「レズきもい」よりつらいこと

今日はいつか書こう、いつか書かなければいけない、と思いながらもなんとなく気恥ずかしくて書けなかった、マジで何よりもしんどい話をしにきた。
なるべく配慮のある文章に仕上げるつもりだが、あまりにも自分に近い事象の話になってしまうのでいささか感情的にもなるかもしれない。
私は今年の2月で23歳になったが、大体去年か今年かぐらいで、腐女子歴10年を迎えた。もはや腐女子でなかった頃の生活や思考回路は一切思い出せない。タバコを吸い始める前に「この間を何で埋めていたんだっけ」と思い出せなくなるのと同じぐらい、腐女子であることは私の生活に浸透しきって、特別なことではなくなっている。
(腐女子でもなく喫煙者でもない人には実感しづらいたとえになってしまった! 他に思いつかないので自分のなかでそれに該当する何かがある人は各々補完してほしい)

今更分からない人も少ないと思うが、私なりに一度「腐女子」という言葉の意味を説明する。「腐女子」は一般に、フィクション(あるいは稀に現実にも)での男性同士の恋愛描写に深い興味と執着を持ち、愛と激情をあらわにする女たちを指す言葉だ。この男性同士の恋愛描写というのは俗に「やおい」や「BL」「ボーイズラブ」と呼ばれる。端的に言うと「BL好きの女」が「腐女子」と呼ばれる。
BLが好きなのは女だけではないし、かなり排他的、閉鎖的な自虐のニュアンスを含むので、「腐女子」と、こういう公の文章で書くのも正直気がひけるのだが、私はどうにもこうにも10年もの長きにわたって自分自身を腐女子であると認識し、自覚してきた。
この10年という長い月日は、なんと私が私をレズビアンであると認識してきた月日よりも少しだけ長いのだ。
今までこれだけレズビアンで売名(本当にレズビアンです)してきたくせに、ほんとのところ、私は自分のことをまず何よりも先に、第一に「BL好きのオタク」だと自認している。

「なぜレズビアンなのに腐女子でもあるのか?」とたまに聞かれるが、私にもこれはよく分からない。数年前、中村明日美子先生の美麗なイラストを表紙に大きく載せた「BL進化論」(溝口彰子・著)なる本が発売されたとき、私は私の中で初めてその問題について考え始めた。この本を購入して読んでみると、この著者である溝口彰子先生というのが、「レズビアンにして腐女子」という私とまったく同じ属性をお持ちだということを知ったのがきっかけだ。
私はなぜ自分が女性としか恋愛できないのか考えても分からないのと同じで、それと同時に腐女子であることもまったくわけのわからない運命のいたずら程度にしか認識していない。ただ、ここでひとつ、私のBLに対する感情だけははっきりと書いておきたい。
性別は違えど、BLの世界に描かれる恋愛や人間関係は、私の人生とは隣り合わせの出来事だ。
明日にも起こりうる、または昨日起こったばっかりの自らの人生のなかでの事件を、予言したり反芻したりしてくれる存在で、私はBLに寄り添われ、またある種導かれて生きてきた。
だが、周りの腐女子や世の中にはびこる言説では、一般的に腐女子というのは「壁になりたい」生き物で、自分の存在をなかったことにして、ただある視点として二人きりの男と男の関係を観賞していたい、こちらには視線を向けないでほしいものであると語られる。
私はBLを読むとき、まったくもって壁ではない。
恋愛をする二人の男のどちらか、あるいはその二人の関係そのものに、大いに感情移入し、「明日は我が身」あるいは「こないだこんなこともあった……」という緊張感のなかでBLを楽しむのだ。

これだから恋愛のことばっかり考えてる遊び人は!
と言われるかもしれない。言われてもいい。
私がもし自分自身の恋愛や自分のことに全く興味がなければ、きっと壁になろうとしていたと思う。でも私はどうしたって自分のことに興味があるのだ。じゃなかったらこんなエッセイを何回も書いてネットに晒すような羞恥プレイ、誰ができるか。
私にとって、私の物語が遂行されることは何よりも大事なのである。
そして、その支えにしてきたのはいつだってボーイズラブだった。

