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延命するフェアリーテイル――実写映画『美女と野獣』における女性像(後編)

4 第二のヒロイン

 次に、ヒロインではなく脇キャラクターについて考えたい。フランス版に登場する女性・アストリッドである。前述の通り彼女は悪役・ペルデュカスの恋人、兼、タロット占い師である。彼女は酒場で、ペルデュカスと、その取り巻きの男たちと行動をともにしている。


 彼女は登場シーンで、ペルデュカスの未来を占いながら、「過去に負った傷も私が予言したでしょう」と述べる。このシーンで、アストリッドはペルデュカスに単に依存する恋人なのではなく、彼と対等な立場の関係であることが示唆される。そして大勢の取り巻きの男たちがおり、ペルデュカスとアストリッドを中心としたコミュニティが形成されていることもわかる。


 このように物語序盤では、悪役ペルデュカスのパートナーとして描かれていたアストリッドだが、物語が進むにつれ、ベル/野獣側でも、ペルデュカス=ヴィラン側でもない、中間的な存在に移行していく。


 注目したいのは、野獣の城に乗り込んでから、アストリッドが精霊に導かれて「黄金の矢」を手に入れるシーンだ。「黄金の矢」は、ストーリーの鍵となる重要なアイテムである。精霊は、城にやってきたアストリッドに対し、矢を取るようにこう促す。

 聖なるアストリッド/大いなる恐怖と血/全力で恋人を守って/逃げなさい/そうすべきよ/忠誠を誓って/そうしないと永遠に苦しむ/黄金の矢を取って/アストリッド/おいで/恋人を救って/黄金の矢を取りなさい

 ここで疑問なのは、矢を手にするのはなぜベルではないのか、ということだ。悪党が乗り込んできたときに、精霊に導かれて矢を手にし、それを用いて恋人を救おうとする―これは本来はヒロイン・ベルの仕事ではないだろうか。しかし、実際に矢を引き抜くのはアストリッドなのである。アストリッドはペルデュカスを救いたい一心で、黄金の矢を彼に渡し、野獣の城から出ていくべきだと主張する。二人の会話は以下の通りである。

ペルデュカス:俺から離れるな。どこにいた?
アストリッド:今すぐ発つべきよ。信じてくれる?(黄金の矢を差し出す)
ペルデュカス:黄金か
アストリッド:この矢には無限の力が―大金持ちになれる。皆から尊敬されるわ。これで無敵よ。わかる? 捜し求めてた物が見つかったの
(ペルデュカス、アストリッドの首を絞め、崖から突き落とそうとする)
ペルデュカス:後から戻って宝を横取りする気だろ
アストリッド: 信じないのならせめてカードの予言を
ペルデュカス:何が出た?
アストリッド: 〝死神〟よ
ペルデュカス:お前のか? 俺のか?
アストリッド:どっちがいい?
ペルデュカス:どっちもご免だ。確信がないなら死ぬのはあいつだ。あの青二才が今夜死ぬ

 青二才、というのは借金をしているベルの兄・マキシムを指す。さてこの会話で、アストリッドとペルデュカスは決裂したかのように見える。なにせアストリッドは、自らのタロットカードの予言を信じてもらえなかった挙げ句、首を締められ、殺されそうになるのである。しかしそれでも、アストリッドはペルデュカスのもとを離れない。野獣の城から財宝を盗み出してきた財宝を彼女に見せ、ペルデュカスは語る。

(ペルデュカス、笑顔で)
ペルデュカス:ついに大金持ちだ。なんでも願いを叶えてやる
アストリッド:一緒に死ぬ?
ペルデュカス:もうカードには頼らん。俺が決める


 そしてその後、城を守ろうと地中から現れた巨人たちの身体が崩れ始め、岩雪崩が起きる。それに潰されそうになったアストリッドは、「見捨てないで」と最後にペルデュカスに懇願するが、ペルデュカスは非情にも彼女を見捨てて逃げて行ってしまう。そして「あなたの運命は最悪よ」とつぶやき、アストリッドは死んでゆく。またその直後、ペルデュカスも命を落とす。

 アストリッドが救われる道はあったのだろうか? なぜ彼女は再三、ペルデュカスに忠告していたのにも関わらず、死に至らなければならなかったのだろうか? ここでペルデュカスとアストリッドの関係は、真実の愛を貫いた野獣とベルの関係と対比される。


