日芸病ってなんなんだろうね

 私が個人的に「日芸病」と呼んでいる一種の若者の精神状態みたいなものがある。その現象について、誰も書いていなかったみたいなので、なんとなくわざわざ書いてみる。


 私は演劇学科の3年生で、他の学科のことは正直今でもよく分かっていない(せっかく8学科一緒のキャンパスなのに知らないのは、あんまり良くないことだとは分かっているが)。それに、他の大学の子達の生活のこと、特に芸術系ではない学生たちのことも、聞きかじった程度にしか分からない。

 だから、私のこれからする話は、「日本大学芸術学部」の話だし、「演劇学科」の話だし、そのなかで2年半以上生活をしてきた「私」という個人の、(私が日芸病と呼んでいる)センチメンタル? と呼ぶにはあまりにも濁り切った絶望の、話である。ということを念頭に置いて読んでほしい。でも、もし貴方が若者なら、私と同じ悩みや絶望を経験したことが、一度でもあるはずだし、もし貴方が大人になってしまっているなら、忘れかけているけれど本当はそういう時代がどこかにあったはずだと思って、読んでほしい。


 端的に言うと、「日芸病」とは、自分の身の振り方や、未来を、自分で選んで行かなくてはいけない孤独で不安定な状態の中で、アイデンティティーが揺らいでしまう憂鬱のことを言っている。私が作った言葉だ。

 なんで日芸病って呼んでいるかというと、日芸は「普通じゃないが、普通です」なんていうコピーを掲げるような、「個性」をとても大切にしてくれる学校である。

 個性、ほしいよね。

 個性、喉から手が出るほどほしい。私は今でも結構ほしいなと思う瞬間がたまにある。個性、人が大切にしてくれるぶんには非常に助かるし、「お前変だな、その変な意見を言うのをやめろ」とか言われると、我々社会不適合者は泣きたくなっちゃうわけで、でも「突飛な意見大歓迎だよ! ユーモラスに行こうよ!」って言われたら言われたで、「そんなすごい発想できねえよ……」と、あがったハードルに萎縮するのがお決まりだ。日芸生の1、2年生が通っている、埼玉の広い広い平野に広がっているバカでかい所沢校舎というところでは、大体個性信仰に踊らされた学生が、変な格好で変なことを喚きながら裸足であの広大な校舎を走り回っていたりするんだけど、彼らも江古田校舎(3、4年生が通う、練馬区のビルっぽい校舎)に来る頃には、すっかり普通の下北系みたいな感じに落ち着いているのは、日芸のそういう校風のせいかもしれない(でも下北・原宿系よりも普通にはなれないんだよね)。

 こういう中にいると、逆に「個性」どころか「自己同一性」の揺らぎ方がハンパない。自分というものが不安で仕方なくなる。そのうえ、一番よくないのが、隣にいる得体の知れない同級生のギラギラしたまなざしによって、「あ、俺、こいつらに負けるかもしれない、俺は個性が薄いかもしれない」とピリピリ刺激されてしまうことだ。別に誰も個性バトルのために自分の色とりどりの個性を、ライトセイバーみたいにぶんぶん振り回して威嚇しているわけじゃないし、むしろコミュニケーションに問題のある学生だらけだから、目立って騒いでるあの子もこの子も、ホントのところは友達がほしくて、仲良くしたくて、どうにか隣の子と芸術の話をしたくてたまらないだけなのだ。週一で髪色が変わるあの子もそうだから大丈夫なんだ。でも、皆不安で仕方がないから、ピリピリしあってしまう。この環境は、日芸病発症の土壌としては充分すぎるほど最適である。

 加えて、我々の個性は芸術と依存関係にあったりするので、個性の追求は目指すべき未来さえも不安に震えさせる。見通しがつかないのだ。学校の中で、頭一つ抜きんでて芸術の才能があったとしても、学生生活を終えた後、毎日の暮らしが安定する保証なんてどこにもない。「それでもそれが好きでやり続けたいと身体が叫んでいるし、だけど4年間もこの学校にいるうちに、それもだんだん落ち着いて、普通に就職なんかしちゃったらかっこ悪いよな」とか、普通に就職するまっとうな方々に対して非常に失礼なことも平気で思う。それだけ個性が大事。(私がそうだったから書いているだけで、皆さんが全員そうだと決めつけているわけではない。ただ私は全人類とか、生きること、生活することに対して非常に失礼な1年生だった)

