YouTuberは見せたいのか? 記録したいのか?

(もしまだ前回のYouTuberについての記事読んでいただいていない方は、ぜひこちらもご覧ください!
https://note.mu/miyayuki/n/n8e484c6ac7aa)

 YouTuberの動画を見始めて私もそろそろ半年ぐらいになる。いい加減YouTuberの文化ってもんにも慣れてきた頃だけど、未だにこのジャンルをどういう風に捉えたらいいか謎だ。
 これは一体、何を見(せられ)ているんだ。

 曲がりなりにも演劇のことをやってきた。小説も好きだ。漫画も好き。音楽も聴くし、クラブに行ってEDMで踊る。美術館にもたまに行くし、映画はしょっちゅう見ている。服を買うのも好き。お笑い芸人も好き。テレビも大好き。
 エンターテイメントや芸術と呼ばれるものの見方、考察や分析の仕方なんか、もう知っている、と高を括っていた。

 が、YouTuberはなんか違う。

 美容系とか踊り手のチャンネルなら今までの応用でいける。
 でも、私が好きなのはとりわけ「マルチ」と呼ばれる人たちだ。
 マルチクリエイターはその名の通り、検証、ドッキリ、みんなで遊ぶ、負ければ過酷な罰が待っているゲーム、大食い、早食い、肝試し、商品紹介、身体を張った謎の挑戦など、とにかくなんでもする。
 前回の記事では、そういう、大人ぶってつまらなく生きている人間からすれば馬鹿馬鹿しいとすら感じられる不毛な営みに、毎日の生きる希望や安心感を感じる、っていう話をした。
 でも、そもそもYouTuberの動画を見るっていう行為はなんなのか? 
 彼らはなぜ動画をアップロードし続け、私たちはそれを視聴し続けるんだろう?

YouTuberのチャンネルはムービー版のアルバム?
 マルチクリエイターの中でも、小学生などの若年層に絶大な人気を誇り、動画投稿歴も長いフィッシャーズというYouTuberがいる。
 彼らのキャッチフレーズは、「思い出系ネットパフォーマー軍団」。
 『思い出系』という言葉が入っている。この『思い出系』、今回私が語りたいことの大きなキーワードになっているので、先にこれを説明しておこう。
 フィッシャーズのリーダー・シルクロード氏が繰り返し口にする、彼らの活動のモットーは、「自分たちが楽しいことをしているのを記録しているだけで、見ている人たちのために撮っているわけではない。結果として仕事や収入に繋がっているだけ」というもの。
 この考え方、今まで見てきたエンタメや芸術の考え方とは真っ向から対立する。
これは私の考察や主観を含んだ表現になるが、私たち視聴者が見ているのは、誰かが誰かを感動させたり笑わせたりするために、丹精込めて作った作品ではない。彼らが彼らのために記録して、未来に残し、思い出になっていく、いわば手の込んだアルバムみたいなものだ、と彼らは言うのだ。
 視聴者として、どんな心持ちで彼らを見ればいいのか、そこに正解は見つからない。いや、実際彼らの動画を見ているときは何も考えずにゲラゲラ笑っているんだけれども。
 フィッシャーズ以外もかなりこれを言う人が多い。おそらくこれが、YouTuberの鉄板の美学だ。

いや、でもね、ぶっちゃけそう言われても「いやほんとか?」と思う。疑わしいでしょだって。
ものすごい労力をかけて撮影して編集して? 世界中の人たちから、無責任に無料で視聴されて好き勝手言われて? 顔も本名も住所も割れるリスクを負ってまで? 俺たちの思い出作りだ? 正気か?
 確かに陳腐な表現を使えば「ロックだな〜」とは思うけど、現状のYouTuberたちが夢と希望を多くの視聴者たちに運び、そのおかげで収入を得ている今、このモットーは信じがたく思える。
 でも、いったん今のことは置いといて、ルーツに目を向けてみよう。

ブログというあり方、日記帳ではなくWebに残す意味
 YouTuber界のレジェンド、ヒカキン氏の初投稿の動画で語られている内容を紹介したい。
 ひとつ断っておくと、ヒカキン氏はもともとヒューマンビートボックスの動画をYouTubeにアップするためのチャンネル「Hikakin」を持っていて、そこで披露したスーパーマリオのヒューマンビートボックスが、世界中で驚異的な再生数を記録し、一躍有名になったクリエイターだ。
 しかし今回注目するのは「マルチ」のあり方についてなので、彼の2つ目のチャンネル「HikakinTV」の初投稿動画から引用する。

「これからこのチャンネルで、ビデオブログをやっていこうと思う」
「ネット上に自分の記録が残っていれば、自分の息子や孫が数十年後に『ヒカキン』と検索すれば、自分が20代のときに何をしていたのか、いつでも誰でも見ることが出来る。自分が死んだ後も、誰かがそれにアクセスできる」

