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延命するフェアリーテイル――実写映画『美女と野獣』における女性像(前編)

本稿は、2020年に発表されたインディペンデント雑誌「海響1号 大恋愛」に私・小澤みゆきが執筆した文章です。長い文章ですが、今回公開することにしました。

1 はじめに

 『美女と野獣』について、日本の一般的な読者が連想するのは、一九九一年公開のディズニーによるアニメーション映画、および二〇一七年公開の実写リメイク映画であろう。特にエマ・ワトソンを主演に据えた実写リメイク版は大ヒットを記録し、日本国内でも同年に公開され、国内興行収入が一二四億円を記録し同年の首位となった(1)。


 しかし、『美女と野獣』を実写映画化したのはディズニーだけではない。初めて映画化されたのは一九四六年で、監督は稀代の芸術家ジャン・コクトーだった(2)。二〇一四年にはフランス映画として、クリストフ・ガンズ監督による実写映画化がなされている。クリストフ・ガンズ版には、主人公のベル役にレア・セドゥ、野獣役にヴァンサン・カッセルと、現代フランス映画を代表する俳優が起用されている。単なる子ども向け映画に留まらない、芸術性を備えた作品となっている。


 他にも、二〇一二年にはマーク・アンドレアス・ボーチャート監督によるドイツでのテレビドラマ化(3)が、二〇一七年には、イタリア人のファブリツィオ・コスタ監督によるイタリア・スペイン合作の同じくテレビドラマ化がなされている(4)。


 このように、二〇一〇年代だけでも『美女と野獣』の実写作品は四作も存在している(5)。各作品の細かい設定や演出の差異だけでも大変興味深いのだが(6)、とりわけ筆者が関心を寄せているのが、なぜ一八世紀に一人の女性によって書かれた物語が、これほどまでに何度も形を変えながら多くの人を魅了し続けているのか、という点だ。まるで『美女と野獣』という物語自体が、時代を超えて生き続けるひとつの生命であるかのように感じられるのである。


 本稿では、主に二〇一四年のクリストフ・ガンズ版と、二〇一七年のディズニー実写版に焦点を当て、比較検討しつつ、二一世紀においてアップデートされるおとぎ話のあり方について考察したい。具体的には、主人公であるベルのキャラクター造形と、悪役を支える脇キャラクターについて見ていきたい。

 2 原作と映画作品について

 2‐1 原作のあらすじ

 『美女と野獣』の原作は、一八世紀にフランスの作家・ヴィルヌーヴ夫人が執筆した。まずは、このヴィルヌーヴ版のあらすじを整理したい。ヴィルヌーヴ版は、①野獣とベルの一連のあらまし、②王子による語り、③さらに精霊による語りという、三部構成になっている。以下、①のあらすじを記したい。


 フランスのとある街で、主人公・ベルは、商人である父親と、兄弟・姉妹とともに暮らしていた。上の姉たちが浪費家でいじわるな存在であるのに対し、末娘のベルは優しく気立てのよい、美しい女性でもあった。ある日、父親の所有する船が沈んでしまい、一家は突然、破産に追い込まれる。田舎で貧乏暮らしを始める一家。なんとか財産を取り戻そうと街に向かう父親に、ベルは一輪のバラだけをお土産に願う。


 しかし、父親は道に迷い、古城へと迷い込んでしまう。城に咲いていたバラを娘のために摘んだ父親は、突如現れた野獣に捕まってしまう。野獣は父親に対し、娘を身代わりによこせ、さもなければ家族ともども皆殺しにする、と脅しをかけ、父親を家に戻す。その話を聞いたベルは、父親の身代わりとなり、野獣の城で暮らすことを決意する。


