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友の死。

12年前、兄が亡くなった時、5年前、父がなくなった時、これほどまでに悲しみを感じることはなかった。しかし、先日、7月31日の早朝、友の死を知り、本当に悲しく、今でも思い出すたびに涙が出る。友とはそういう存在だ。

彼との出会いは大学に入った時だ。早稲田大学法学部に入り、同じクラスになった。彼は運動系でアメリカンフットボールのクラブに入った。私は同じ運動系でも軟派派だったので、テニスとスキーのサークルを運営していた。本を貸し借りすることはよくしていた。1週間で1冊読む、彼のそんな習慣はすでにこの頃から始まっていた。

一番の思い出は、彼の父がある日失踪したという事件だ。池袋西口からほど近い千早町に彼の家はあり、東池袋のアパートに住んでいた私は何度か彼の家に遊びに行ったことがあり、彼のお母さんにも弟の敦くんにも何度か会っている。一度だけ着物姿のお父さんを見かけたことがあるが、なんで昼間から着物を着て家にいるんだろうと、そんな不思議な印象の父は、白髪で作家のような雰囲気の方だった。その父がある日いなくなった。当然家族の収入はなくなり、長男の彼はアルバイトの生活になった。私ができることは米をあげるくらいのことだった。幸い私の実家は群馬県の農家だったので、お米だけは絶えずに送ってもらっていたので、主食に困ることはなかった。その米をあげるくらいしかできなかった。それでも彼は毎日いくつものバイトを掛け持ちして、移動にかかる時間と経費を軽減するために、クルマを買った。トヨタの1600GTだった。白のマニュアル車で、時々乗せてもらった。そのクルマで湘南へ行き、サーフィンをした時に、彼がスケッグをバキバキと折ってしまったのが思い出で、よく笑いながら話した。

一度彼を私の田舎に連れて行ったことがあった。私の高校から早稲田に入学したのは小渕恵三以来だということで、講演会みたいなことをやるから来てくれと呼ばれ、その話を彼にしたら俺も行くよと一緒に行った。このことも会うたびにネタとしてよく笑った。

麻雀もよくした。彼は稼がないといけないからいつも本気だった。1役でも多くつけようとオープンリーチを好んでしていた。それでツモるから、いつも彼には負けていた。麻雀以外の時はかれはアメフトに汗をかいていた。私は女子大生を集めたサークルテニスとスキーでチャラチャラと遊ぶ毎日だった。

大学4年になり、夏休みが終わってから就職活動が始まり、私は父に紹介されて中曽根康弘さんの事務所を議員会館に訪ねた。その時、筆頭秘書の上和田さんという人に紹介されたのがTBSのスポーツ部長だった。名前は覚えていない。あまり乗り気はしなかったが、まだ何をしたいのか分からないでいた私はその話を彼にしたら「俺も連れて行け」というので一緒に行った。その時のTBSの部長には、彼のことが印象に残ったみたいで、「君は電通に行け」と電話があったという。私には何も連絡がなかった。この話しが出たのが去年のことで、彼は私と一緒にTBSに行ったことは忘れていて、部長から彼に電話があったことを私はその時初めて知った。「じゃあ、電通に入れたのはお前のおかげなんだ」と、その夜は彼にごちそうになった。

私もワンルームマンションの小さな広告制作のプロダクションに入り、卒業前から働くようになった。彼は電通の試験に受かり、内定をもらっていた兼松江商を断った。その判断基準は給料の高い方だった。苦労した彼には明確が基準があったが、目標もまだはっきりとしていない私は、とにかく早く大学から出で、社会を経験したかったので、卒業式にもまともに出ないで働き始めていた。

彼が電通で営業をしている頃、一度だけ仕事を手伝ってくれと電話があった。コンタックのCMの担当で、ムービー撮影の合間にスチール撮影をして欲しいというので、大先輩のカメラマンと二人で参加した。主演は中村勘九郎さんだった。CMのディレクターは当時のヒットメーカー、MOTHERSの川崎さんで麻布十番にあった会社のすぐ近くに事務所があった。その頃の彼は毎日映画を1本観るんだと、小津安二郎の作品を観ていた。東京物語や秋刀魚の歌。私も観てみたが、あまり面白いとは感じなかった。程なくして彼は社内の異動試験に受かったと連絡があり、しばらくしてから彼の活躍をブレーンや宣伝会議、広告批評で見つけるのが楽しみだった。JR東日本のキャンペーンのことは当時から有名で、私も同じタイミングでJR東日本の駅ビルのキャンペーンなどを請け負っていたので、彼の名前をよく耳にした。とてもすごい仕事をしていたので、ちょっと遠くに行ってしまったなと感じた。

それでも、日本で最初のクリエイティブエージェンシーを作るという時は、一緒にご飯を食べた。青山3丁目にあったリビエラクラブというスポーツジムのレストランで1時間待たされ、彼は表れた。彼はいつもスーツをきちんと着ていた。その方が楽だろう、と身長の高い彼にはその姿がとても似合っていた。電通を辞めるまでの経緯、これからのことを聞いた。もちろん応援したけど、同じ広告業界でも私とはまったく違う世界だった。もちろん羨ましくもあり、輝いて見えた。「すごいな、お前は。」でも、彼からも「お前だってよくフリーで生きているよ」とも言われたのが嬉しかった。彼は、私の田舎の実家の風景を見ているので、私のことを田舎のお金持ちの次男坊だと思っていたらしい。でも、その時にお互いのことを話して、分かり合えた。

それからはお互いに一番忙しい時を過ごしていたので、なかなか会うことはなかった。50を過ぎて、時々ゴルフに行ったり、食事に行くようになった。アメフト部の仲間でアサヒビールに就職して、役員にまでなったもう一人の親友と一緒に食事に行くようになった。そんなペースがしばらく続いた。そして、最後になったのが2月の食事だった。表参道にある中華屋さん、彼の会社のすぐ近くにあるお店に集まった。3月になり、コロナが始まって、以来なかなか会えなかった。5月になり、彼から入院していると聞き、それでも6月には退院したと。7月になったら食事に行こうと連絡は取り合っていたが、コロナもあるので、なかなか会うこともできなかった。再び入院したと連絡があり、そして。

岡 康道。
お前のことが好きだった。大学時代の仲間の多くは弁護士を始め、金融や保険、商社に行って、みんな優秀な連中ばかりだったけど、ただ一人同じ業界で生きていることが頼りだった。広告のことも話せる貴重な存在だった。なにより偉大な刺激をもらえるのが一番の幸せだった。会って話をするのが楽しみだった。あの時間をもう持てないのが、こんなに寂しいとは。今でも涙が出るよ。もう苦しまなくていいから、安らかにねむってくれ。

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