電機業界のメメントモリ その3

(あらすじ - プラザ合意翌年の円高旋風吹き荒ぶ86年。米国の家電量販店のバイヤーの仕事についたぼくが見たのは、痛ましくも果敢に円高を乗り越えていったメーカーの姿だった。そんな業界を包み込む、もうひとつの大きな変化があった。)

 スピーカーから、いつもの試聴用のオリビア・ニュートンジョン'PHYSICAL'が流れる。しばらくぼくはじっと耳を凝らし、やがて冷や汗が頬をつたうのを感じていた。
 「これはきっと大変なことになる。」
 香港メーカーから送り込まれたCDラジカセの評価サンプル。エンジニアと性能評価を始めたぼくは直感的にそう思った。今までの香港製品とは比べ物にならない、少なくとも米国消費者市場には必要十分な製品性能がそこにあった。
 東京には日本メーカーの製品だけではなく、香港、台湾、韓国の製品も集められ、東京でお墨付きを得た製品だけが、テキサス本社での最終評価を許された。
 それまで、特に香港の製品は粗悪なものが多かった。SN比やTHD(全高調波歪)と言ったパラメータも懸命にエンジニアから教わったが、そんな数字や波形を見るまでもなく、アメリカの消費者にも恐らくは受け入れがたい、明らかに低品質な製品だった。
 機構の設計や組み立て品質の問題も多かったが、何よりも根本的に音が悪い。問題点の指摘や、技術改善案を、幾度となく評価レポートとして差し戻したが、さして進歩は見られなかった。
 そんな状況をガラリと変えたのが、CDプレーヤーのコモディティ化だった。
 CDプレーヤーは当初、日本製しかなかった。ピックアップと呼ばれるレコード針のような読み取り部品、並びに機構部品は日本メーカーしか作れなかったからだ。
 日本では85年にCDのレンタルが解禁になり(同年、TSUTAYAのカルチュア・コンビニエンス・クラブが大阪で設立)、翌年にはCDの売り上げがLPレコードのそれを初めて上回り、市場は安価な再生機器を求めていた。
 そんな背景もあり、ピックアップと機構部品を半製品として一体で供給する、国内外への外販が始まった。その結果、ぼくが試聴した香港のCDラジカセのように、さほど技術力のないメーカーでも、それを組み込めば、品質に差し障りのない製品が簡単にできるようになった。
 オーディオ業界のパラダイムが変わった。ぼくが直感的に感じた通り、革命的な変化がもたらされた。
 円高のあおりと、デジタル化による競争優位の喪失により、オーディオ業界の赤井電機、山水電機、Nakamichiと言った名だたる名門老舗メーカーが、80年代末から90年代にかけて、一斉に姿を消していった。替わって、香港を中心に所謂NIES家電のオーディオ機器が米国を皮切りに世界を席巻した。
 そんな中、ひとり気を吐く日本のオーディオメーカーがあった。ソニーから来た卯木肇社長率いるAIWAだ。
 
 
 

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