 城にやってきたベルに対し、野獣はとても慇懃に、礼儀正しい態度で接する。豪奢な宮殿のすべてを彼女に与えたのだ。また、ベルの身の回りの世話はサルたちがすべて行った。野獣は一日に一度、夕食後の時間にのみベルの前に現れ、毎回「あなたと一緒に寝てもいいですか」とベルに尋ねる。当然のごとくベルが拒否すると、野獣は「おやすみなさい」とだけ言って去ってゆく。


 また、ベルは毎夜、魅力的な青年と美しい貴婦人の夢を見る。夢の中の青年に惹かれていくベルだが、彼らはベルに「うわべに騙されてはいけない」と告げる。


 何不自由ない生活を続け、野獣に心をひらいていくベルだが、一方で日に日に家族への思いが募り、少しだけで良いから家に帰らせてくれと野獣に懇願する。野獣はその望みを受け入れるが、ベルを失った悲しみで死にかけてしまう。やがて城へ戻ってきたベルは、野獣を懸命に介抱し、愛を告げ、結婚の申し込みを承諾する。そしてふたりは同じ床で眠りにつく。
 ベルが目を醒ますと、となりには夢で見た青年が横たわっていた。青年は、野獣の本当の姿だったのだ。


 そこに突如、女王と名乗る人物と、夢の中の貴婦人が現れる。青年は女王の息子=王子で、貴婦人は精霊だったのだ。女王は、息子が人間に戻ったことをひどく喜ぶが、その結婚相手であるベルが商人の娘であることを知り、憤慨する。精霊は女王をたしなめ、女王はふたりの身分違いの恋を認める。そして、王子とベルは改めて新郎新婦として、愛情を確かめ合うのであった―。


 以上がヴィルヌーヴ版『美女と野獣』の第一部、野獣とベルが出会い、ハッピーエンドを迎えるまでの顛末である。この後、第二部、第三部と続き、野獣と精霊によって、過去に起こった出来事が語られる。様々な人物―ベルとその家族、野獣=王子、女王、精霊たち―が入り乱れるこの物語は、「複雑で過剰な印象」かつ「万人受けとは言いにくい」と評されている(7)。


 このヴィルヌーヴ版を、子ども向けに要約したのがボーモン夫人という人物だ。ヴィルヌーヴ版に教育的要素を加えられたこのバージョンは、広く世界で親しまれるようになった。ヴィルヌーヴ版とボーモン版の具体的な差異は本稿では扱わないが、女王が登場する部分以外はほぼ共通している。
 以降、このヴィルヌーヴ版の第一部を「原作」として、後述する映像作品と比較していく。

 2‐2 コクトー版での改変・脚色

 一九四六年のジャン・コクトー監督の映画版(以下、コクトー版と表記)は、原作にほとんど準拠した内容となっているが、一点だけ異なる要素がある。物語を盛り上げる悪役、いわゆる「ヴィラン」の存在だ。原作ではベル、ベルの家族、野獣の三者で主に話が進んでいくが、コクトー版には、新たにアヴナンという青年が登場する。アヴナンは美しい青年で、物語冒頭からベルに結婚をせまる。しかし、父のそばにいたいと願うベルは、アヴナンを愛しながらもその申し出を断り続けていた。


 物語終盤、ベルが野獣の城から一旦家族のもとに戻ってくると、アヴナンはベルの兄と共謀し、野獣を殺して城の財宝を奪おうと試みる。しかし、精霊に罰を受け、野獣の姿にされてしまう。また、同時に死にかけていた野獣は、王子の姿に戻る。この、人間に戻った王子は実はアヴナンと同じ顔をしている。このコクトー版が投げかけるテーマについては、本書七八頁で考察したとおりである。


 物語を盛り上げるためのヴィランとして追加されたアヴナンというキャラクター。彼は、後の映像作品に大きな影響を与えている。

 2‐3 ディズニー版での改変・脚色

 ディズニーは、原作とコクトー版を受けて、アニメ版および実写映画版でどのような脚色をしていったのだろうか。特に本稿では実写映画版をベースに論じるため、二〇一七年の実写映画版を便宜上「ディズニー版」と呼称したい。ディズニー版では、原作の設定を大幅に改変している。


