電機業界のメメントモリ その1

 85年9月のプラザ合意を受け、1ドル240円だった為替レートは、翌年春には170円前後になり、なおも円高は急激に進んでいた。輸出産業の関係者は固唾を呑み、一体どこまで円高が進むのか見守っていた。
 そんな86年春、風雲急を告げる電機業界の、その殺気だった空気などは露知らず、社会人1年生に胸踊らせ、そこに飛び込んだお目出度い若者がいた。
 ぼくのことだ。メーカーではない。米国の家電チェーン店のプライベイトブランドの商品企画とバイヤーの役割を担う仕事だった。
 最初に言い渡された仕事は、円高に泣くメーカーからの値上げ要求を断る、と言う因果な内容だった。
 「アメリカの消費者は円高など理解しません。値上げすれば売れなくなります。取引を続けたいのなら、価格は維持して下さい。ただし、コスト削減の為の提案は歓迎します。」
 ドル建てビジネスだった。辛い仕事だった。

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