マロ

うちの猫はもうおじいちゃんで、
ここ数ヶ月でみるみる痩せてきてしまった。
体調もよくないようで、お腹をさわると嫌がる。
毎朝吐いたり、寝てばかりいるようだ。

病名などは明確にはわからないけど、
どのあたりが悪いんだろうなというのは
なんとなく話している。
だけど、もらってきた薬を混ぜるとご飯を丸ごと食べなかったりする。病院に連れていくとそっちのストレスがまたかかってしまったり、直接病気についてなにかをしてあげることが難しい。

急性的なものだったらまた別だが、慢性的なもの。人間だったら冷えとりをすすめられるけど、マロに半身浴させて靴下を履かせるわけにいかない。健康的なご飯をいくつも選んで買ってきても気に入らないと全く食べない。となると、医療に頼る。だけど手術もできないだろう、薬も無理やり飲ませられないし…と、試行錯誤の結果、そこで止まってしまう。

きっと、具体的な処置もあるのだろう。
「病院に連れていくことのストレス」とかなんとか言ってないで、無理やり連れて行ったりすれば、もしかしたら、なにかひとつで改善されたり…。そんな未来があるなら、やってみるべきかとそわそわしてしまう。

高齢については、治るものではない。治すものでもない。人間も歳をとればどこかが痛んだり、病んだり…でも、もし痛みがずっとありそうなら、痛み止めを…でも、苦い薬を毎日飲ませるのもどうか…なんて、誰のためかわからないことを並べてしまう。

どこからが病気でどこからが高齢なのか、健やかそうに寝ている時間も多いから、おろおろするばかり。

今までマロが私や家族に与えてくれたものを、言葉で表そうとするけれど、どんな表現をしても、マロはマロだ。その存在、その時間、その暖かみそのものだ。

きっとうちで幸せなことばかりじゃなかったろう。
だけどうちで育って、今日まで生きてきてくれている。
マロがマロとして生きてくれていることが、ただひとつの事実で真実だ。私を見つめる目、まばたきで合図してくれるその目。寝そべった私の胸のうえで、喉をゴロゴロと鳴らしてくれる。
 

小学生のとき、はじめて家にやってきて、
猫の毛は近くで見るとこんなにモジャモジャ密集してるのかと知った。こんなに密集した毛のこの子を、これから十数年愛せるのかと不安になった。あほな発想すぎて今も忘れていない。

マロは小さくて、私も幼くて、思うようにいかなくていつも泣いたりした。私がお願いしてマロに来てもらったのに、マロは私に懐かずにやきもきした。今思えば、猫が自分を思い通りに動かそうとする小学生をいやがるのは当たり前だけど、当時は悲しかったなぁ。

マロにマロという名前がつく前に、
レオという名前の候補もあった、というか私が出した。かっこいい名前にしたかったんだろう。だけどマロには麻呂まゆげの模様があって、お母さんもそっちの候補が気に入って、「マロ」が優勢になってしまった。
私は抵抗して、数日はレオとも呼んだりしたけれど、結局「マロ」の勢力、母の意向に負けてしまった。
負けて本当によかったと思う。マロはマロだ。

できることはブラシをしてあげること。お水を頻繁に替えてあげること。声をかけてなでてあげること。

マロが子どものときから、本当はもっとできることがあっただろう。たとえば手づくりご飯をあげるとか、毎日ちゃんと時間をとって遊んで、マロがどんなに時間をかけておもちゃを狙っても、粘ってじっと待ってあげたり。
懺悔を並べて自分を痛めてもマロの体調はよくならないのに。

マロの爪を切りに隔週で実家に帰ってきている。しかし今回は連続で来た。先週はマロとの時間が足りなかった気がして。だけど毎回そう思うのだろう。
いつが最後になるかなんてわからない。覚悟なんて意味がないとおばあちゃんのときのことで知っている。

少しでも多く過ごす。だけど構いすぎると噛まれる。手に傷ができても痛くない。親の心子知らず。

でもマロは私の心と通じ合う。目と目で。


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