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市三坂から六本木界隈の往時を偲ぶ

 昨日坂の話など始めてしまった。ならば毎日往復する市三坂を語らぬ訳にはいかない。六本木交差点から一丁目辺りまで六本木通りを溜池方面へ下る坂だ。

 今の六本木一丁目界隈で明治の名主の名を取った市兵衛町。
かたや六本木交差点の溜池側一帯は江戸時代初期に越前宰相松平三河守の屋敷があった所以で三河台町と呼ばれた。
各々の頭の一字を繋いで市三坂が命名されこの坂が開かれたのは明治20年前後だと言う。

 市兵衛町。永井荷風が1920年から終戦の年の3月東京大空襲で焼失するまで偏倚館なる居を構え、断腸亭日常等の名作を世に送り出した。明治初期には皇女和宮や三条実美もここに住まいを移し、かの湯川博士もこの町に生を受けた。

 前にも書いたが市兵衛町外れ辺りの当社のビルの建つ地には以前関東大震災で被災し上野から移転した麻布文明堂があった。麻布文明堂は今は菓子を止めabjoyと言う小物やアロマテラピーグッズを扱う可愛らしい店を市三坂沿いに開いている。

 三河台町は元々武家屋敷の町だった。江戸中期には馬場や薬草の栽培場も設けられた。明治5年に三河台町が制定され、やがて市井が開け志賀直哉がこの町で生まれ育ち、樋口一葉も幼少時今の俳優座の隣り辺りに住んだらしい。

 この坂にも首都高ができるまで都電が走っていた(1925-1967)。この霞町線は溜池から六本木、西麻布を経て南青山まで通じていた。南青山で三宅坂から赤坂見附を経て来る青山線に乗り換えれば渋谷まで行くことができた。日本橋のみならずここでも首都高は東京の風景というものを奪っている。
 往時を偲べばありきたりの景色も輝きをもって多くの物語を語りかけてくれる。

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