 この動画で、彼は今後このチャンネルをどんなチャンネルにしていきたいかを語っているのだが、そこで印象的な単語『ビデオブログ』というのが使われている。
ブログか、なるほど、と思わされた。
 私も小学生から高校生ぐらいまでは、ブログの女王・中川翔子さんの影響で、ガッツリやってきた。確かにあれは日常を写真や文章で記録しておくためのものであり、この時点でかなりフィッシャーズの『思い出系』に近い。
 しかも、本来私的なものであるはずのそれを、鍵付きの引き出しに仕舞った日記帳ではなく、全世界の人がアクセスできるネット上に公開して友達や家族と共有しちゃおう! なんなら知らない人にも読んでもらっちゃおう! なんていう、冷静に考えたら素っ頓狂な考え方も、YouTuberと同じではないか。
 そして次にこの歴史的動画の内容で注目したいのが、彼が自分の死んだあとのことまで考えて動画のアップロードを決意したという点。
 昔の文豪は、死後何十年も経ってから、恥ずかしい落書きやメモを博物館に展示されて、それがテレビで流れたりネット上で拡散されたりして、日本中の人たちに(おそらく不本意ながら)見られている。
 そこをむしろ自ら名乗り出て「我こそが記録になってやろう」というのが、ヒカキン氏をはじめとするネット上に痕跡を残さんとする人々の意志に含まれているのかもしれない。私が今こうして書いているのも、それに違いない。
 ヒカキン氏が動画を始めたときに重要視していたのは、「残ること」と、「誰でもいつでも閲覧できること」の2点のようだ。

 「俺たちが楽しいから動画を撮っているだけ」という考え方を裏付ける初期の動画の例を他にも見てみよう。
 たとえばアバンティーズの初投稿動画、および初期の動画の内容は、同級生である彼らが一緒にふざけている様子を投稿したもので、所謂“作品を仕上げた”みたいな気合いや、視聴者への投げかけは、一切感じられないものがほとんどだ。
 最初に例に挙げた思い出系YouTuberフィッシャーズの初投稿動画は、ただみんなで川で遊んでいるだけの動画。
(ただここには一つ注意点があって、この動画の撮影日が2月だということだ。2月に川に入って遊んでいる動画は、『ただ川に入って遊んでいる動画』とは言わない。ほぼ、罰ゲームだし、軽い衝撃映像だ)
 すしらーめん・りく氏の初投稿動画も、巨大メントスコーラを成功させるために友達や親戚(?)が寄ってたかってわちゃわちゃしていて、どれがすしりく君なのかすら分からないし、1秒でもカメラ目線になる人がほとんど1人もいないという、かなりホームビデオ的な内容になっている。

見世物へと変貌していくアルバム
 1968年、既にポップアーティストのアンディ・ウォーホルが予言している。
 「誰でも15分だけは有名になれる時代がくる」と。
 有名YouTuberやブロガーじゃない私にとっても、どうでもいいさっき食った飯の写真やら、旅行先で撮ったよくわからん景色やら、「ラーメン食いたい」などの口に出して言うほどでもないような呟きやら、そういう私的なことをネットの海に解き放つ行為は、最早日常と化してしまった。
 それがたまにバズって多くの人に閲覧されるとなれば、もうそれは15分間の名声を手にしたと言って間違いない。
 彼らも最初はただ、自分たちのための記録として、それらの動画をアップロードしていただけだが、もしその15分の名声が、偶然そこに訪れてしまったら?
名声と言うとふわっとしてしまうので、現代風に言い換えよう。
 フィードバック。つまりはコメント、高評価、再生回数、チャンネル登録。
 大量のフィードバックは、時にその人の人生を変えてしまう。その“バズり”が15分で忘れられることなく、その人の発信に対して常に莫大な視線が向けられるようになったら? もちろんお金も動く。
 間違いなく少なからず、世界が変わる。

 あれ? ちょっと待って。ここで緊急事態発生。
 この記事の前半を読んで、「お前、情報のアップデート遅いんじゃねえか?」と思ったYouTuberフリークの方がいらっしゃるかもしれない。
 すみません、私、本当にさっき気づきました。UUUMクリエイター一覧の公式ページを確認してみたら、フィッシャーズのキャッチフレーズが変わっていました。