 つまりアストリッドは第二のヒロインであったかもしれないのだ。この関係は、現に、黄金の矢を引き抜く時、精霊がアストリッドに、「聖なるアストリッド」と呼びかけることからも分かる。アストリッドは純粋な悪ではなかった。しかし、ベルは生き残り、アストリッドは死んでしまった。


 言ってしまえばペルデュカスはダメ男であり、アストリッドは彼に振り回されて破滅する女とも言える。しかし、何度もペルデュカスを救おうとしたアストリッドが死んでしまうという結末は、あまりにも悲しくはないか。二人の女性同士が、ベルとアストリッドが共存する道はなかったのだろうか?

 5 ヴィランの腰巾着は愛の夢を見るか

 ここで、再びディズニー版に立ち返りたい。ディズニー版のヴィラン、ガストンの脇にもキャラクターが存在する。小太りの男・ル=フウ(愚か者、の意)である。


 アニメ版ではガストンのただの腰巾着で、頭の悪い、脇役に過ぎなかった男だ。しかし実写版ではより存在感が増して、おそらくは同性愛者であり、ガストンに憧れているという設定が追加された。(実際にはそれはほのめかされる程度で、明言されることはない)。賛否両論を呼んだこの設定だが、ガストンとル=フウの関係が単なる従属関係ではなくなったという意味で、素晴らしい改変だったと筆者は考えている。


 ル=フウがガストンに惹かれているさまは、序盤からセリフや歌を通して度々描かれる。しかし、物語が進み、ガストンの横暴さが増していくと、次第にル=フウは彼に疑念を呈するようになる。そして最後、野獣の城に乗り込んで攻撃を受けた時、ガストンに助けを求めるが、彼に見捨てられてしまう。そこでやっと「何が正しいのか」に気づいたル=フウは、城の住人たちの方に加担する。ヴィランから正義の側へと移行し「いい人」になるのである。そして、ラストのダンスシーンで、村の男性とペアを組んで踊る。


 アストリッドとル=フウはヴィランの脇にいるパートナーという意味では似通っている。ラストの運命が真反対であることを除いては、ほぼ同じ役割の存在である。


 しかし、ベルと野獣の〈真実の愛〉を完全なるファンタジーと捉えた時、ヴィランはリアルな人の醜悪さを反映していると言えはしないだろうか。自惚れ、強欲。誰の心にもガストンやペルデュカスは存在しうる。その隣にいるパートナー(=「腰巾着」)の苦悩やためらいを、現代の視聴者はどのように受け止めればよいのだろう。


 ここで文学における愛と苦悩について、アメリカの批評家のスーザン・ソンタグを参照したい。彼女は、イタリアの作家チェーザレ・パヴェーゼの日記に言及しながら、キリスト教精神の延長としての今日の西欧の恋愛崇拝は、苦悩崇拝の一つの側面であると論じている。

今日の真面目な文学や映画の支配的なテーマは、愛の破綻である。(これと逆の愛の叙述にぶつかるとき、われわれは、たとえば『チャタレー卿夫人の恋人』とかルイ・マルの映画『恋人たち』[一九五八]などの場合、〈おとぎ話〉と呼びたがる。)恋は死ぬ、恋の誕生がまちがいだったのだから。とはいえ、このまちがいは必然のまちがいである。パヴェーゼの言葉をつかえば、ひとがこの世を〈私利のジャングル〉として見るかぎりは。孤立した自我は受苦することを止められない。《生存は苦痛だ。恋の享受は麻酔だ。》
スーザン・ソンタグ「模範的苦悩者としての芸術家」(11)

 このようにソンタグにとって西欧的な愛とは、「まちがい」や「苦痛」と切り離せないものである。


 改めて映画『美女と野獣』を、ベル/野獣と、ヴィラン/そのパートナーの二つの恋愛を内包した物語と捉えた時、ソンタグのいう〈孤立した自我〉をもち、〈恋の破綻〉を経験するのは間違いなく後者の人物たちだ。はじめから破綻した、報われない恋に身を投じる彼・彼女は、ヒロインであるベルよりも現代的で、現代の鑑賞者に近い存在と位置づけることができるだろう。