 「普通じゃない、が普通で」いなくちゃいけない、と意識するのは、恐らく想像しているより遥かに大変なことなのだ。対外的な問題も、対内的な問題もひっくるめて、こういうことだと思う。

 「私は誰なのか、何を頑張ればいいのか、何を頑張って、その先に何があると期待できるのか」すなわち「今、どう生きるべきか」。この壁にぶち当たることを、私は日芸病と呼んでいる。

 そういうわけだが、日芸病は、治る。大抵、3年生ぐらいになると皆結構けろっとしている。しかも、一度治ったらそのあとにまたなったりはしない。麻疹みたいなものだと思ってもらえたらいい。だが、ウイルスのような害悪ではない。成長に必要な、とても大切な過程だ。


 「日芸病」の定義が分かっていただけたところで、もっと個人的な話をしようと思う。

 私はこの病が、演劇学科内にあからさまに蔓延していることに、かなり早期に気付く。理由は二つあり、一つ目は、前述した「所沢校舎を奇抜なことをしながら騒ぎまわる学生」の、個性信仰の熱に浮かされた姿によってである。

 そして二つ目には、演劇学科生の作り上げる演劇作品の中に、日芸病がたくさん潜んでいたからだ。幾度となく、似た濁り、似た絶望、似た焦燥を作品の中に観る。これにはしっかりとした理論があって、演劇学科の公演は、「市場の完結」を起こし続けている。つまり、提供者と消費者が毎回入れ替わるだけで、ほとんどメンバーが同じ、という現象が多くみられるのだ。言ってしまえば、「演劇学科の演劇は、演劇学科が見るために行われている」。

 その中でニーズを探ってみると、誰しもが同じ「日芸病」に辿りつくのは自然なことである。「共感」の力は絶大だ。「私は誰なのか、何を頑張ればいいのか、何を頑張って、その先に何があると期待できるのか」すなわち「今、どう生きるべきか」。これを考え続けている学生が、同じくこれを考え続けている学生に対してこれを投げかければ、当然このメッセージは重厚なものとなる。

 他の学科がどうかは分からない。同じ作劇行為を伴う映画学科には、もしかすると似た現象が起こっているかもしれない。とにかく演劇学科にはこの現象が起こり続けている。

 しかし、私は生意気にも、自分も完全に日芸病で鬱々と生きていたくせに、日芸病を作品化することをどこかで侮蔑していた。と、同時に、この若者時代の集団的憂鬱の輪郭を掴もうとしていた。根本的に精神に拠り所がないせいで、今でも日芸病に片足を突っ込み続けている身として、そんな苦悩と自己俯瞰との同時進行が可能かどうかは不明だが、ずっとそのことをなんとなく考え続けている。だから、今書いているんだと思う。


 ここまでのまとめをしてみよう。「日芸病」とは、簡潔に言ってしまえば、「自らの未来」と「周りの同世代」に対する、ライバル視と呼ぶにはあまりにも腰が引けた「恐怖」の病である。

 「自らの未来」への恐怖とは、「自分自身の現在持っているこの不安や憤りに、落ち着いてしまった未来の自分は負けてしまっているのではないか、今の自分がこんなに死ぬ思いで悩んでいることに、未来の自分は完全に蓋をして諦めてしまっているのではないか。私はいつまでここにしがみついていられるだろうか」という恐怖のことで、そして「周りの同性代」に対する恐怖とは、「隣のやつは自分よりユニークで、素晴らしい作品を作ることが出来、自分より作品を味わう力があり、自分より優れたたくさんの作品に出会っているのではないか、自分は彼らに少しも敵わない、落ちこぼれだから、こんなことはもうやめるべきなんじゃないか」という恐怖のことである。


 それでは、もっともっと個人的な話に踏み込もうと思う。かくいう私も日芸病に相当苦しんだが、日芸病の大学生たちの、あのビリビリとした緊張感のなかを、私が戦い抜いて今に至っているかと聞かれれば、答えはNoだ。私はボロ負けしたどころか、ろくに戦えてさえいない。

 その私の惨敗の様子について書いてみる。

 私は学校が苦手だった。らしい。

 自分のことなのに分からないのか、と驚かれるかもしれないが、本当に分からない。恐らく私と「学校という社会」は、歪な依存関係にあった。私は学校なしでは生きられないと思っていたし、学校も私を必要としていた(というのは私も思い込みだと思う)。私は学校の中に構築されている関係性の中で、歯車として機能しなければいけないと思い込んでいたので、私が頑張れば周りの生徒たちが助かったりするし、頑張らなければ周りの生徒たちが私に失望して私を見捨てるという前提のなかで生きていた。

