見出し画像

かりふぉるにあ丸沈没事故の記憶

 「みんな行ってくれ。わしゃ、残るわ」

 冬の雨を見ると、思い出す事件がある。
 1970年2月9日。米国より帰国の途にあった巨大貨物船「かりふぉるにあ丸」6万2千トンは、大しけの千葉県野島崎東方沖、320キロ海域で2度の大波を受け、左舷が破損、難破する。
 翌朝、荒天の中、決死の覚悟で救助船を出したニュージーランド船により、沈没直前の船から乗員22名が救助される。しかし、住村博船長は行方不明となっていた6名を慮り、下船を拒否。冒頭の言葉を最期に、かりふぉるにあ丸と共に大平洋に殉職をした。(船長の他、4名が亡くなる、2名は漂流のところを救助)
 船長のこの選択は、当時の法律に船長の最後退船義務があったこと(この事故をきっかけに人権論が巻き起こり廃止)が背景にあるが、やはり昭和のこの頃迄は日本の職業人には確かにあった、高い精神性の証左なのだと思う。
 救難された乗員のひとりが、実はぼくの父である。船長を、一緒に、無理矢理にでも下船させるべきだった、と悔やむ父を、小学生のぼくは何度見ただろう。
 大阪万博の年、日本が曲がり角に差し掛かったその年、わが家に重い記憶を留める事件だ。
 
#かりふぉるにあ丸 #海難事故

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?