電機業界のメメントモリ その2

 (あらすじ 1985年のプラザ合意を受け、円は急伸。歴史的な円高がどこまで進むのか、固唾を飲んで見守る輸出産業、電機業界。そんな状況もよくわからないまま、米国の家電量販店のバイヤーの仕事に就いた新入社員のぼく。最初に命ぜられた仕事は、'国内メーカーの値上げ要請を抑え込め!'、だった。)

 「価格値上げは受け入れられません。値上げして、売れなくなってもいいんですか?」
 メーカーの営業担当者に、冷たくもいい放った自分の言葉に、心の中でもう一人の自分が呆れていた。
 ところが、しばらくすると、メーカー各社から矢継ぎ早に「V.A.バージョン」の提案が寄せられる。Value Analysis、つまりコスト削減案だ。
 部品サプライヤー、金型射出方法の見直し等の地道な提案もあった。しかし、1ドル235円が2年で120円、半分近くになるという円高だ。それに対応するには、全面的な設計見直しによる、部品点数の抜本的削減が不可避だった。
 V.A.バージョンの技術評価サンプルが押し寄せた(量販店ながら、PB製品であり、自社工場も持っていて、独自の製品評価認定基準があった)。
 ぼくは、来る日も来る日も、技術部のワークベンチでエンジニアの隣に座り、実際のサンプルを動かし、測定器の波形と睨めっこしながら、電気工学入門の解説を受けた。が、もとより理科に弱い。当時は頭に入った気がしなかった。
 それが、今になってようやく、当時何が起こっていたのか、像を結び始めた気がする。
 その頃、何度エンジニアに聞いても理解しづらかった概念に、「Threshold」と言うものがあった。日本語で閾値。もっと難しい。
 単純化による誤解を恐れずに言えば、例えば、音声ボリューム。ノブをいくつめの目盛りに合わせれば音が聞こえ始め、いくつめで音が割れるかといった設計を制御する設定値のことだ。
 簡単に思えるかもしれないが、アナログ時代には、こういったことこそが、メーカーの内部に閉じ込められていた、暗黙的な設計ノウハウだったのだと思う。
 超円高に対応するためのV.A.の過程の中で、こういった設計ノウハウが、部品点数削減のため、どんどんICチップの中に集積されていくのを目の当たりにした。
 文字通りの、血の滲むようなコスト削減と努力の結晶。しかし、このことが電機産業のその後の大きな構造変化の始点になったいたと、皆が気付くのは後のことだ。
 日本企業は一定の生産拠点の海外移転も進めつつ、未曾有の円高を(少なくとも表面上は)克服し、1989年には円高不況と言う言葉もマスコミから姿を消していた。
 大学を出たてのぼくは、そんなメーカーにそこはかとない敬意を抱きつつ、なんだかそれが神風と言うか、魔法のように思えた。メーカーの人たちは、自分とは異なる人種のようで、ガリバー旅行記に登場する勤勉で正道を旨とする小人たちのようにも見えていた。
 日本人は誰も皆、自信に満ち溢れているようだった。ヴォーゲルのジャパンアズナンバーワンが改めてもてはやされた。
 インターネットはおろか、Windows前夜のアメリカは霞んで見え、そして、日本経済はバブル期に突入していった。
 一方、同じ時期、業界をもうひとつの変化の渦が襲う。
 

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