 高校までの社会というものは、でも、そのぐらいの厳しさは現実に持っていた気がする。しかし、私は過度に、私以外の誰かたちのために学校生活を送っていた。私のためでは、一切なかった。必要とされているから、学校は休まない。辛いと感じることもない。毎日学校に行けて幸せ。

 今ハタチだけれど、本当につい数か月前まで私は自分のことを「学校大好きな子」だと思っていた。本当はそうじゃなかった、らしい。人に気を遣い過ぎるし、好きでもないことに自己犠牲を払おうとしてしまう。何も手元に残らない。勝手にしていることだから当たり前だけれど、誰にも感謝されない。どうしてだろう、皆のために尽くしたのに。とか勝手なことを思いながらまたストレスを飲み込む。

 完全に学校と不健康な向き合い方をしている子供だった。それにやーっと気付いた私は今、大学3年生にもなって遅い反抗期を迎えている。学校が心から辛い! 朝も起きられない! 授業に行くのも一苦労で、いちいち学校の中庭でタバコを吸う! 友達と顔を合わせるのが嫌になってもまたタバコを吸う! ……反抗期、意外と悪くない。結構楽しい。成人しているから最早喫煙は非行でもなんでもないが(それにしても、日芸は喫煙所が多いし、喫煙者も多い。日芸病と関係があるのだろうか(笑))。

 それに、なぜか学校嫌いを自覚した途端に、今まで全然興味の湧かなかった勉強に意欲が出てきた。もちろん自分の勉強したいことばかり選り好んでだけれど、それでも人生でこんなに勉強を楽しく出来ていることは今までに一度もなかった。少なくとも、「学校大好き」だった頃にはあり得なかった。

 話を戻すと、私はそういう不健康な高校生だったせいで、大学入学のとき、ボロボロだった。当時は大変だったけれど、今考えると笑える。ボロボロすぎる。前回のnoteで書いているが、仲の良かった友達にセクシュアリティーをアウティングされ、卒業式の合唱の練習を仕切っていたことに勝手に「なんであいつらのためにこんなことを」とか思って一滴も涙を流さずに卒業している。最低すぎるしボロボロすぎる。

 私は大学に入って自分を変えたかった。次からはコソコソしないで堂々と自然に生きていこう、好きなことだけをして体裁なんか気にしないで生きていこうと思っていた。失うものがなかったので強いつもりでいた。私はきっと新しい世界で今度こそ幸福になれるだろう、と。


 思った矢先の、容赦ない、日芸病である。

 まず私はそんな感じで生きてきたせいで、「個性大戦争」の火蓋が切って落とされたとき、その圧倒的な個人戦っぷりについていけなかった。誰かのため、が全然通用しない世界だった。自分の未来を自分のために考えて、自分のために自分の勉強をしなければいけないというのが、私にはとても受け入れがたい苦痛だった。どう辛いかというと、周りが本当にギラギラして見えたし、そればかり気になった。私に比べると皆なんでも知っていて、勉強していて、熱心でやる気に満ち溢れているように見えた。自分がどうしようもないクズに見えた。私もなんとか周りに追いつこうと焦るのだけれど、どうしても無気力になってしまう。焦れば焦るほど気力がなくなる。何もしたくなくなる。だって、これは私のためにしかならないから。私が頑張って皆を追い負かしたって、それで助かる人や喜ぶ人はいないから。私のためだけになんて、私はとても頑張れなかった。

 こういう自前の弱さもあって、私は日芸病の若者たちが放ち合うギラギラした焦燥の炎に負けてしまったことを発端に、崩壊した。貧血が突然重くなって、動悸が止まらずいつもマイナスなことばかり考えてしまい、「死ぬ気がする」「生きている意味がない」ばかり思う。大好きだった読書が一切出来なくなり、勉強なんてもっての外だった。焦って小劇場の観劇に通い詰めたが、もともとミュージカル育ちでブロードウェイの作品以外には大して興味も持てない私が、日本の演劇を初めて目の当たりにし続ける作業は、周りとの知識差を浮き彫りにするだけだった。本が読めない。本ぐらい読まないと。本を読もうとすると数行で意識が他のところに行ってしまい、内容が理解できない。それを何度もやって、精根尽き果てて諦める。周りとの遅れを取り戻すために買った小難しい本が手つかずのまま山積みになっていく。本さえ読めないなんて、私はもうダメだ。やろうとすればするほど、焦燥が私を自滅させた。

