トイレの神様

 「トイレの神様」

 数十年前。ジャワ島をひとり旅した。
 夕闇迫る古都ジョグジャカルタ。
 バリ・デンパサールからの長距離バスを降り立つが、宿泊先の目星さえつけていない。
 ジェスチャーで意志を伝え、不安いっぱいで飛び乗ったベチャ(三輪型人力車)のおじさんが、ゲストハウスに連れていってくれる。
 食事にもありつき、マンディ(水浴)を済ませ、ジャワコーヒーの沈澱を待ちながら、ロビーでくつろいでいると、初老の白人男性が話しかけてきた。
 ニュージーランドからきた大学教授とその娘だと言う。見れば少し離れたところに、ブロンドの綺麗な少女が座っている。
 ぼくのことをシンガポール人だと思ったと言う。日本人と聞いてなぜか好感を持ってくれた様子で、気が楽になる。
 ジャワ島観光の話題をひとしきり。ふと、教授先生が言う。
 「ソレニシテモ、ツライノワ、トイレノ文化ノ違イデスネ。コレダケワ慣レルコトガデキマセン。」
 それからトイレ談義に花が咲く。
 インドネシアのトイレには紙がない。手桶がひとつある。水を貯めた水槽がある。さて大はどうする?
 インドネシア人の友人もいながら、未だに具体的な様は知るよしはないが、おおよそ右手で水をかけ流し、イスラムの世界で不浄とされる左手で拭き取るらしい。
 いずれにせよ相当の覚悟と熟練がないと、真似ができるものではないだろう。
 現在のインドネシアは変わっているかもしれないが、お国柄が如実に浮き出るのが、このトイレ文化だ。
 それにしても、「トイレの神様」の効果もあるのか、最近の日本のトイレはますます恐ろしいほどに綺麗になっている。かつては敬遠しがちだった、駅のトイレでさえ例外ではなくなりつつある。
 有り難いなあとは思いつつ、これじゃあ、ますます若い人たちが海外に行きたがらなくなるのでは、とも慮る。
 幾分辛くても、異なる海外のトイレ文化の経験も、人生にとって決して悪いものではないと、今の歳にして思う。
 そして異なる国にはちょっぴり異なるトイレの神様がいる気がする。

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