手帳って烙印なの?

 先日長男と美術館へ行って、入場チケットを買うのに長男の療育手帳(知的障害児者の障害者手帳)を提示した時のこと。公的な文化施設や映画など手帳を提示すると介助者も無料になったり割引になる場合が多いので、うちは療育手帳割引を便利に使わせてもらっています。割引になることで文化に触れる機会が増えるのはいいことだし、出かける機会が増えればそれだけ社会参加できるし、本人だけが外出するのが難しい人も介助者の入場料減免があるおかげで介助を得て施設を利用できて、まさにいいことづくめ…なのですが、提示した手帳を見た受付の方がものすごく申し訳なさそうに口早に対応されて、少しモヤモヤを感じました。

 きっと受付の方は気を使われたんだと思うんです。障害があることを人前に晒してしまう時間を少しでも短くしようとか、どう対応していいかわからず慌ててしまったとかそのくらいのことだとは思うんですけどね。でも私、何か悪いことをしているわけでも恥ずかしいことをしているわけでもなくて、公的に認められたサービスを受けているだけなのになんかこう腫れ物に触るような対応をされたのに少し傷ついたんですね。取るに足らない小さな傷付きなんですが。

しかしながら、手帳を持っていることを公にしたくないという障害のある方がたくさんいらっしゃるのも知っているので私の感覚が正しいとか障害者(の家族)を代表するなどと思っているわけでもありません。でも少なくとも見られるのを前提で受付で手帳を提示しているのだったら、事務的に対応してくれた方がスマートなのかな、という気持があります。

中途で障害を負う方や、差別や偏見を受けやすい障害の方もいらっしゃるので、なんでもカミングアウトするのがいいと思ってるわけではありません。隠すことで自分を守る必要がある場面も、今の世の中だときっとあると思います。

うちの子の場合は生まれた時からの自閉傾向と知的障害なのでこれが普通で私たちの日常です。障害者手帳を持っていると、制度によって社会参加の機会を少しでも平等にしてしてもらえるということで、安心感を感じています。だってそれがなければ圧倒的に能力的に不利な立場に立たされているこういった人たちは社会から弾かれてしまうでしょ。

大人と同じテーブルで食事をするときに、赤ちゃんがベビーチェアに座るのと同じです。大人と比べて圧倒的に体格の劣る赤ちゃん(障害者と置き換えてみましょう)もベビーチェア(手帳)があれば家族と同じテーブルでの食事(社会参加)ができるわけです。

周りが気を遣って体格が劣ることを見なかったことにして、みんなと平等に大人用の椅子に座らせる…ことを普通はしませんよね。家族と一緒の食事に参加できることが平等です。

こういった福祉を利用することを弱者の烙印を押されたように感じる人も確かにいますし、福祉を使わずに普通の社会参加ができなければいけないと思う人もいます。でも、福祉制度は圧倒的に社会で不利な立場に立たされ続けてきた人たちやその家族、応援者たちが「自分達に基本的な人権が保障されていないのはおかしいじゃないか」と訴え続けて血が流れるような努力の末に勝ち取ってきた歴史の上にあります。

その話はまた今度にしましょうね。

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