 ディズニー版、フランス版ともに画期的なのは、アストリッドもル=フウも、ヴィランの持つ本質的な悪に気づき、それと対峙しようとするところにある。しかしル=フウは新しい自分を見つけて生き直すことができたのに対し、アストリッドは無残にも死んでしまった。この違いを、筆者は単なる「お国柄」の違い、演出的意図の相違であると、一言で説明することができない。
 先のソンタグの議論を踏まえて、この違いから導き出せる問いはこうだ。「ヴィランの『腰巾着』は破綻した愛からいかに脱出すべきか」。アストリッドを生き延びさせるには、どうすればよかったのか? 彼女は苦痛の果ての破滅に進み、死んでいったが、その死には意味があったのだろうか。愛の破滅から彼女を救うことはできなかったのだろうか?


 つまり、ヒロインであるベルと、物語の脇で苦悩するもうひとりのヒロインが手を取り合い、ともに「悪」と対峙するような、そんなプロットもありえたのではないかと筆者は考えている。アストリッドは最後、ペルデュカスという「まちがい」を克服し、ベルと共闘する―そんな連帯の物語であってもよかったのではないか。そんな結末を、フランス版『美女と野獣』を観直すたびに夢想してしまうのだ。


 6 フェアリーテイルのこれから

 『美女と野獣』というおとぎ話が時を超えて受け入れられ続けている大きな理由に、ベルと野獣の美しい愛があることは確かだろう。読者/観客は、ベルと野獣の心の交流を通して、「見た目にとらわれず、物事の本質を見抜くこと」というメッセージを受け取る。これはいわば、おとぎ話がもつ希望である。


 しかし、誰もがベルのようなプリンセスになれるわけではない。フィクションであるからこそ、多くの人を魅了するのであって、裏返せば現実には起こり得ない出来事を夢見ているに過ぎない。その意味で、おとぎ話はすなわち絶望である。ここには激しい断絶がある。


 ディズニーは昨今、過去のアニメーション作品の実写リメイクを進めている。『美女と野獣』もそうした流れの中で制作された。過去に童話や伝承として親しまれた物語を、アニメーション、そして実写映画と形を変えて我々の前に提示し続けている。またディズニー以外にも、童話やおとぎ話、少女小説を下敷きにした映像作品は数多く存在する。日本で言えば、高畑勲監督作『かぐや姫の物語』があるし、海外では『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』といった作品も実写リメイクがなされた。


 数十年/数百年前の物語をどのようにアップデートして、生き延びさせるか。つまり、いかに「延命」処置を施すべきか。おとぎ話がこれからも愛され続けるために、できることは何だろうか。その方向性の一つとして、フェミニズムやシスターフッドの流れもあるだろう。古びないメッセージを掲げつつ、いかに現代の物語として語り継いでゆくべきか―『美女と野獣』という作品には、その「延命」に耐えうる強度があるのだと、筆者は信じ、筆を置きたいと思う。


(1)一般社団法人日本映画製作者連盟 過去興行収入上位作品 二〇一七年
http://www.eiren.org/toukei/(二〇二〇年六月二八日アクセス)


(2)コクトー版は、もちろん技術的には古いのだが、詩や小説などに加え演劇も手掛けていた、コクトーならではの工夫で「魔法」を表現しているところが見どころだ。野獣の城のセットでは、壁や柱の中に黒塗りの人間が入っていて、燭台が動いたり扉が開いたりと、あたかもモノが勝手に動いているように演出されている。ディズニー実写版でオマージュされている箇所もある。アマゾンプライムビデオで視聴可能。(https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07QHYDLVX 二〇二〇年五月一一日アクセス)


(3)ドイツのドラマ版は低予算なのかチープな作りで、コメディ色も強い。魔法のバラの設定など、ディズニーアニメ版の影響が感じられる箇所もある。また舞台がドイツになったことでいくつか設定が書き換わっている。ヒロインの名前もはベルではなく「エルザ」とドイツ風に変わっているし、貧乏な村の娘であるため文字が読めないという設定になっている。野獣は物語をエルザに読み聞かせ、そのことをきっかけに二人は距離を縮めていくという場面がある。アマゾンプライムビデオで視聴可能。(https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07KPLG92N 二〇二〇年五月一一日アクセス)