 それで、私は一度死んだ。大学1年生の夏頃のことだった。焦燥を原動力に、動き回れていたのが、限界に達したらしく、身体が動かなくなってしまったのだ。死にたいとかではなく、死ぬんだな、とずっと考えていた。友達の家に遊びに行こうにも起き上がれなかったり、学校でもつらくて立っていられずによくしゃがみこんだりしていた。それからやっと1冊目の小説を完読できるまで回復するのに数か月、そうしてそのあとは目に見えないほど遅いスピードで徐々に回復していった。今でもたまに、食事が出来なくなって胃腸の調子が悪くなって「死ぬしかない」という謎の思考にとらわれて一日中寝たりする。が、その頻度も非常に下がってきた。

 気付いたら肉体も精神も、日芸病どころじゃなくなっていて、「何のためにどう生きるか」なんて考える隙間はなくなった。「とりあえず生きるのが大変!」という非常にシンプルな境地に立っていた。日芸病の嵐が過ぎ去ってみたら、私は結構穏やかで、ほんの少しだけ、ただ生きることを目的とする一個の生命、に近づくことができていた。それから、静かにとにかく生きてみたら、「あ、ミュージカルをする生き物だな、私は」と、心の底のほうに置き去りにされていた、私本来の性質が発見された。


 日芸病って、何だったんだろうね。

 私という人間は、気付いたら、「私は誰なのか、何を頑張ればいいのか、何を頑張って、その先に何があると期待できるのか」すなわち「今、どう生きるべきか」を選び取る存在から、「私は私に生まれてしまい、こうして生きるものだ」と規定された存在に徐々に変わっていっていた。もがいて探しても何も見つからなかったけど、やりたいように自分を遊ばせていたら、自然と落ち着くところに落ち着いていたのだ。

 広い世界を探し回る途方もない絶望的な作業かと思っていたのが、実は自分自身を認めてやるだけの、すごく静かで、狭くて、暖かくて、優しい作業だった。極寒の雪山の中で、雪に埋まった小さな指輪を探し回れって言われたら誰だって嫌に決まっている。でも、本当は狭くて住み慣れた自分の部屋で、もこもこの靴下を履いて、ストーブをつけて、暖かいスープを飲みながら、「この指輪を持っててよかったね。すごく素敵だね」って自分の手を誇らしげに見つめるだけのことだった。個性あったじゃん。いや、あるんだよ、人間には、元から、個性が。忘れてるだけで。


 何がきっかけだか忘れたけれど、最近また読書が大好きになった。小学生の頃は読書が大好きで、一日中夢の世界に浸っていたし、中高生の頃は、太宰治と江戸川乱歩がいつも色々語りかけていて、私に不道徳なことばかり吹き込んで笑っていたようだった。でも、ハタチになった私は自分で何かを選ぶのがいやに苦手になってしまって、自分では本を手に取れないのだが、それでも人に勧められた本を手当たり次第読むようになった。

 自分の時間。

 私が楽しい、それだけのための時間、が、本を読むと流れた。演劇にはない安らぎだったけれど、演劇をするために必要な休息がそこにあって、私はやっぱり演劇をしようという気持ちを改めて強めた。そして、私は次に「自分自身の歴史」に手を伸ばした。私はミュージカルと共に生きてきて、ミュージカルは私の宿命だった。歌い、踊る欧米の真新しい文化が、私の身体に血潮となって流れていることをやっと認めた。あまりにも自分に近すぎたから、ずっと逃げていたのだ。ミュージカルのルーツからスピリットから何から何まで、ひっくり返してみようと考えるようになった。私が、私のために。これは私がこれからもっとミュージカルを書いていくためである。それでやっと、私は勉強したい、勉強は楽しいと思うようになったのだ。


 楽しい勉強の尻尾をやっと捕まえた私は、突然「勉強できない自分」を肯定することができた。勉強するの、つらいよね。日芸病には特につらかった。自分を定めていくために、横道に逸れたくないんだもの。私を救ってくれることしか勉強したくない。何をすべきか、何を頑張るべきか、何を選ぶべきか。誰も教えてくれないし、自分で考えたって答えは出ないから、手当たり次第。でも、ホントにこれでいいんだろうか、とか。だから、勉強するの、つらい。そりゃ、勉強つらくても頑張ったほうがいいに決まってるんだけど、私には残念ながらまだまだあまりにも難しい。だから、このまま学生時代がもう1年で終わってしまうのが寂しい、悔しい。でも、きっと大人になって、私は遅れて勉強し始める日がくる気がするのだ。