 まず、主人公であるベルは父親と二人暮らしで、とある村の住人のひとりに過ぎない。父親は商人というよりも発明家や職人に近い仕事をしている。ベルは幼い頃に母親を失っているため、かわりに料理や洗濯など、父親を支える家庭内労働に従事している。また本と物語を愛する進歩的な女性でもあり、父親に似た発明家気質も見せている。乗馬したり、閉じ込められた牢屋から果敢にも脱出を試みたり、ディズニーらしい行動的なヒロインに落とし込まれているのも印象的だ(8)。野獣と出会った直後は彼を嫌悪していたが、やがて彼の隠れた知性や優しさに触れ、好意を抱くようになる。


 また野獣も、大きくキャラクター改変がなされた。原作の野獣は、ベルに一緒に寝るようストレートに依頼するなど、愚鈍な印象こそあるものの、心は優しく、ベルに対して最初から客人として接する。対するディズニー版では、怒りっぽく、わがままで、自分勝手な存在として描かれている。しかし、物語が進むとともにベル同様、他人を理解し心を開き、徐々にベルへの愛を知るなど、成長してゆく様子を見せる。


 その他に、魔法のバラというアイテムがある。時間の経過とともに花びらが散ってゆき、最後の花びらが散るまでに野獣が愛されなければ、王子は永遠に野獣の姿のままである、という魔法がかけられているのだ。
 こうした設定の代わりに、原作でベルが青年と精霊の夢を見るくだりはすべてカットされている。ベルと野獣のビルドゥングスロマンとしての側面がより強調されていると言えるだろう。


 そしてヴィランとして登場するのが、ガストンという人物である。ガストンは一言でいうと見た目と筋肉だけが取り柄の男性で、自らの美しさと力強さに自惚れている。彼が物語冒頭からベルに求婚し、自分のものにしようとするところは、コクトー版のアヴナンを明らかに踏襲している。ガストンはアヴナンをより発展させたキャラクターで、野獣の恋敵に当たる。クライマックスで、ガストンは野獣と戦いを繰り広げ、死んでゆく。(9)


 このようにディズニー版の主だった特色は、ベルと野獣の両者の精神的な成長譚であることと、ガストンというわかりやすい悪が存在すること、だろう。進歩的な女性であるベルが野獣と出会い、お互いに対する理解を深めながら愛し合い、また悪を打ち破るという、わかりやすい演出である。

 2‐4 フランス版での改変・脚色

 対して、クリストフ・ガンズ監督によるフランス版実写映画は、どんな作品だろうか(なお、本来であれば監督名から「クリストフ版」と明記すべきであるが、ディズニー映画=アメリカ的世界観との差異を明確にするため、本稿ではあえて「フランス版」と記したい)。


 本作は、ディズニー版に先んじて二〇一四年に実写映画化された。主だった設定は、ヴィルヌーヴ版原作にかなり忠実なのが特徴だ。ベルは大勢の家族と暮らしている。商人である父親、わがままな二人の姉、そして野心的な兄。姉や兄たちと異なり、ベルは一見おとなしく、心優しい女性である。一家が財産を失い、人里離れた村でつつましく暮らし始めると、ベルは積極的に家事に従事するようになる。おそらく以前の贅沢な暮らしでは召使いがいたのであろうに、ベルは楽しそうに家事をこなす。文句ばかり言う姉たちにも積極的に家事をするように促すし、父親には、以前よりも家族が一緒になれて嬉しいと述べる。清貧とも呼べる身なりで、生き生きと畑仕事をするベルの姿が強調されるのが、フランス版の前半の特徴だ。