(4)イタリア・スペイン合作ドラマ版は、ヴィルヌーヴ版原作とは設定がかなり異なり、二〇一〇年代の実写化作品の中でもとりわけ独自色が強い。前提として、魔法や精霊は存在しないし、野獣も普通の人間で、火事で顔に傷を負い醜くなった大公という設定だ。大公の城にはベル以外にも女性が住んでおり、彼を中心に恋の駆け引きが展開される。おとぎ話というよりも、大人向けのサスペンス風ラブストーリーで、原作をベースにした二次創作的な色合いが強い。本作は連続テレビシリーズとして制作されたが、日本では二時間の映像作品に再編集されたものをアマゾンプライムビデオで視聴することができる。(https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07P1B3W9N 二〇二〇年五月一一日アクセス)


(5)ほかにも『美女と野獣(Beauty and the Beast)』の実写版は数多く存在している。ウェブサイト「IMDb(インターネット・ムービー・データベース)」によれば、アメリカCBSテレビによるドラマシリーズ版(一九八七年‐一九九〇年)、アメリカ・イスラエル合作のミュージカル映画版(一九八七年)、舞台をバイキングの時代に置き換えたイギリス映画版(二〇〇五年)、レバノンの実写映画版(二〇一〇年)などが存在する。またヴィルヌーヴ版を直接原作としているわけではないが、『美女と野獣』と名のついた映画やテレビドラマは多数存在する。


(6)本稿で取り上げている二〇一〇年代の実写化作品は、設定やプロットはそれぞれ異なるものの、共通している要素として「ベルと野獣のダンスシーン」がある。作品によってそのシチュエーションは異なるが、いずれもベルと野獣が心を通わせる「お約束」の場面として演出されている。これはコクトー版には見られない演出で、一九九一年のディズニー・アニメ版が与えた影響の大きさをうかがい知ることができる。


(7)『美女と野獣[オリジナル版]』、一〇四、一〇五頁、ガブリエル=シュザンヌ・ド・ヴィルヌーヴ、藤原真実訳、白水社


(8)『美女と野獣』ディズニーアニメ版の映像特典に収録されている当初のストーリーボードを見ると、制作当初はより原作に寄せた内容になっていたことが伺える。意地悪な姉の代わりにおばが登場するほか、ベルにしつこく結婚をせまるヴィラン・ガストンは貴族の青年という設定である。


(9)やや脱線するが、ガストンというキャラクターについて少し掘り下げたい。筆者は、ディズニーはガストンに、映画では描ききれなかったバックストーリーを用意していたのではないかと考えている。それは、ガストンは(おそらくは)フランス革命と思われる戦いから帰還した英雄である、というものだ。その理由は二つある。


 まずに、物語冒頭で、彼はベルを欲しがる理由として「戦争が終わった後、何かが足りないと感じている」からだと発言する。しかし物語中では、これが一体何の戦争であったかは語られていない。


 次に、物語中盤、村の酒場を舞台に披露される「強いぞ、ガストン」というミュージカル曲での演出がある。この曲では、ガストンは剣を持ってチャンバラを繰り広げ、そのマッチョなキャラクターを視聴者に印象づける。酒場には、ナポレオンを思わせる画が飾られており、曲の最後でガストンがポーズを決めた時、画とガストンの姿が重なる構図になる。


 さらに、これは筆者の憶測だが、仮にガストン(ヴィラン)が野獣(王子)と鏡像関係にあるとするならば、ガストンもまた精神的に変化を遂げた人間なのではなかろうか―しかも悪から善に変わる野獣とは逆に、善なる心が悪に変わってしまったのではないか―ということが考えられる。つまり、ガストンは元来心優しい青年であったが、戦争により性格が変わってしまった(病んでしまった?)のではないか、という推論である。しかし作中にガストンに関する情報は少ないため、これらはやはり推測の域を出ないであろう。


(10)『女性にとっての職業』三頁、ヴァージニア・ウルフ、出淵敬子・川本静子監訳、みすず書房


(11) 「模範的苦悩者としての芸術家」(『反解釈』収録、八三頁)、スーザン・ソンタグ、高橋康也訳、ちくま学芸文庫

【参考文献】
・『戦う姫、働く少女』河野真太郎、堀之内出版
・『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』北村紗衣、書肆侃侃房

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