 今の私は、正直に言うと、ニュースはよく見るけど理解力がなくって政治には疎いし、難しい講義には集中力もないし、日本の有名な演劇のことだとか、ストレートプレイの有名な劇作家のことなんか全然知らないし、今も興味もあまり持てない。それらのことをよく知っている学生が多かったから、知らない自分が恥ずかしかったけれど、他の角度から見れば、私はその皆が知らないミュージカルのことや、日本ではあまり浸透していないセクシュアルやジェンダー、フェミニズムの先進的な考え方をよく知っていたりする。

 「演劇学科に入ったんだから、そのくらい真面目に勉強しろ」って、言われるし、分かる。せっかく機会が与えられているのに、受け取れないなんてもったいない。とても分かる。でも、つい最近自分のために時間を使うことを覚え始めたような私には、結構ハードルが高いので、無理してまた死ぬぐらいだったら、ほどほどでいいかな、と今は思ってやっている。たまに「これを知らないなんて演劇をやる資格はない、これぐらいは知っておけ」みたいにぶった切りに来るお節介な人もいるけれど、その言葉に恐怖を覚えるぐらいなら、私はそういうのも全然気にしなくていいと思う(やってやろうじゃないか! と思える健康な自立精神のある人は、大いにこの挑発に乗って猛勉強してほしい、応援する)。私は「いつか、私も寺山修二にハマったり、チェーホフが楽しく読めたりするときも来るだろうなあ」と気楽に思っている。楽しみにもしている。然るべき時が来れば自然と出会うものだし、出会いたいときに出会えばいいのだ。勉強初心者(15年間も学生をやっていて本当にひどい発言である)の私は、このぐらいお気楽にならないと、また焦って動けなくなってしまうかもしれないし、無理やり手を付けたせいで、偉大なる寺山やチェーホフのことを嫌いになってしまうかもしれない。それはあまりにも悲しすぎる。だから、今は出会わなくていいのだ。

 私は今、生まれて初めて自分のために勉強している。日芸病どころか、それ以前から全然できなかったことだ。ミュージカル史の本を読んで、近所のDVD屋で、本で読んだミュージカルの映画版を探しては借りて、時間のあるときに観て、それから寝るまで小説を読む。あとは、ミュージカルの脚本を書いて、たまにこうして好きなときに随筆みたいなのを書き散らしたり、文通友達に少し凝った手紙を書いたりする。これは私にとっては大きな進歩なのだ。人には人のペースがある。これも個性?(笑)

 大学3年生にもなると、私のように日芸病の症状が治まって、少しだけ落ち着いた生活をしながら、就職のこととか、卒業後のことについて、絶望せずに考えられるようになる人が多い気がする。でも、たぶん皆、「1年のときとかは、大変だったし悩んだけど、あのとき悩んでよかったなあ」と思っているんじゃないだろうか。

 今この文章を読んで、「自分は日芸病かもしれない」って気持ちになっている人は、大いに発症しまくってもがき苦しんでほしい。それで、「苦しい!」って認めてあげてほしい、自分を。それで作品作ったらいいし、私のこれを真似して「俺の日芸病」を綴ったらいい。私は「自分が誰なのか分からない」その絶望と焦燥のギラギラした炎をとても愛しいと思う。「命なんかよりこれを成し遂げるほうが大事だ」と思えるもののある世界は美しいと思う。忘れてはならない青春の1ページだと思う。尊い時間だと思う。でも、

 麻疹こじらせれば人は死ぬ。

 それだけ気を付けてほしい。無理しすぎて再起不能になったら本末転倒だし、再起できたとしても私のように自分のためにすら生きられないのに芸術のために破滅するのは、危険だし、ものすごい遠回りだ。

 だから、気を付けて、病んでね。

 でも、生きてりゃどうにでもなるんだから、一回精神的に死んでも、遠回りしたっていいから、いつか焦らず好きなことをやってね。

 今、先の見えない長い暗いトンネルの中にいる日芸病発症者諸君には、私の言っていることがなんのことやら分からないと思うけれど、きっと数か月か、何年か経って、「そういやみやかわとかいうやつが何か寝言いってたな」って思い出してくれると嬉しい。それで読み返して、「意外と分かること書いてた」とか思ってくれるともっと嬉しい。今諸君に私が伝えたいのは、「まあ、なんとかなるからそのまま苦しんでてみ」ということだけです。

 私もまだまだ青春を生きているのでなんだか伝えたくなって書いてみた。くどくど長かったけれど、最後まで読んでくださってありがとうございます。


みやかわゆき

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