 また、野獣が夕食時にのみ姿を見せ、ベルに結婚をせまるというあらましも、原作に準拠している。しかし、原作と異なるのは、ディズニー版と同じように野獣がベルに対して当初は乱暴な態度を見せることだ。ベルが毅然とした態度を取ると、野獣は暴れ、部屋に戻っていく。
 また、ベルが眠るたびに不思議な夢を見るのも、原作を踏襲している。

 このフランス版には注目すべき点が三点ある。


 一点目は、王子がなぜ野獣になったか、というプロセスが重点的に描かれているところだ。王子にはかつて妻がおり、その正体は、実は牝鹿が、自然の〈神〉の力によって人間になった姿であった。愛とは何かを知るために人間になった牝鹿=プリンセスは、王子を愛しつつも、彼の性格を悩ましく思っていた。王子は狩りが趣味だったのだ。


 ある日、森の中で、牝鹿の姿に戻っていた彼女を、王子はそれとは知らず仕留めてしまう。愛するプリンセスを自分の手で殺めてしまった王子は、〈神〉の罰を受け野獣の姿になってしまう。ベルが夜毎見るのは、亡きプリンセスとの邂逅の夢なのである。


 プリンセスは、王子の呪いを解くのはベルであると確信し、自分と王子との過去の記憶を夢の中でベルに見せる。結果として、ベルは王子の痛ましい過去を知る。野獣に同情し、傷ついた彼を癒やして、人間に戻す。クリストフ監督は、このストーリーはギリシャ・ローマ神話に着想を得た創作であるとメイキングで述べている。


 二点目は、物語を貫く自然信仰である。まず前述の通り、映画には自然の〈神〉という存在がある。キリスト教な価値観とは異なる〈神〉の力によって、王子は野獣に、牝鹿はプリンセスに姿を変える。その〈神〉の姿は、作中では嵐のような形で表され、直接見ることはできない。原作やディズニー版では、具体的なヒトの形を伴って精霊や魔女が出てくるのに対して、この〈神〉は言葉を発することがない。


 また、野獣の城にたどり着くには、棘だらけの草が生い茂る中を通っていかなければならないし、物語終盤では、城の庭の地中から巨大な岩でできた、『もののけ姫』のデイダラボッチのような巨人が登場する。こうした演出について、クリストフ監督は日本のポップカルチャーからの影響を認めている。特に『AKIRA』や宮崎駿作品、ゴジラシリーズといった映画から、前述のような構想を得たと明言している。


 三点目は、この物語のヴィランについてである。本作には、アヴナンやガストンのような、野獣の恋敵となる人物は登場しない。代わりに、ペルデュカスという怪しげな男性が悪役として出てくる。


 ベルの兄・マキシムは、いかがわしい酒場に出入りし、ペルデュカスに多くの借金をしていた。そのためマキシムはお尋ね者としてペルデュカスに追われていた。映画後半では、マキシムとペルデュカスは野獣の城に乗り込み財宝を奪い取ろうとする。しかし、ペルデュカスは最終的に〈神〉の怒りを買い、命を落とす。


 また、もうひとりのヴィランとして、ペルデュカスのパートナー・アストリッドの存在がある。アストリッドについては次章で詳しく述べるが、彼女の職業はタロット占い師だ。物語序盤、アストリッドは占いの不吉な結果から、ペルデュカスの行動に釘を刺す場面がある。しかし、傲慢なペルデュカスは聞く耳を持たない。この結果、アストリッドはペルデュカスとともに最終的に命を落としてしまう。


 このように、フランス版はディズニー版と比べ、より複雑な構造を持つ。ヴィルヌーヴ版に準拠しつつも、深いバックストーリーと人間模様が描かれていると言えるであろう。

 3「家庭の天使」としてのベル――ヴァージニア・ウルフの職業論より

家庭の天使はとても同情深いのです。とても魅力的です。自己中心的なところが少しもありません。家庭生活を営む上での難しい技に熟達しています。日々、自己犠牲をいといません。(中略)要するに、自分自身の意見とか願望をもたず、いつも他の人びとの意見や願望にそって考えようとする性質なのです。
ヴァージニア・ウルフ『女性にとっての職業』(10)