最初に腐女子になった頃、それはおそらくは思考パターンの均一化が目的、すなわち友人たちとのコミュニケーションをより円滑でつーかーなものにするための共通認識みたいなものに過ぎなかったんじゃないか、と今では思う。
腐女子同士のコミュニケーションについては、溝口先生著の「BL進化論」でも論じられているので、興味のある人は読んでみて欲しい。
ただ、大人になった今、私の中で、BLを読み続け、腐女子の思考回路というものを習慣化していった末路として、決定的な悲劇が起こりつつある。
鶏が先か卵が先かみたいな話だ。前述の通り、私はBLに導かれ、それを人生の物差しみたいに使ってきた節があるから、私の恋愛とBL教養(?)に一切の相関性がないとは絶対に言えない。
難しい言葉を使えば、私はデミロマンティックの傾向を持っている。これは、親密な関係になった相手にしか恋愛感情が湧かないという傾向だ。一目惚れはしないし、その人との友人歴が何年だろうが、きっかけさえあれば簡単に恋愛に転じてしまうという多少厄介な性質である。
腐女子だからデミロマなのか、デミロマだから腐女子なのか? 多分、どっちもだろう。
自分が映画や小説なんかで恋愛を鑑賞するときも、恋愛をするために出会ったり、出会って一目で恋に落ちたり、そういう関係には何も感じられない。
ずっと傍にいた幼馴染、とか、なんらかの同じグループでずっと一緒に活動してきた人同士、とか、はたまた因縁のライバルだとか、そういう二人が恋をする話には非常に心を動かされてしまう。
そう、大体伝わったと思うが、BLがまさにそうなのだ。BLはヘテロセクシュアルの男同士が、最初は友達や先輩後輩や上司と部下とかチームメイトとか敵対とか、そういう色気のない関係性のなかでまあまあ唐突に恋愛をし始めるストーリーが多い。BLには往々にしてそういうナンセンスさがある。
でも、私にとって、それはナンセンスなようでいて全くナンセンスではない。私もそういう恋愛しかしないからである。
むしろ、それをナンセンスだと思ってしまったら、私は私の恋愛をひどく恥ずかしいもののように感じてしまう。でも、偏見によって、そう感じてしまう。
というのが、10年の腐女子人生最大の悲劇的弊害である。

私は最近、レズビアンであることに関しては肌感覚で否定されていると感じることはほぼなくなった。が、思春期に初恋をしたり腐女子になったりしたあの頃から10年間、“ナンセンスな相手”と恋愛をしてしまうことについてはずっと周りから否定されているような気がしている。
実際には誰もそれを否定していないのかもしれないし、たとえば同性愛であることとかデミロマンティックであることを隠れ蓑にして、本当に否定されているのは私の人間性なのかも(笑)みたいな考え方が私には少なからずあるので、はっきりしたことは本当に、誰にも分からない。
でも、ひとつだけはっきり言えることがある。私にとっては、まったくもって、「この親友同士は、付き合っているのかもしれない」「二人はそんなに仲良しだけど、付き合ってるの?」 みたいなからかいは、ネタは、ひとつも笑えない。
私にとっては涙が出るほどやめてほしいことなのだ。
親友同士が、本当は同時に恋愛関係を結んでいたとして、それはナンセンスなことでもギャグでもなんでもない。
でも、みんな結構平気で笑いのネタにするし、言われた方も「気持ち悪い、最悪だ」と吐き捨てる。
私は正直、「レズ? きも〜い」なんて言われるよりも、よっぽどそれが苦しい。親友と恋愛をするのは、本当に、おかしい、気持ちの悪いことなんじゃないかと思ってしまう。

その反面、これは非常に腐女子っぽい仕草なのだが、私はどこにでもいる腐女子同様、男二人が仲睦まじくしていたら「付き合ってるわ……」と当然のように思う。
でも99%の確率でその二人は多分付き合っていない。そんなことは分かっている。
分かっているのだけれど、二人が本当に付き合っていたら最高だし、その1%の可能性を無視してしまったら、私は私のことを無視することになってしまうのだ。だから、私は分かっていても、自分が素敵だと思う親密な関係の二人に対して「付き合ってるわ……」と、祈りのように呟くのをやめられない。

好きな有名人に対してだってもちろん思う。でも、それを本人の目につく可能性のあるネット上とかで口に出すことは絶対にあり得ないと考えている。
こういう腐女子のこそこそした振る舞いに対して「同性愛差別的だ」という論争も幾度か巻き起こっているが、私は実在する人権のある人間が、他者との関係を第三者に勝手に規定されて吹聴されることは決して許せないので、それをオープンの場では発言しない。
カップリングの解釈違いの腐女子のためではない。それは知らん。
他でもない本人たちの人権の、リアルの、尊重をしたいのだ。
まあ、尊重したいと頭では思いつつも、彼らに自分のBLによってめちゃくちゃに歪められた自らの願望を押し付けてしまっている、っていう罪悪感が、このnoteの本分なんだけれど。
そう、認めます、勿論思っています、私は彼らに恋愛していてほしいと思っています。
が、私たちに彼らが「友情である」とも「恋愛である」とも決定する権限はない、だから腐女子の皆さんはデケエ声でなんでも「恋愛だ!!」なんてふざけ半分で言わないでほしい(確かに私もコソコソそういう悪ふざけのノリで言って楽しんではいるけど)し、腐女子以外の人たちも「恋愛だなんて気持ち悪いことを言うな!!」とか言わないでほしい。どっちもつらい。
たとえば、「エルサに女性の恋人を活動」、めっちゃ気持ち悪かったなあ……。(きになる人はググってね)

で、だから、やっぱり結局BLとして書かれたものは癒しだ。
あの世界でなら私は真剣に恋愛に憧れを持てるし、私が生きているこの世界すら美しいような錯覚もできる。束の間の開放的なひと時が得られる。愛の神話を信仰できる。
私は多分、BLによって構築されてしまった自分を、またさらにBLを通して肯定しようとしている。あの世界を通して、自分自身を何度も再確認しようとしてしまっているのだ。
もしかすると、すごく、不毛なのかもしれない。
でも、もうかれこれ10年になる。これからどうしよう……。
(2019.04.12  みやかわゆき)

「BL進化論(著・溝口彰子)」詳細→http://www.ohtabooks.com/press/2018/12/21110000.html



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?