 「思い出系ネットパフォーマー軍団」から、「やんちゃ系YouTuber集団」に。

 そう、「思い出」の3文字が消えていたんです。
 これです、私が言いたかったのはこのことです。
 インターネットは日記帳じゃない。どんなに意識しないようにしたって、全世界の人たちからの視線、フィードバック、そういうものを良くも悪くも吸収して変貌を遂げていくのがネットクリエイターの性だろう。
 彼らは「数字のことには振り回されない、気にしない」と尖りながら、動画の最後には絶対に「チャンネル登録よろしく!」と言う。
 “好きなことして”、でも、“生きてい”かなきゃいけないから。
 だから、川で遊んでいる動画をただアップロードしていた中学生の集団が、インターネットの力に導かれて、いつしかオリジナルアスレチックパークを建てるようになっても、なにも不思議ではないのだ(おめでとうございます! 早く遊びに行きたい!)。

 もちろん、
「視聴者のご機嫌なんか取らねーよ! 
イメージ向上? 知ったことか! 
彼女? いるに決まってんだろ! 
ストーカーに家特定された? 動画回せ!」
 これがYouTuberのいいところだ(※こういった傾向にはYouTuberによって個人差があります)。

 でも、それだけじゃ今ひとつ物足りない。YouTuberの真の魅力は

“個人的記録を目的とする自己満足のビデオブログ”
“世界中の人に閲覧され、笑いと感動を届けるエンターテイメント”

 という二律背反に翻弄された結果、セクシーな魅力倍増って感じになっているところだと思う(セクシーの感覚おかしい、等の批判は受け付けます)。

結局この動画たちは、クリエイターたちは、視聴者たちは、何なのか?
 冒頭にも書いたが、今まで「誰かに見たり聞いたり読んだりしてもらって、心を動かしてもらうために作られた」所謂“作品”にしか触れてこなかった。
 YouTuberの動画と初めて対峙して戸惑ったのはそこだ。
 彼らは決して私たち視聴者のために頑張ったとは、考えたとは、作り上げたとは、公開したとは、絶対に言わない。そこには“勝手に”アップロードした彼らと、“勝手に”視聴した私たちがいるだけ。見たいやつは勝手に見ればいい、と許されたから、勝手に見るだけ。
 そこには、絶対に面白いとか、絶対にためになるとかいう保証もないし、やりたいことをやっているのを勝手に見ているだけなので、こちらが求めたものが提供される保証もない。たまに噛み合う奇跡は期待できるかもしれないが。
 彼らの動画は全て、ネット環境と再生できる機械さえあれば、無料で閲覧することが出来る。ただ、その視聴回数は確実に彼らの収入に繋がる。
 勝手にやりあう相互的無責任さにも関わらず、実力主義のシビアさがなんとも皮肉だ。
 そんななかで「俺たちやりたいことしかしねーから! 見たきゃ勝手に見ろよ!」と言い切るYouTuber、あまりにもかっこよすぎないか。
 私は間違いなく彼らを見て楽しんでいる視聴者側なので、こうして見世物としてあの動画たちがなんなのか分析して話をしてしまうが、実はYouTuberの動画を視聴するということは、非常に偶然的なことが折り重なって発生しただけの“出会い”だと言えよう。
 これはエンターテイメントや芸術のように、約束を交わして合意を重ねたうえでの、縁談や商談のような出会いではなく、出会い頭の衝突の形をしている。
 曲がり角で軽くぶつかった相手に、ただ謝りあって通りすがるか、怒鳴りつけて喧嘩になるか、恋に落ちるかなんて、誰にも予想できないし、責任も取れないですからね。まあ、彼ら最近ではかなりの頻度でぶつかってくるようになりましたけどね。

 こんなところで、そろそろ今回も終わりにしようと思う。
 実際YouTuberを職業としてやっていらっしゃる方が読んだら、「そんなんじゃねえよナメてんのか◯すぞ」って言われちゃうかもしれないが、一視聴者としてリスペクトを込めて、彼らのプライドを考察させてもらった、これもまた誠に勝手な文章に過ぎないので、見逃してもらいたい。いや、欲を言えばこの件について正解を論じて欲しいです。営業妨害になっちゃいそうだけど。
 今回は記録目的のビデオブログであるというスタンスを重視したYouTuberを中心に紹介してみた。
 しかしYouTuberの中には、やる側と見る側の相互的責任が重い世界からやってきた、エンターテイメントの申し子も存在している。
 次回はそんなクリエイターの話を主軸に置きながら、「生の舞台と動画、それぞれの価値について」をテーマの記事を書こうと思っている。
 というわけで個人的にめちゃくちゃ待望の第三弾、次回は私の推しYouTuber、水溜りボンド特集です!! 
 楽しんで書きます!! 
 今年も宜しくお願い致します!!!

2019.01.03  みやかわゆき


参考動画

ヒカキンTV初投稿動画
フィッシャーズ初投稿動画
フィッシャーズのアスレチック
アバンティーズ初投稿動画
すしらーめん・りく初投稿動画

参考サイト
UUUMクリエイター一覧

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?