 筆者は、ディズニー版・フランス版ともに、ベルには部分的に「家庭の天使」的な側面があると考えている。両方とも、母親が不在の家庭の中で、彼女らは懸命に家庭のために尽くしている。

 まず、物語冒頭でのベルのキャラクター設定に着目したい。


 ディズニー版のベルは、本好きで広い世界を夢見る女性である。オープニング曲「朝の風景(Belle)」では、彼女が家から市場へ出かけ、本を貸し借りする場面が強調される。しかし、村の住人には変人(a funny girl)扱いされている。この「本好きで、周りと馴染めない」という設定は、ディズニーが追加した演出のなかでも重要なものだ。


 また彼女は、発明家の父の才能を受け継いでいる。村の女達は洗濯場で手を使って洗い物をしているのに対し、ベルは洗濯場で馬を歩かせることで作業を自動化する(=洗濯機の発明)。その浮いた時間で本を読む。進歩的な女性の姿だ。


 しかし、ベルの日々の仕事はあくまで家事労働だ。そもそも、洗濯をするのも市場でパンを買うのも、父親との生活のためである。父を支えることが彼女の仕事であり、結婚する意志もない。


 フランス版のベルも、家事労働に従事する女性だ。一家が財産を失い、田舎の家に引っ越すと、ベルは生き生きと家事をこなす。畑を耕し、洗濯をし、文句を言う姉たちにも働くよう促す。

 次に、物語の結末について見ていきたい。


 ディズニー版では、ハッピーエンドを迎えたあとのベルには、城でプリンセスとして暮らす未来が待っている。実写版では、この後のベルの人生は描かれないが、実はアニメ版では少しだけそれを見ることができる。スピンオフとして制作された『美女と野獣 ベルの素敵なプレゼント』のラストシーンでは、人間に戻った王子とベルが、村の人々や使用人とともに、幸福なクリスマスを迎えているのだ。


 対してフランス版のベルは対象的だ。王子はベルと結ばれたあと、王子の身分を棄て、バラ園の農主になる。ラストシーン、子どもたちを寝かしつけたベルは家を出て、農園にいる夫のもとへと向かい、二人は抱き合って、物語は幕を閉じる。歌うことも踊ることもしない。この結末はディズニー的ハッピーエンドのアンチテーゼとも取れて興味深いところだ。


 こうした差異があるふたりのベルだが、共通している部分がある。それは野獣への態度である。どちらのベルも、最初の出会いで野獣に驚きはするものの、毅然とした態度で接している。ベルが野獣に憤慨するのは、そのルックス=恐ろしい見た目のためではなく、利己的で無愛想な態度に対してである。フランス版ベルに至っては、実家に一時的に帰ることを嘆願する代わりに、野獣とのダンスを提案するなど、駆け引きまで行う。


 コクトー版は、単純に野獣の見た目の恐ろしさを強調していたにすぎないが、ディズニー版・フランス版は、外見だけで物事を判断しない、勇気ある女性としてベルを捉えている。


 彼女たちは、ウルフの指摘そのままのように自分自身の意見や願望をもっていないわけでは全くない。特にディズニー版のベルは狭い村から、広い世界を冒険することを夢見ている。しかし実態として、彼女たちは父親や夫(元野獣)への無償のケア労働から抜け出せていないように見受けられる。(ディズニー版に至っては、「物語後」のベルは、お城の使用人に労働を「外注」していると考えられるため、これからすべきことはプリンセスでいること―城で王子や使用人たちと仲良く暮らすこと―以外、何もないといえる)。


 ディズニー版・フランス版のベルはどちらも、家事を通して家族と繋がることに幸せを覚え、無償のケア労働に従事しているという点において、「家庭の天使」像を内面化していると言えはしないだろうか。

 (後編に続く)


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